南郷継正さんの「しごき論」


道家の南郷継正さんの『武道の理論』(三一新書)を読んだのはかなり以前のことなのだが、そこにたいへん面白い「しごき論」がある。「しごき」は、武道の上達のためには絶対的に必要であり、しかも有効に働くということを前提にしながらも、それは行き過ぎる可能性を常に持つものとして、経験主義的に把握するのではなく、いわば実体論的とでも呼ぶような理解の仕方が必要であると主張するものだ。

今話題になっている相撲の時津風部屋の力士の死亡の問題は、行き過ぎた「しごき」の問題としても捉えることが出来る。外から見ている人間からすると、死んでしまうまでしごくような人間たちは鬼のようなひどい人間に見えてくるが、「しごき」という現象は、本質的にそのような危険性を伴うものであるという認識が必要だろうと思う。指導者としての賢さや資質がない人間は「しごき」を上達の手段として用いるべきではないのだと思う。

少年力士を死に至らしめた人々は、鬼のような人非人ではなく、ごく普通の人だったのではないかと僕は思う。そして、そのごく普通の人を、通常では考えられないようなひどい行為をするところまでエスカレートさせるものが「しごき」の中にはあるのだと思う。「しごき」がなぜ行き過ぎてしまうかという構造的な部分を、南郷さんの言葉をヒントに考えてみようと思う。それは、いじめが行き過ぎて人を追い詰める構造に似ているのではないかとも思う。普通の人が、普通でなくなってしまうようなメカニズムを知って、それを自らの戒めにしたいものだと思う。

南郷さんは、「しごき」の必要性・重要性に関して、それが「体力の極限状況において、その状態に打ち勝つ精神というものは、放っておいて出来上がるということはほとんどあり得ない」からだと、その理由を説明している。南郷さんは、武道というものをイメージしてこの説明を行っている。武道においては、真剣勝負において「生きるか・死ぬか」というような極限状況を描いて、その技を磨き上達への道を考える。

もちろん、本当に生きるか・死ぬかという状況にすることは、現在の社会の中では無理があるが、少なくとも武道の頂点を目指す人間にとっては、それくらいの覚悟で武道の修行をするということになる。だから、「しごき」の必要性・重要性を語った上の言葉も、あくまでもそのような目的をもった人間に当てはまる意味での必要性・重要性ということだ。

そこまでの主体性を持たない人間には、「しごき」は必要でもなく重要でもないものになる。スポーツを楽しみたいという人間には、「しごき」はまったく無用なものになり、害悪にさえなる。同じものが、まったく正反対のものになってしまうというこの弁証法性に気をつけなければ、「しごき」は取扱いが難しい猛毒のようなものになってしまう。

人間というのは、心がその行動において非常に重要なものとなる動物だ。心が騒いで動揺していれば、普段簡単に出来ることが出来なくなってしまう。ギリギリの緊張した場面で勝負を争っている武道家は、その緊張した心の状態であっても、平常と変わらない動きが出来るように修行をする必要がある。しかし、平常の訓練というのは、やはり訓練という意識が働いてしまい、真剣勝負のようなギリギリの緊張感を生み出すのは難しい。

そこで利用されるのが「しごき」というものだ。平常の訓練であれば、かなりたいへんだと思う場面でも、いくらかの余裕を残していつでもやめることが出来る状態にある。しかし「しごき」の中にいる時は、その苦しみが、もしかしたら永遠に続くのではないかとも思えるような恐怖心が生まれる。この恐怖心が、真剣勝負のときのギリギリの場面での緊張感に近いものを生み出す。

スポーツを楽しみたいというだけの人間は、そこまで真剣勝負にこだわった体験はしない。だから、訓練としてそのようなものはまったく不要だ。そういう人間は、勝負は結果であって、それほど重要なものでなく、むしろその結果が出るまでの過程に楽しみがあればいいのだから、練習も試合もともに、それほどの緊張感を必要としない。だから、この種の人間の訓練・練習には、「しごき」は絶対に使ってはいけないだろう。

「しごき」というのは、自らも頂点を目指すほどの覚悟を持っている人間、それもやはり武道家としての心構えを持っている人間にとって必要なものと心得るべきだろう。武道家としての心構えとは、単に勝負に勝てばいいという結果を追うのではなく、技としての見事さを完成させて勝利に至るという、過程をも大事にするような心構えを言う。これは、単に勝てばいいという気持ちだけでは、ギリギリの恐怖に耐えてそれを克服するということが出来ないからだ。その覚悟を作るためには、やはり武道家としての心構えが必要だろう。

このような、武道家としての心構えを持ち、覚悟を決めている人は、「「しごき」自体を当然のこととして受け入れる意志があるせいで、「しごき」に耐えようとする心が「しごき」をさほど「しごき」と感じさせないものである」と南郷さんは語っている。しかし、このように覚悟した人間でも、「自己の目的とするものに疑問を感じ始めると、それに積極的に耐え抜こうとする心がなくなる結果、当たり前の「しごき」にも耐え切れなくなって、体よりも心が先に参ってしまい、結果的に死亡するという事態を招きやすくなることになりかねない」とも語っている。

覚悟を決めたものでさえも、その覚悟にかげりが出れば危険であるのだから、ましてや覚悟が出来ていない人間に「しごき」をすれば、その危険性はもっと増してくるだろうと思う。このような観点で見てみると、死亡した少年力士は、大相撲というプロの道に入ったのだから、最初はある程度の覚悟は出来ていたのだろうが、それが果たして武道家としての覚悟になりきっていたかが問題になる。

