『論理哲学論考』における「法則」という言葉


野矢茂樹さんが翻訳したウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』(岩波文庫)には、用語の索引がついている。その中から「法則」という言葉に関する命題を拾ってみて、ウィトゲンシュタインが「法則」という言葉をどのように使っているかを考えてみようと思う。「法則」というような、一般性の高い言葉は、日常的にも使われるし、比喩的にも使われたりして、その意味は非常に多様なものがある。文脈から決まってくる意味を読み取ることが難しいとも言えるものだ。

ウィトゲンシュタインは哲学者であり、哲学者というのは非常に厳密な論理を展開する。しかもウィトゲンシュタインというのは、余計な説明を一切省き、その本質だけを凝縮して語るような文体を持っている。「法則」という言葉を用いるときも、僕のように無意識に使ってしまうということはないだろうと思う。吟味に吟味を重ねてその言葉を選んだに違いない。

ただこの『論理哲学論考』は翻訳なので、日本語的なニュアンスと違うものがあるということが考えられるかもしれない。しかし、そもそも「法則」という言葉が、今のような使われ方をしているのは、明治以後に近代科学が輸入されてからのことではないかとも思われるので、もともとが翻訳概念だと言ってもいいかもしれない。ともかく、ウィトゲンシュタインが命題の中で語る「法則」という言葉が、その命題の中ではどのような意味で使われているのかを考えてみようと思う。

まずは、次の命題が最初に索引ではチェックされている。

3.031 かつて人はこう言った。神はすべてを創造しうる。ただ論理法則に反することを除いては、と。――つまり、「非論理的」な世界について、それがどのようであるかなど、我々には語り得ないのである。


僕もときどき「論理法則」という言葉を使うことがある。これは、「法則」というものが自然あるいは社会というような、現実に存在するものを対象として認識されると考えると、ちょっと違和感を感じるものではないかと思う。「論理法則」と呼ばれているものは、僕の場合は「排中律」や「矛盾律」を指したり、「三段論法」を指したりする。これらは、現実の世界がどうであれ、論理として自立的に、それらの現実とは独立して成立する。論理の世界は、現実と無関係に完結している。

論理の世界が完結しているというのは、例えば命題論理を公理的に展開すると、いくつかの基本命題を前提として、新たな命題を産むアルゴリズムを設定し、そのアルゴリズムによって生成される命題のみを真理であると規定すれば、その体系は無矛盾で完全であることが証明されるということだ。

これが数学の世界にまで広がっていくと、論理ほど単純化された対象にならないので、ゲーデルが証明したように、無矛盾性と完全性が両立しなくなる。数学においては、もっとも単純だと思われる自然数論でさえも、無矛盾だと仮定するとそこからは証明できない命題が存在することが帰結される。

形式論理では、矛盾した命題からはすべての命題を引き出すことが出来ることが、そのアルゴリズムから証明できる。だから、無矛盾ではない、すなわち矛盾している体系は完全性は保証される。しかし、その完全性は、あらゆる命題が定理になるという無意味な完全性になる。だから、数学にとっては無矛盾であることが本質的に重要だ。その無矛盾の体系では数学は完結しないということがゲーデルによって証明された。

ただ、このことはそれほど数学にとっては危機ではないと僕は思っている。これは、人間が現実存在であることの条件から来ている制限であって、神にでもなってすべてをいっぺんに把握するという、実無限の認識を持たない限り数学は完結しないだろうと思うが、現実に生きている限りではおそらく矛盾には遭遇しないだろうから、現実の中で数学を展開している限りでは完全でなくてもかまわないのだと思っている。

さて現実とは無関係な論理(形式論理)の定理あるいは原理をなぜ「法則」と呼ぶのだろうか。それは現実が合理的なものである・世界は合理的な存在として人間には見えるということからではないかと思う。形式論理は、公理論的に展開すれば、基本的な公理をルールとするゲームの展開のようなものになる。このゲームは、純粋に頭の中で行われる。それは言葉遊びのようなものといってもいいだろう。

この言葉だけのゲームが、実は現実をよく表している、現実にふさわしいモデルになっているという主張が、上のウィトゲンシュタインにも見られるのではないかと思う。神が創造しうるものというのは、現実化しうるものという意味に受け取れる。つまり現実に存在するものは、論理に従っている。論理そのものは言葉の問題だが、現実がそれに従うという適用の問題がそこに含まれると、論理における正しい命題が、現実の「法則」として認識されるという理解が出来るのではないかと思う。

神が創造した現実は、論理に従っているということが確認される限りで、論理は現実に「法則」として現れている。それを「論理法則」と呼んでいるのではないかと思う。全能の神でさえも「論理法則」に反する現実を創造することが出来ない。これは神という概念に矛盾するのかもしれないが、それくらい論理というものが世界を支配する力が強いということだろうか。

