属性の帰属先としての存在


シカゴ・ブルースさんから送られてきた「0の概念・マイナスの概念」「概念は「言語」に先立つ(5)」というトラックバックを読み返すと、どうも議論がかみ合っていないなというのを感じる。おそらくシカゴ・ブルースさんも同じように感じているのではないかと思う。たぶん、どちらも自分が論じたい側面・あるいは視点というものが相手に伝わっていないのだろうと思う。

だから、これから述べることは、シカゴ・ブルースさんが語ることへの批判や反論ということではなく、僕がいったい何を論じたかったのかということを伝えるものにしたいと思う。シカゴ・ブルースさんが書いたエントリーについての理解と評価はすぐには出来そうにないので、まずは自分が語りたかったことをまとめてみて、その後でじっくりとシカゴ・ブルースさんの文章を読ませてもらいたいと思う。

だから、シカゴ・ブルースさんの文章への直接の言及をこのエントリーは含まないのだが、一連の流れの中にある一文ということでトラックバックを送らせてもらおうと思う。なお、僕が複数のブログで同じエントリーをアップしているのは、一つには記録のようなものという意識で行っているものだ。また、トラックバックlivedoorのブログで送るのは、ここのブログでのみ、コメントやトラックバックを受け付けていることに理由がある。読みづらいという点については、改良できるところは努力していきたいと思う。

僕は、「数学的法則性とその現実への適用」というエントリーの中で

「これはそもそも(マイナス)というものが、現実には存在しない想像上のものであるから、直感する(目で見るようにする・あるいは感覚で受け止める)ということが出来ない対象だからではないかと思う。」


という主張をした。ここで僕が語った「マイナス」の存在というものは、それが数学の中に存在しないということではなく、「現実の世界」の中で、属性の帰属先の実体として、「マイナス」を体現しているような物質的存在はないということだった。

数学の世界ではもちろん「マイナス」は存在するし、「マイナス」だという解釈が出来る現実存在の一側面は、もちろん実体的に存在している。直線を引いて、原点を0にすれば、右側は「プラス」に左側は「マイナス」にして解釈することが出来る。しかし、これは解釈が出来るということであって、僕はこれを「マイナス」の存在だとは受け取っていない。

借金が「マイナス」で表されるというのも、それは解釈による表現の問題であって、借金が「マイナス」という属性を持った実体として現実に存在しているとは僕は思わない。「マイナス」というのは、あくまでも現実のある状態の解釈をしたときに、フィクショナルに想像で設定されるものだという理解をしている。それは状態であるから、それを属性として体現するような実体はない。しかし、これをあたかも実体であるかのように扱えば、加法や乗法という演算の操作の対象にすることが出来る。状態を記述できるフィクショナルな実体というのは、形式論理にとってたいへん重宝なものなのである。

「マイナス」や0(ゼロ)の概念に通じる否定判断について、野矢茂樹さんが『『論理哲学論考』を読む』という本で面白い考察をしている。ウィトゲンシュタインは、事実という現実世界に成立する事柄を記述する命題から出発して、その命題の構成要素として登場する現実存在を対象と呼び、対象の表現を「名」と呼んでいる。

「名」は、現実存在として実体的なものであり、野矢さんはその実体の属性も含んで「名」と考えている。単に名詞的な表現だけを「名」とするのではなく、客観的にそこに存在していると考えられるものは、動詞的な表現も・形容詞的な表現もすべて「名」として捉えている。位置的な「上にある」というような関係なども「名」の中に入れている。

「名」の中に入ってこないのは、対象を観察する観察者という主体の主観になるような部分だろうか。「名」というのは、観察するものが自分ではない他者になったとしても、そこに存在することが認められるものとして提出されている。

「名」は、論理空間を構成する要素として重要になるもので、論理空間は、「名」の組み合わせによる命題によって構成される。野矢さんによれば、否定語の「ない」は、論理空間の要素を操作する演算子としては導入されるが、それは「名」ではないという。「ない」には、それに相当する実体が見つからないのだ。

野矢さんは、「机の上にパンダがいない」という言語表現を例に出して、否定判断について考えている。もし、単に客観的に存在している机を見せただけで、この否定判断を導こうと思ってもそれは出来ないだろう。このような否定判断を導いてくる人間は、「机の上にパンダがいる」という肯定判断をすでに抱いていて、その期待(仮説とでもいおうか)で机を眺める人間だけだ。「いると思ったのにいなかった」という過程を経て、「机の上にパンダがいない」という否定判断が生まれる。

否定判断には、このように仮説としての肯定判断が、現実によって否定されることによって生まれるという構造がある。否定されるのは、自分が抱いている予想の方であって、現実の存在が否定されるのではない。現実の存在には「否定」という属性はない。

存在を否定して、そこに何もないという状態を表現するのが0(ゼロ)という数字だ。何もないというのは状態であって実体ではない。そして、その状態は、実際には何か具体的なものがないということで理解される。数学教育において0(ゼロ)を教える時は、何も入っていない空っぽの入れ物を示して、そこから何もないという状態の理解を図り、その状態の記述としての0(ゼロ)を教える。

