用語の使い方とその意味


関さんから「数学的法則性とその現実への適用」のコメント欄に「法則」という言葉の使い方に対する違和感を語るコメントをもらった。これは、その違和感というのは十分理解できる。僕も、「科学的な」という修飾語を付した「法則」に関しては、仮説実験の論理によって証明されたものという意味を含めて使っていたからだ。

このエントリーで「結合法則」という言葉を使ったのは、無意識のうちにそのような用語の使い方をしたのだが、よく考えてみるとやはり使うには使っただけの理由があったことに気が付いた。それは短いコメント欄では説明しきれないので、改めて一つのエントリーとして、どうして「結合法則」という言葉を使ったのかを説明してみたいと思う。

僕が無意識のうちに「結合法則」という言葉を使ったのは、それが数学の中でもごく当たり前に使われているという習慣からくるものが大きい。ウィキペディアでも「結合法則」という項目があって、それが説明されている。これはおそらく「associative law」という英語の翻訳のようなものとして使われているのだろうと思う。これは、他には「結合則」・「結合律」とも呼ばれていることがそこでは説明されている。

用語の正確さから言えば、「結合律」と呼んだ方がよかったかもしれない。しかし、僕はなぜ無意識のうちに「結合法則」という言葉のほうを選んでしまったのか。習慣として使っているからという理由が大きいものの、こちらのほうが文脈上ふさわしかったという判断もあったように感じる。

数学では真になる命題は、関さんの指摘のように定理と呼ばれる。それは純粋に形式論理によって導かれる。仮説実験の論理は必要ない。このように導かれたものは、例えば「ピタゴラスの定理」とは呼ばれるが、「ピタゴラスの法則」とは呼ばれない。しかし、一方では「結合法則」という言い方もあり、「分配法則」という言い方はもっと一般的に数学の中で使われる。この両者にはどこに違いがあるのだろうか。

一つの違いは、「ピタゴラスの定理」が、より基本的な命題から導かれる複雑な命題であるということが言える。これはユークリッド幾何で言えば、いくつかの基本命題である公理から導かれるもので、それが真であるという根拠を他の命題に持つ。つまりそれが真であることが形式論理によって確かめられるということをもって、それが定理であると呼ばれる資格をもつ。

しかし、「結合法則」や「分配法則」のほうは、より基本的な命題から導かれるというものではない。その意味では、これは定理という呼び方は出来ない。むしろ、これがより基本的な命題だという意味で「公理」になる場合が多い。それでは、僕の「数学的法則性とその現実への適用」というエントリーでも「結合法則」を公理として「結合の公理」あるいは「結合律」として語っておいたほうがよかっただろうか。これには、今度は僕のほうが違和感を感じてしまう。

群とか体・環のような代数系と呼ばれるものを論じる文脈であれば、「結合法則」は公理として「結合律」と呼ぶのをためらわなかっただろうが、あのエントリーの文脈は、代数系という体系的な対象について論じたかったわけではない。むしろ、(マイナス)×(マイナス)が(プラス)になるということの直感的理解を図るにはどのような方法があるかという、数学教育の問題として論じたいという文脈があった。

結合法則」は、どのような演算を設定しても満たされるというものではない。「結合法則」が満たされないような演算を設定することも出来る。それが満たされないときもあるという意味で、ある種の法則だという認識も生まれてくる。それが常に形式論理的に導かれるものであれば、法則だと呼ぶのはためらわれるが、満たされるときもあり、満たされないときもあるという認識の下では、満たされるときにはそれは法則として機能していると解釈することも出来る。

あそこで論じていたのは、負の数の掛け算というものが、現実に表れる具体例を利用して(マイナス)×(マイナス)が(プラス)になるという直感的理解に利用しようという、教育的な問題だ。これは直感的理解のためのものなので、具体性を持ってイメージできるものでなければならない。その意味で、現実とのつながりがあり、「結合法則」が成り立つような対象の下でその計算を考えるということになる。

そうすると実は、現実の具体的な側面を考察することなく、「結合法則」とその他いくつかの法則性が成り立つことを確認できれば、これを前提として(マイナス)×(マイナス)が(プラス)になることは形式論理で導けてしまう。つまり定理になってしまうのだ。

それはいったい何を意味するかといえば、(マイナス)×(マイナス)が(プラス)になるというのは、それを十分よく理解していなくても、丸暗記でこのことが正しいと思い込んでいても、正解を出すという点においてはまったく支障がないということを意味する。どんな対象であっても、「結合法則」その他が成立している対象(集合)であれば、(マイナス)×(マイナス)が(プラス)になるのであるから、安心してそのように計算が出来るのである。

もしこの計算で間違いを引き起こすとすれば、シカゴ・ブルースさんも語っていたが、(借金)×(借金)がプラスの答えになってしまうというような計算をしてしまうときだ。だが、この計算は計算そのものの間違いではなく、計算の現実への適用を間違えていることが、その間違いの原因だ。だから本来は、計算そのものの意味を教えることによって克服されなければならない間違いだが、丸暗記によって計算を覚えていると、このような間違いに陥る可能性は高くなる。