ともかくも、自然に存在している対象について語ったものではなく、人間が頭の中で作り出したルールである論理も、現実とのつながりを持つ場合には「法則」という概念で捉えることが出来るのではないかと思う。論理法則は、現実の中にそれに反する事実を見つけることができないというほど強いもので、その確信がどこから生まれるかということは考えてみたいことだが、そのような原理としての法則として現実に適用されているのではないかと思う。

次に「法則」という言葉が現れるのは次の命題である。

3.0321 なるほど物理法則に反した事態を空間的に描写することはできよう。しかし、幾何法則に反した事態を空間的に描写することは出来ない。


ここで使われている「物理法則」という言葉は普通の使い方なので問題はないだろう。問題は「幾何法則」という言い方だ。「幾何」は純粋な数学であり、それはやはり定理と呼んだ方がいいのではないかという違和感を抱くかもしれない。ウィトゲンシュタインは、何故にここで「幾何」における「法則」を語っているのだろうか。

これもやはり現実とのつながりがあるからのような気がする。「物理法則」に反した事態というのは、例えば重力の法則に反するような想像をしてSF的な世界を描写することが出来るということではないかと思う。これがなぜ出来るかといえば、「物理法則」そのものは、空間という、それが成立する場についての記述をしていないからだ。空間が存在することは現実的な前提とされているので、その基礎に対して違うものを想像で作り出すことが出来る。

しかし、幾何のほうは、空間そのものの記述をしている。だから、この記述が現実にふさわしいモデルになっている限りでは、それに反した描写は出来ないのだ。人間が実際に操作できる範囲の空間は、ユークリッド幾何のモデルとして考えるのがふさわしいだろう。幾何には非ユークリッド幾何もあるが、これもそれがふさわしい現実が見つかれば、その現実に対しては、それに反して描写することが出来ない「幾何法則」として機能するだろう。

次に語られる「法則」は次のようなものである。

4.0141 ある一般的な規則が存在し、それによって音楽家は総譜から交響曲を読み取ることが可能となり、人がレコード盤の溝から交響曲を引き出すことが可能となる。また、その規則によって、総譜から交響曲が読み取られたように、交響曲を聞いた人がそこから総譜を導き出すことが出来る。まさにこの点に、見かけ上まったく異なる形象における内的な類似性が存している。そしてその規則とは、交響曲を音符言語に射影する射影法則に他ならない。それは音符言語をレコード盤の言語に翻訳する規則である。


ここで語られている「射影法則」というのは、ある種のルール(規則)だと考えられる。これは、自然に存在するものではなく、形象という姿・形が違うものの変換(コピー)を媒介するルールである。数学で言えば写像とか関数と呼ばれるような概念になるだろうか。

ここで語られている音符は自然の中に発見するものでなく、ある目的にしたがって、その目的が実現するように人間が作るものだ。それすらも「法則」という呼び方をするのである。音符というのは、人間と関係なく自然に発生するものではない。どの音をどのように表現するかというルールを定めて、そのルールに従って表現し、ルールに従って読むことが出来たとき、音楽というものがコピーされて表現される。これは概念としては「法則」というよりも「規則」と呼んだ方がふさわしいようなものだろう。

しかしウィトゲンシュタインはそれを「法則」と呼ぶ。それはなぜだろうか。それは言語との連想でそう語られているのではないだろうか。これは言語の翻訳のようなものとして語られている。この言語に関しては、そのルールは人間が作り出したものとはいえ、意識的に作られたものではなく、長い歴史を経て自然発生的に作られてきたように感じる。誰か個人の創造に帰するものではない。

このような言語の規則に関しては、現象を集めて、何らかの共通のものが見つかればそれは「法則」として認識されるだろう。それを創造したものがはっきりしていれば、それは「法則」というよりも「規則」と呼んだ方がふさわしい。しかし、いつのまにかそうなっているという、言語ゲーム的な現象に関しては、「規則」というよりも「法則」として認識されるのではないかと思う。ここでは、言語のそういう「法則性」との連想で、音符を言語のように見立てて比喩的に「射影法則」と語っているように感じる。

「法則」という言葉は、現実と何らかのつながりを持つ「規則」「ルール」と呼べるようなものに対して使われているように感じる。「法則」というのは、それが何らかの「規則」「ルール」であるが、現実に従わざるを得ないという必然性を感じるものとして捉えられているのではないかと思う。この必然性がどのようなレベルにあるかで、ことわざ的な「法則」があったり、科学の「法則」があったり、論理の「法則」があったりするのではないかと思う。僕も、無意識のうちではあったが、そのような「法則」という言葉の使い方をしていたように思う。