微分が運動の表現であることについて


微分という数学の計算が運動の表現であることは、ある意味では自明のことだとも思われる。それは、ニュートンが自らの力学の解析に利用するために発明した計算であり、ニュートン力学は、動力学として運動の解析をするものだからだ。だから、その生まれてきた過程を見れば、微分が運動を表現している、それは位置情報の関数を微分することによって速度が得られ、速度を微分すれば加速度が得られるというように、運動を表しているものと受け取ることが出来る。

だが、微分が運動の表現であるということをこの意味で知っているというのは、知識としてそれを把握しているということにしか過ぎないのではないかと僕は感じる。マルクスは、エンゲルスが「数学に通じた人」と呼んでいたが、マルクスが残した数学に関する論文が「数学手稿」(大月書店)として本になっている。これを見ると、微分が運動の表現であるということを、実感として述べようとしていたのではないかと感じるところがある。以下、それを考えてみようと思う。

板倉さんが指摘したように、運動というのは、論理の言葉で記述しようとするとどうしても矛盾したような表現が入ってしまう。ゼノンのパラドックスは、その矛盾した点を鋭く突いたものになっている。この、ゼノンのパラドックスの表現との類似性も微分という計算が持っているのではないかと僕は感じる。

まずは、「限りなく近づく」という極限の表現の中に、運動する状態というものが記述されているのを感じるが、これを静止の表現である論理・数学の世界で表現するとどのような矛盾が現れるかを見てみたい。マルクスが考察の対象としているのは、簡単な1次関数<y=ax>の微分についてだ。

この関数において、xとx1という二つの異なった値を考える。それぞれの値のときのyは<y=ax>であり,<y1=ax1>であると考える。このとき、x1をxの方へ近づけると、それに伴ってy1もyに近づいていく。この過程の途中の一瞬を静止したものとして表現すれば、

   y1−y=a(x1−x)

というものになる。このx1は近づいていく過程ではxに一致することはないので、<x1−x>は0(ゼロ)になることはない。そこで、この<x1−x>で両辺を割ってやると、

  (y1−y)/(x1−x)=a

という表現を得る。これは、

   △y/△x=a

という表現としても書かれる。これは、「限りなく近づく」という極限の運動を、ある一瞬の静止画像として表現したものだが、この表現自体は運動ではない。「限りなく近づく」ということが表現されていないからだ。だから、この静止だけでは運動にはならないが、運動を静止としてしか表現できない論理では、ゼノンが語るように「運動」というものは、「止まっていると同時に止まっていない」という矛盾した表現として語ることになる。この矛盾が微分の表現にどのような形で現れるかを見てみたい。上の表現で極限に到達した状態を想像すると、そこではx1がxに一致した姿が得られる。極限に到達した時は、そこで運動が終わったことを意味し、静止した表現になるからだ。そこでは、

  x1―x=0になり、それに伴ってy1−y=0になる。

このとき、上の表現は、

  0/0=a

と書かれることになり、0で割り算をするという、数学法則に反する矛盾が現れる。ゼノンがその表現において形式論理学上の矛盾を引き出したように、微分の表現は、数学上の矛盾・すなわち形式論理学的な矛盾の表現を導く。この矛盾を数学はどうやって処理しているだろうか。形式論理的な矛盾を許容すれば、数学はまったく無用の役立たないものになる。その真理性はまったく信用できないものになるのだ。矛盾した数学体系では、あらゆる命題が定理として導かれてしまう。つまり、正しいか正しくないかという区別が意味をなさなくなるのだ。

この「0/0」という表現に対して、それは限りなく近づくという過程を表しているのだから、本当は0ではないのだという考えを、マルクスは「気休め」だとして排除している。極限というのは、x1とxが一致した状態を想定して、そこまで運動をしつづけるのだと考えているのである。つまり、極限まで考えれば、計算は0にしないわけにはいかない。実際に微分の計算では、最終的な答えを出す段階では<x1−x>を0にしなければ導関数を決定することが出来ない。上の1次関数では分かりにくいが、x^2をxの2乗の表現として2次関数を書いてみると、

   y1=x1^2、y=x^2

において、x1がxに近づいていき、その極限を考えると、

   y1−y=x1^2−x^2
       =(x1+x)(x1−x)

従って、
   △y/△x=(y1―y)/(x1―x)
        =x1+x

この微分の計算において、x1とxを一致させなければ、2次関数「Y=x^2」の導関数が2xになるという計算を導くことが出来ない。この計算においては、x1はxと一致しなければならないのだ。極限に至る過程を静止画像で切り取れば0/0という表現にはならない。しかし、極限にまで至った運動の表現では、どうしても0/0という矛盾した表現が必要になる。