0(ゼロ)のタイルというのはない。タイルがないことを0(ゼロ)と呼ぶのだから、それを現実に指し示すものがあっては形式論理的な矛盾になってしまう。そこで、タイルを使って0(ゼロ)を教えるときも、そこにタイルを乗せる皿のようなものを用意して、タイルがないということを強調するような工夫をする。そこにはタイルがあるはずだという予想を持っているものだけが、何も乗っていない皿を見て0(ゼロ)を感じることが出来る。そこには0(ゼロ)があるのではない。何もない状態を0(ゼロ)だと感じる解釈があるだけだ。

もし、皿の上に必ずタイルを乗せるという了解がない者が、何も乗っていない皿だけを見たら、「そこには皿がある」という肯定判断を導くだけだろう。客観的に言えるのはそれだけだ。そこには0(ゼロ)の概念はない。そろばんが0(ゼロ)を表現できるのも、玉の数が、そこに置かれた位置によって数を表すという前提があるからだ。そこに玉が置かれていないという状態が、そろばんにおいては0(ゼロ)を表現する。もし、このそろばんの約束が了解されていなければ、そこに0(ゼロ)を読み取ることは出来ない。単に「玉が下がって下に4つある」というような肯定判断が下されるだけだ。

0(ゼロ)でさえもこのような認識の過程を持っている。ましてや「マイナス」の数は、さらに空想的なものになる。借金の借用書がそこに1枚あるとしても、それは単にそれだけでは「借用書が1枚ある」という肯定判断に過ぎない。その借金は、実はお金がなかったときに誰かに借りたという状態を、「ない」ということを記述するために、現実に確認できる「ある」を否定して、その否定に「マイナス」の意味を関係させて解釈したものに過ぎない。そこにあるのは1枚の借用書の存在であって、マイナスのお金がどこかに浮かんでいるのではない。借金を「マイナス」だと受け取るのは解釈に過ぎない。

これが、その存在の空想性がもっとはっきりしている「虚数」になれば、おそらく誰もそれが現実に存在しているとは言わないだろう。だが、「虚数」も解釈によって現実に結びつけることが出来る。だからこそそれが現実の解析に利用されて有効性を発揮することも出来るのだと思う。

虚数は、複素数という形にすれば平面状の点と対応させることが出来る。複素数は、実数と虚数の1次式で表現されるが、二つの実数の組で対応させられる。したがって、平面上の点と複素数は1対1に対応付けられる。そうすると、平面上の点を定義域とする関数は、複素数を定義域とする関数と同じものとみなされる。複素数は現実には存在しないが、現実存在をある視点から見れば複素数と同一視できる。

このとき、この状態が複素数を表し、しかも状態として現実に存在すると考えられる点を取り上げて、複素数が「存在する」と呼んだら、何か違和感を感じないだろうか。0(ゼロ)や「マイナス」を、解釈されたフィクショナルな実体ではなく、現実に存在すると考える思考法は、それを進めるなら、複素数の存在も主張しなければならなくなるのではないだろうか。僕はそこに違和感を感じるので、0(ゼロ)や「マイナス」は現実には存在しないという判断をする。

それから、概念と言語とどちらが先かという話は、僕はどちらかに決定させようとして考えているのではない。これも、論理の一般論として、三浦さんがよく語っていたが「真理はその前提条件によって変わってくる」ということを語りたかっただけだ。条件によって、概念が言語に先行することもあるだろうが、逆に言語が概念に先行することもあるのではないかということを言いたかっただけだ。どんな条件であろうとも、概念が言語に先行するということには疑問があるということだ。

シカゴ・ブルースさんが語っていることの前提条件が具体的にどのようなものであるかは、それをまだよく理解していない。理解できれば、その条件においては概念が言語に先行するということについて同意するかもしれない。そういう場合があっても当然だろう。むしろそういう場合がほとんどかもしれない。しかし、ある条件のもとではそれが反対になり、しかも、現実の言語現象にはその絡み合いが見られるために、鶏と卵のような現象になり、どちらが先とはっきり言えない循環の中にある場合もあるだろう。ウィトゲンシュタイン言語ゲームという概念はそういうものとして理解したほうがいいのではないかと僕は感じている。

人間は、具体的な体験のみから学ぶだけではなく、言葉を通じて多くのことを学ぶ。なぜ言葉が学習の助けになるかといえば、その言葉で現実を解釈しなおして、仮説的な問いかけが出来るからだ。現実に存在しないものも言葉を通じて学ぶことが出来る。「虚数」を数学記号という言葉なしに学ぶことは出来ないだろう。このような場合を、僕は言語が概念に先行している場合として解釈している。これは、シカゴ・ブルースさんが語ることの前提からは外れているかもしれないが、一般論として前提に着目するという意味でこのような考えを提出している。シカゴ・ブルースさんが提出する前提とそれから導かれる結論に反対しているというのではなく、前提に着目するためには、そのような方向からの考察も必要ではないかと考えている。いずれにしても、シカゴ・ブルースさんが語る主張の前提をよく考えて、それが明らかになるような理解の仕方をしたいと思う。そうしてから、シカゴ・ブルースさんのエントリーの内容そのものに関して何か書いてみたいと思う。