貧困で幸せはあり得ないか?


今週配信されているマル激では貧困の問題が議論されている。現代日本の深刻な問題は、「格差」ではなくて「貧困」だという指摘がそこではされている。この指摘は非常に説得力のあるもので、問題が「格差」ではなくて「貧困」だと設定しなおされれば、それは僕にとっても深刻な自分の問題として迫ってくる。「格差」であれば、そんなものはあまり関心のない現象に見えてくるが、「貧困」というものは、今はその中に落ち込んではいないものの、将来的・あるいは子どものこれからの人生を考えた場合、それに直面する恐れというのは深刻に感じるところがある。

マル激の中では、「貧困」と「貧乏」は違うということも話されていた。「貧困」は、人間にとって基本的な衣・食・住の問題で、生活困窮に陥るほどの窮乏生活に陥ってしまうことを意味するものとして語られていた。それに対して「貧乏」というのは、単に金がないという現象を指すだけのものとして語られていた。

「貧困」というのは、必然的に人間性を破壊するものとして捉えられていた。だからこそ、「貧困」で幸せはありえないという判断も生まれてくる。それに対して、「貧乏」は、たとえ金がない状態であろうとも、それを補う社会的なネットワークさえあれば、「貧乏」の中にいても幸せだということがありうる。この指摘は論理的にとても面白いものだと感じた。

「貧困で幸せはあり得ない」あるいは逆に、「貧乏でも幸せになりうる」という命題は、現実の現象から帰納的に得られることもあるだろう。また、「貧困」や「貧乏」の意味の定義から論理的に導かれる判断としても語られる。この命題が語られる文脈がどのようになっているかで、その主張する意味が違ってくるだろうと思われる。

現実の経験からこのような主張がされる時は、その経験に対する個人の見解・感想というものとしてこれが主張される。それは、他者が同感したり賛成したりするのは、同じような感性を持っているという条件が必要だ。違う感性を持っている人間は、この主張に賛成しなくても、文脈上はかまわないだろう。「経験した人間にしか分からない」と言われるような感性は、誰もが賛成するような普遍的なものではなく、特殊・個別的なものになるだろう。

だが、これが経験を超えた論理によって主張されるという文脈の中では、その論理の前提を認める人間であれば、たとえ自分の感性とは違っていようともその結論を受け入れないわけにはいかない。「貧困」と「貧乏」の場合は、論理の前提となるのは、それがどのような意味で使われているかという定義の問題を認めるかどうかということになるだろう。

ある運動をしている人が、自分の運動の支持を訴えたいと思うとき、それを経験から来る感性として訴えるという文脈で語れば、それは同じ感性を持っている人間にしか支持されないだろう。分かる人間にだけ分かればいいのだと思っているならそれでもかまわないと思う。しかし、運動という形で他者に訴えかけている人間が、分かる人間にだけ分かればいいという姿勢でいるのは、運動としては間違えているのではないかと感じる。かつての差別糾弾主義者の運動はそのようなものに感じた。

運動をする人間は、感性に訴えるのではなく、普遍性を持った論理によって賛同を得るような方向を取るべきではないかと僕は感じる。あくまでもその主張が、論理によって導かれる結論であるような文脈で語るべきではないかと思う。それは普遍性のある真理であるべきだ。

差別に問題があるのは、自分がそう感じるからではなく、論理的に根拠のあることとして訴えなければならないだろう。他の問題も同じで、平和の大切さを訴えるときも、自分の感性でそれを訴えるのではなく、平和の状態こそが多くの人間にとって利益となることを論理的に帰結できるような文脈で訴えなければならないだろう。平和が現象として無抵抗につながるような主張になっていれば、論理的には疑問を感じる人がいても仕方がないだろう。

現象的に経験としてそう帰結できるような主張と、経験とは離れて論理的に結論できる主張との区別をすることで、その主張の信頼性を判断するという考えが、マル激での「貧困」で幸せはありえないという言葉を聞いたときに浮かんできた。

「貧乏」でも幸せだという現象は、かつての昭和30年代から40年代にかけての日本ではよく見られた現象ではないかと思う。渥美清主演のテレビドラマ「泣いてたまるか」で描かれていた日本の風景にはそのような経験が描かれていた。また、古いイタリア映画の「鉄道員」などでも、安い給料で貧しい生活をしていた鉄道員としての労働者が、仕事が終わったあとの仲間との団欒がいかに和やかですばらしいものであるかが描かれていた。その連帯感が、明日からの仕事の活力としての幸せ感を運んでくる。

これら、貧しいながらも幸せな人々が、幸せだと感じられるのは、人間関係のコミュニケーションが包摂的で暖かいものとして存在するからだ。そこでは、誰もが個人として尊重され、人間性という個性が認められ評価されている。仲間としての連帯感にあふれている。そこでは、誰かが困った状態になった時は、今はまだ余裕があるという人々が、必ず救いの手を差し伸べるだろう。「困った時はお互い様」という意識が誰にもあり、それが深い連帯感を生み出す。

「貧乏」というのは、金がないという状態のことであって、それによる問題の発生を防ぐような社会的セーフティ・ネットがあれば、「貧乏」であっても幸せを感じることが出来る。それが「貧困」の場合には難しいというのは、「貧困」という概念の中には、これらのセーフティ・ネットがもはや機能しなくなっているという前提が含まれているように思われる。「貧困」というのは、そのようなものとして定義されているようだ。