南郷さんは、この覚悟を自ら「創りあげる」という言い方をしている。「そういう目的を自己の意志とする思想が必要であり」「自らの意志で飛び込んだ武道の場合には」という二つの条件を挙げて、それが「創りあげる」ことになるという。単に経験を受け止めて受動的にしたがっているのでは「しごき」は苦しみにしかならない。それによって何が鍛えられているのかを自覚し、鍛えることを自己の目的とするような意志が必要である。そして、それは自らが望んでやっているのだという主体性に支えられて「覚悟」というものになる。

時津風部屋では、このような目的意志や主体性を育てた後に、危険な「しごき」という訓練に踏み出したのだろうか。報道を見る限りではそのようには感じない。自らの責任を逃れようとするような、証拠を隠蔽するのではないかと疑われても仕方がないような行動さえ取っている。両親が来る前に火葬にしようとしたということなどは、そのように疑われても仕方のない行動だろう。

もし、「しごき」の構造をよく了解して、それこそが武道としての相撲の上達には必要だと考える指導者だったら、「しごき」の指導でミスを犯したなら、そのミスに対して深い責任を感じるのが当然だろう。そのようなことが時津風親方の行動からはまったく感じられない。

また、「しごき」の対象になった少年が、この春に相撲界に入ったばかりだったというのも、指導者の責任に疑いを感じさせる要素だ。「しごき」の危険性を考えれば、「しごき」が本当に有効に働く相手は、頂点を目指すような覚悟の出来ている人間ということになるだろう。果たして、入門したばかりの少年にそれがあったと判断したのだろうか。そういうことはまったく考えられない。

結局時津風部屋で行われていた「しごき」は、有効な指導法を持たない、未熟な指導者が、手っ取り早い成果を出すために手段として利用した「しごき」に過ぎないのではないだろうか。「しごき」は、行き過ぎない程度にとどめておけば、一定の成果を生み出すことは確かなのだ。「しごき」を本当に有効にするためには南郷さんが語るように、「指導者は、その学ぶ目的をはっきり理解させ、進んで取り組む姿勢を生み出す努力をまずもってなさなければならない」ということが本質的なことなのだが、現象論的には、「しごき」によって上達したように見えるという「法則性」があるように感じてしまうときがある。

南郷さんの武道の理論では、技はそれを「創る」段階と、「使う」段階とではまったく違う構造をもっているという。「創る」というのは、それが本当に自らの意志のとおりに身体を動かせるという、自由に操れるという段階にまで達することを言う。それはたいへん難しく、この段階で、単に勝てばいいという練習に明け暮れると、技は型が崩れてしまい「創る」という段階に達することができないという。

本来の武道は、まず「創る」段階があり、それが十分行われた後に「使う」という段階がやってくる。しかし、勝負に勝つために、まずは使い方を覚えるという練習をすることも出来る。この「使い方」を覚える段階でしごくと、ある程度勝負に強くなるという。それは、技を「創る」段階にいるものは、実際の試合ではその技を「創る」段階が終わっていない時は、うまく「使う」ことができないからだという。そのような状況の時は、「使う」段階を「しごき」で訓練して身につけた人間が勝負には勝つということが起こるらしい。

こうなると、勝つことが目的で、勝つことが評価の一番の基準になるような時は、未熟な指導者は「しごき」に頼るということになる。今の大相撲の状況が、何か南郷さんが語る、未熟な指導者の状況とよく重なるような感じがする。何とかごまかして勝つような力士はたくさんいるものの、本当の技の見事さで横綱に君臨できる力士が果たしているのだろうか。朝青龍はそのような技の見事さを見せられる可能性をもった数少ない力士だったが、いまや忘れられたような存在になっている。

「しごき」は、行き過ぎなければ一定の効果をあげるとは言うものの、それを本当に理解している指導者は、軽軽しく「しごき」などはしない。だから、大部分の「しごき」をする指導者は、未熟な指導者といっていいだろうと思う。未熟な指導者が、果たして行き過ぎない「しごき」に止めて置けるということを信じられるだろうか。それは、常に行き過ぎる危険性をはらんでいると思ったほうがいいのではないかと思う。

「しごき」は未熟な指導者が用いた場合には、常に行き過ぎる危険がある。だから、未熟な指導者の「しごき」の失敗は、厳罰に処するべきではないかと思う。軽軽しくそれを使うことを許すべきではないと思う。

それにしても、「しごき」で上達させようとする指導者のほとんどが、相手の主体性や、訓練する内容についての合理的な理解というものを考えることがないというのはどうしてだろうか。たいていの「しごき」の指導者は、しごかれる相手に有無を言わせず、自分の指導どおりに訓練することを強制する。その訓練が何のために必要なのか、その訓練をすればどこがどのように上達するのか、それを説明できる指導者を見たことがない。もちろん、「しごき」指導に従うかどうかを主体的に問うことなどもしない。

もし、そのような合理的な説明や主体性を大事にする指導が出来れば、平均的なレベルに達するには「しごき」などまったく必要なくなる。「しごき」を必要とするのは、あくまでも頂点を目指す人間だけに限られるようになる。「しごき」で上達したと思いたいのは、実は未熟な指導しか出来ない指導者が、その未熟さに気づきたくないためではないかとも感じてしまう。適切な指導さえあれば、平均レベルには誰でも達するものなのだ。このあたりの勘違いは、実は正義から生まれるいじめの構造にも見られるのではないかと思う。後日改めて考えてみようと思う。