マルクスは、この0/0の表現を「否定の否定」として理解すべきであるという書き方をしている。つまり、単純に0の割り算として出てきたのではなく、ある考察の過程として、否定の否定を経て、導き出されたものとして過程の違いを見なければならないということだ。これはたいへん難しいということを感じる。だが、この表現を「否定の否定」として理解しなければ、微分が運動の表現であるということを実感することが出来ないのではないかと思う。

否定の否定」の過程をもっと判りやすく見ることが出来ないかと思う。それには、次のような例を利用するといいのではないかとも感じる。無限小数の表現において、9が無限に続くような次の表現を考えてみる。

  0.9999999999999………

上の「…」の部分は、9が無限に続くことを表現しているのだが、実際には無限に書くことは出来ないので、点を書くことによって象徴的な表現にしてある。これは、実は極限を表現していると考えることが出来る。そうすると、上の数は、極限としては正確に1と一致すると考えるのが数学的な形式論理の考えになる。これは、見た感じからする直感とはかけ離れるような印象を与える。上の数字はどうしても1と同じには見えないのだ。

上の数字が無限に続くものではなく、どこかで止まってしまったらそれは1と一致することはない。どんなに9がたくさんあっても、それは1に近い数ではあっても、決して1ではない。しかし、9が無限にたくさんあれば、それは極限を表していると解釈でき、極限であるならばそれは正確に1と一致するのである。極限の最後までの過程を人間が見ることは出来ない。これを見ようとすると、ゼノンが語ったようなパラドックスが起こる。無限の過程を有限の存在である人間が把握したという前提が必要になってしまうからだ。

人間が見ることが出来るのは、極限の果てに静止した状態だけで、無限の過程を見ることは出来ない。有限の、運動がどこかで静止している状態は、上の数字は1と一致することはない。1との一致は否定される。しかし、運動の極限の果てでは、この否定が再び否定され、1との一致が結論される。微分の計算において無限の果てで、その差が0(ゼロ)になるという状態は、単にその場で0の割り算をしたという、過程なしの状態ではない。ある過程の果てに到達した結果として「否定の否定」が隠されているものとして受け止めることによって、形式論理的な矛盾ではありながらも、弁証法的な矛盾として生かされることになるのではないだろうか。

運動は、その過程を把握しなければ運動として理解することが出来ない。しかし、過程を表現することは形式論理では出来ないのだろうと思う。形式論理では、運動の一瞬の姿の静止画像か、運動の結果としての静止か、どちらかでなければ表現できないのではないだろうか。

微分における極限の運動の表現は、その過程を象徴的に表現しようとすれば、表現の中に矛盾が入り込んでくるのではないかと思う。これは、板倉さんが指摘したゼノンのパラドックスが持っている特長とよく似ているものではないかと思う。過程の表現は、正確には出来ない。それは象徴的に表現するしかないのではないかと思う。

正確に表現できるのは、一瞬の静止画像と、極限が行き着いた果ての静止だけではないかと思う。それが、数学におけるイプシロン―デルタの論理と呼ばれる工夫になっているのではないかと思う。任意の正の数イプシロンで極限の運動の過程の一瞬の姿を表現し、究極的な運動の結果としては、正確に=(イコール)で結ばれる関係として記述されるのではないだろうか。

数学におけるイプシロン―デルタの論理での表現は、あくまでも静止の状態の表現であり、だからこそ数学としては正確な表現になるが、運動を表現したものではなくなる。運動という要素が入り込むのは、イプシロンにおける任意性というものだ。それが任意のものであるということで、運動の過程のすべてを含んでいる。これをいっぺんに把握することは実無限の把握になって、現実に可能かどうかが問題にされるが、もしある具体的な正の数を設定すれば、その時はいつでも可能だという解釈をすれば、可能無限の範囲に入り、それは有限の存在である人間にも把握が可能だという考え方も出来る。

数学的な論理の世界と現実の世界には、表現におけるずれがいつも存在しうる。運動の表現はその最たるものだろう。それでも数学が現実に適用されて有効性を持ちうるというのは、数学が現実の世界とのつながりを持つものであることの証拠でもあるだろう。この現実の世界とのつながりという点も、弁証法性を持っているものだと思われる。数学は現実を離れて論理の世界に入らなければ、絶対的な真理性というものを持ち得なくなる。しかし、現実とまったく無関係だといってしまえば、それが現実に適用できるということが、その正当性を語ることが出来なくなってしまう。このあたりの、現実世界と数学との関係は、シカゴ・ブルースさんのトラックバックとの関連で考えてみたいものだと思う。