「貧乏」であっても幸せだということは、経験としてはありうる。もちろん、これは経験であるから、「貧乏」で不幸だという経験もあるだろう。論理的な帰結ではないものなら、正反対の主張が生まれても仕方がない。論理的でないものは、「矛盾律」という正反対のものが両立しないという法則に従う必要はないからだ。同じように、「貧困」というものも経験主義的に受け止めているだけなら、問題に感じる人は問題だと思うだろうけれど、感じない人にとっては問題ではないということになってしまう。

しかし、マル激での主張のように、論理的な帰結として「貧困」では幸せになり得ないということであれば、そのような社会でいいのかという問題を提出することが出来る。「貧困」の中にいる人たちは必然的に幸せから排除される。そのような人を見捨てるような社会であっていいのかという問いかけは深刻なものだ。「貧困」を自己責任で見捨てていいのか、いや見捨てていいはずはないというのがマル激での主張であるように感じた。

「貧乏」というのは、かつての日本が全体として「貧乏」であったように、現象としてはそれがどうにもならない状態がある。しかし、「貧困」というのは、社会全体としては豊かであっても、さまざまな福祉から見捨てられることによって生じる可能性がある。豊かであるのに「貧困」になる、あるいは、豊かであるからこそ「貧困」が際立ち、それが生まれてくると考えることも出来る。世界で一番物質的に豊かな国であるアメリカが、「貧困」という問題では日本よりもっと深刻だというのはその現れのような気もする。豊かな国において「貧困」が生じるのに対処する問題は、それを問題だと感じて論理的に捉える人がどれくらいいるかで違ってくるのではないか。

マル激では、ゲストの湯浅誠さんという人が「五重の排除」ということを語って、その特徴を指摘していた。このような特徴を持ったものが「貧困」というものであるという定義をしているように僕は感じた。湯浅さんが指摘した排除は次のようなものだ。

  • 教育課程からの排除
  • 家族福祉からの排除
  • 企業福祉からの排除
  • 公的福祉からの排除
  • 自分自身からの排除

家族福祉・企業福祉というのは、家族や働く仲間の包摂姓を持ったネットワークがなく、困窮したときに支援してくれる人が誰もいないことを意味する。このようなネットワークがあれば、かつての「鉄道員」の映画のように、「貧乏」でも幸せだと感じることが出来るが、そうでなければ、金がないということがすぐに深刻な生き・死にの問題に直結するということが論理的な帰結として得られる。

家族や企業の助けが当てに出来なければ、公的な社会的な制度としての援助を求めなければならなくなる。しかし、「貧困」を自己責任の問題にしてしまえば、公的な福祉も最低が引き下げられて、それを受けられない人間が出てくるだろう。また、これらの人々が、十分な教育を受けられなければ、どこに助けを求めたらいいかということがまず分からなくなってしまうだろう。その意味で、教育からの排除は、他の排除の問題を解決することを難しくするという意味で深刻な問題だ。

教育からの排除は、必ずしも学歴や学力の問題と一致しない。「貧困」に陥る層が、相対的に学歴が低いとしても、問題は、公教育(義務教育)の中で、そのような困窮に陥ったときの処方箋がまったく語られていないことにもあることがマル激では指摘されていた。どのような状況になったら生活保護を受けたほうがいいのか、どうにもならないくらい困窮した状態になった時は、最後の手段としてどのようなものがあるのか、そういうものがまったく教えられていない。

学校で教えられている内容は、生活とはほとんど関係のない偏った知識が多い。しかも、そのような勉強をがんばれば、その結果として成功や幸せがもたらされるという、努力第一主義がとられることが問題でもあるという宮台氏の指摘もあった。この努力第一主義を支えるのは、「自己実現幻想」でもあるとも語られていた。

自己実現をしてがんばれば、包摂的なネットワークがなくても、暖かい人間関係を築くことがなくても、成功という報酬で幸せになるのだというのが「自己実現幻想」だ。実際には、成功する人間は少なく、従って自己実現で幸せになれる人間は少ない。多くの人間は、暖かい人間関係の中でこそ幸せを感じることが出来る。それなのに、成功もなく、暖かい人間関係もなくなれば、がんばっても幸せになれなかったという結果だけが残る。

公教育の中で自己実現幻想で競争するようになれば、友達関係の中で豊かな子ども時代を過ごすことが出来なくなる。暖かな人間関係を経験することなく、挫折の中で幸せになれない人間が増えていくだろう。夜間中学が人々に感動を与える要因は、そこには包摂的な暖かい人間関係が見られるからだ。かつての山田洋次監督の「学校」という映画もそれを描いていたし、森康之監督のドキュメンタリー「こんばんは」も、夜間中学の持つ暖かな人間関係の姿を描いていた。

近年それが失われつつあるのを感じるのはさびしい限りだが、かつての夜間中学には、その暖かさがあっただけで、そこに通ってくることが喜びであり幸せに感じたということがあった。夜間中学には、最新の設備があるわけでもなく、飛びぬけていい授業が行われているのでもない。いつでも脱線して、授業が知識の伝達であるなら、あまり成果が上がらないものであるのに、それでもそこに来ることが幸せだったという雰囲気が確かにあった。

「貧乏」は、そこから抜け出す道があり、再チャレンジということも可能だと思う。しかし、「貧困」は、再チャレンジどころか、最初のチャレンジからさえも排除されているのではないかと感じる。僕は今のところまだ安定した仕事を持っているので「貧困」に陥ってはいないけれど、深刻な病気になったりした後や、あるいは自分が死んだ後の子どもたちが「貧困」に陥る可能性がないとは言えない。「貧困」は一度そこに沈んだら抜け出ることが不可能ではないかとも感じるだけに、「貧困」は、社会がそれを援助するようなことが絶対に必要なものではないかと思う。それは論理的な帰結として主張できるのではないだろうか。