それは、負の数のイメージを作るために、現実に存在する負の数の解釈から、負の数を抽象する過程において「借金」というのはとても分かりやすいのでよく使われるからだ。負の数というのは、普通に存在する正の数の反対のイメージを持っている。これは「存在する」ということに反するので、普通は「存在しない」ものだ。しかし「存在しない」というイメージは数学においてはゼロになってしまう。反対の作用として存在するというイメージはたいへん難しい。それが「借金」というものを考えると、借用書という形で、目に見えるものとして存在をイメージ出来たりする。

「借金」が負の数のイメージとして強くなると、その具体性を捨象して純粋に負の数として抽象された後にも、その具体性のイメージが引きずられる。そうすると、(マイナス)×(マイナス)が(プラス)になるという場面で、もはや具体性を失った(マイナス)という数が「借金」としてのイメージを伴って想像されてしまう。そうすると(借金)×(借金)が(プラス)になるのはおかしいという違和感が生まれてくる。

このような間違いは、数学教育においては必然的に生まれてきそうなものとも感じる。それは、数学教育においては、最終的には純粋に抽象的な対象の概念を持つことを目指すものの、最初の段階でいきなりそれは難しいので、まずは具体性を持ちながらもその具体性が捨象できるような・直感的に理解しやすいもので学び始めるということが必要になるからだ。そのようなもので最も優れたふさわしいものをシェーマと呼び、水道方式におけるタイルはそのようなものだろう。シカゴ・ブルースさんの負の数のタイルという発想も、具体性と抽象性とのバランスという意味から言えば、「借金」よりも、負の数の計算を学ぶにはふさわしいものになっているのではないかと思う。

数学教育においては、(マイナス)×(マイナス)が(プラス)になるというのは、天下り的に公理として提示されるのではなく、最初は現実の法則性を導くように、現実の中に具体例を探していきながら、それがだんだんと抽象されていって数学的な定理となっていくことがふさわしいと思われる。そのような観点から言えば、数学教育という視点では「結合法則」と呼んだ方が文脈上もふさわしいのではないかという気がする。

数学的世界においても、その世界の全体像が確立してしまえば、それは公理系として体系化される。そうなれば、そこに登場する真理は、公理であるか・それから導かれる定理であるかどちらかになるだろう。しかし、まだ全体像が確定しておらず、その数学的世界がどのような世界になるかを探っていかなければならない段階では、具体的な現象を見て法則性を見つけながら全体像を想像していく過程が必要だろうと思う。そのような時は、公理や定理と呼ぶよりも、一つの法則として捉えるという文脈で語ることがふさわしいのではないかと思う。そのようなことをいつも考えていたので、無意識のうちに「結合法則」という言い方をしたのだろうと思う。だが、これは「結合律」と言っても、あのエントリーでの論理の展開はまったく変わらない。だから、そう呼んでもよかっただろうとは思う。

以上が、僕が「結合法則」という用語を使ったことの考察だが、より一般的に用語という言葉の問題としては、そこで何が論じられているかということで用語の意味が変わるということは大いにありうるという理解が必要だろうと思う。「言語」という言葉を使っていても、それが言語そのものを論じている「言語論」での言葉なのか、それとも社会の中で行われているコミュニケーションを語るときに提出されている「言語」という言葉なのかで、その意味が変わってきても仕方がないのではないかと思う。

言語論としては賛成できなくても、コミュニケーションという言語よりも広い意味での現象を語るのに比喩的に設定された意味で「言語」という言葉を使うこともありうるのではないかと思う。ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という言い方は、人間社会におけるコミュニケーションの現象のほとんどすべてを「言語」という比喩で捉えようとしているようにも見える。これは、言語論という観点から言えばかなり違和感のある用語の使い方だが、それによって人間に特徴的な現象の説明がよく出来るなら、この概念は有効性を持つといえる。そして、有効性を持つ限りにおいては、このような用語の使い方もまた許されるのだと僕は思う。

野矢茂樹さんは、『論理哲学論考』におけるウィトゲンシュタインの「言語」という用語の使い方についても触れているが、それは普通の意味では言語と呼べないようなものも含む広い意味で使われている。しかし、それは思考の限界を確定するために言語の限界を求めようという意図にとっては有効性を持つものとして説明されている。用語の使い方として深く考えてみたいものだと思う。

また宮台真司氏の「社会学入門講座」では、意味というものを「行為の意味」として考察している。それは「示唆性」「二重の選択性」「否定性」「選びなおし」という機能的な側面で定義されている。意味を理解するというのは、このような機能において理解することだと語られている。これなども、言語論的な方向で「意味」というものを考えるとちょっと違和感を感じるものだ。

しかし社会学的な観点で、コミュニケーションの連鎖という中で行為の意味を捉えようとすれば、この行為の意味の概念は有効に働くのではないかと思う。それは誰が判断しても同じような結果を導くという客観性を持った概念になっているのではないかと思う。

言葉の概念というのは、それが使われている文脈によってふさわしいものがあるのだと思う。言葉には、言葉に本来備わっている意味はないのであって、それがどのように使われるかで意味が変わると捉えたほうがいいのではないだろうか。「差別」という現象に言葉が絡むときも、同じ言葉が「差別(いわゆる不当な差別)」にもなるし、そうならないときもある。だが、言葉は、表現したいと思ったことが、必ずしもそのとおりに受け取られるものではないので、何がふさわしい表現かは難しい。書き手としては、出来るだけ自分が表現したいことを正確に伝える書き方に努め、読み手としては、書き手が本当に表現したいことを正確に読み取ることに努めるしかないのだろうなと思う。