『論理哲学論考』が構想したもの8  複合的概念が指し示すものの存在


ウィトゲンシュタインの世界においては、「事実」から切り出されてくる「対象」は単純なものに限られていた。それは、その「対象」の像として設定される「名」という言語表現が、論理空間を作る要素として取り出されるからだ。現実世界から論理空間を作り出すとき、それが一定の手順・アルゴリズムとして確立していなければ、全体像を把握することが出来なくなる。論理空間は、全体像を把握できなければ、その思考の展開の限界を見ることができなくなる。全体像の把握という目的からは、「対象」の単純性は不可欠の要請のように思われる。

ウィトゲンシュタインの世界においては、存在するものは単純なものに限られている。言葉を言い換えれば、単純なものとしての「対象」の存在は、世界の前提として設定されていると言えばいいだろうか。これに対して、複合的概念(論理語によって定義される概念)が指し示すものは、それが存在するように見えても、存在とは判断しないというのがウィトゲンシュタインの考え方なのではないかと思う。

この捉え方は、かなり直感と対立する違和感を感じるものではないかと思うので、直感とうまく調和するような理解のしかたを考えたいと思う。あまり厳密な言い方ではないが、「対象」というのは、現実に直接指し示すことが出来る存在を表現したときに、「名」として登場するという感じがする。それに対し、論理語のように「名」ではないものは、直接指し示すのではなく、状況を解釈したときに認識の判断として表現されるもののように感じる。

野矢茂樹さんは、「N夫妻が動物園へ行く」という命題を考察して「夫妻」という言葉が複合概念を表現したものであることを指摘している。これは、「夫妻」という言葉の意味の考察のみから、「夫妻」を構成する複数の命題を引き出すことが出来、それを論理語「かつ」で結んでその概念を表現できるからだ。

現実に存在する「対象」は、「夫妻」を構成する太郎と花子という二人の男女で、それは太郎が誰か、花子が誰か、直接指し示すことが出来るだろう。この直接指し示すことが出来る「対象」こそが、本当に存在しているといえるものだというのが、ウィトゲンシュタインの世界・論理空間の考察の前提としてあるのではないかと思う。「夫妻」というのは、目の前に太郎と花子がいれば、この二人を指し示しているように見えるが、実はそうではなく、この二人の存在している状況を総合的に判断した結果として、認識の中に「夫妻」という判断が見えてくると捉える。

このような考え方に違和感を覚えるのは、「N夫妻がいる」というような、「夫妻」というものが存在しているというような言語表現が日常的にはよくされるからだ。しかし、これは、存在としては「太郎がいる」「花子がいる」ということが語られているのであって、二人の関係が「夫妻」であるという判断がそれに伴って、複合概念が短縮されて表現されたために、「N夫妻がいる」というような言い方になっていると解釈できる。

複合的概念を直接現実世界の存在としては捉えないというやり方は、判断の対立という弁証法的な矛盾が起こったときに、その弁証法的矛盾の発生を形式論理的に納得するのに役立ちそうな気がする。例えば、「N夫妻がいる」という判断をしたいとき、これを肯定する人と否定する人が現実にいる可能性を想像できる。弁証法的に対立した判断が両立しうる。

それは「夫妻」という概念が複合的概念であって、論理語「かつ」でつながれる際に、その命題の作り方に違いがあれば、当然それが真であるという判断にも違いが出てくるだろうということが想像できるからだ。単純な存在である「対象」は、それを指し示すことである程度の共通概念をつかむことが出来る。しかし、複合概念を表す言葉は、その論理語の結合がすべて同じものになるとは限らない。

僕は、前回のエントリーで、単純化のために「婚姻関係を結んでいる」というものを「婚姻届を出している」というふうにした。これは形式だけを問題にしていて、この形式が成立していれば「婚姻関係がある」という肯定判断になり、この形式が成立していなければ「婚姻関係がない」という否定判断になるという、単純化した判断を元にして考察した。だが、現実には、この形式だけで「婚姻関係」という複雑な現象を表現するのは無理だろう。

現実には、論理語「かつ」で結ばれる条件というものが、「婚姻関係」の判断にはたくさんあるのではないかと思う。そうすると、捉え方が違えば、この論理語「かつ」の結合にも違いが出てくるだろうと思う。日常の共同生活というものが「婚姻関係」にとって不可欠だという考え方もあるだろう。そういう人には、たとえ形式的には婚姻届が出ていても、別居状態にあるカップルは「婚姻関係にある」とは判断されないかもしれない。

複合概念は、定義の違いによって肯定判断も否定判断も可能になる。それでは、その判断に従って「存在している」「存在していない」という言い方も出来たりするだろうか。「N夫妻」という捉え方が、ある定義からは出来ないとなったとき、「N夫妻は存在していない」といえるだろうか。「夫妻としては存在していない」かもしれないが、太郎と花子という個人は存在しているかもしれない。「として」という存在の言い方は、存在そのものを指し示していないのではないだろうか。「夫妻」というものは、存在を議論できるものではなく、そのような関係・状況にあるかという判断を議論できるものなのではないだろうか。

もし、「夫妻」という複合概念の定義が誰でも同じものになっていれば、論理に従った判断をしている限りでは、「夫妻」という判断は誰でも同じものを出すだろう。しかし、定義が違えば、判断に違いが出てくるのは、弁証法的な矛盾の現れと捉えることが出来る。それは視点が違うので判断が違ってきているのである。同じ視点で、肯定と否定が同時にされるという形式論理的な矛盾が生じているのではない。弁証法的な矛盾は、形式論理的には少しも矛盾していないのである。

複合的な概念の存在を議論してしまうと、このような弁証法的な矛盾が形式論理的な矛盾に重なって誤謬が展開されそうな気がする。存在というものを、ウィトゲンシュタイン的に単純な「対象」にだけ関わるものと考えると、指し示すことが出来ればそれは存在していることになり、視点の違いによって「存在している」「存在していない」という対立した判断が出てくることにならないからだ。これは、形式論理的に、「存在している」か「存在していない」かどちらか一方だけが成り立つ排中律に従うものと考えられる。そして、論理空間の設定には、「対象」が存在していることが前提とされている。何が存在しているかということは、個人の経験から違いが出てくるが、何かが存在しているということは前提されている。

複合的な概念は、その存在を議論するのではなく、その判断が妥当なものであるかという認識の問題として設定すべきではないかと思う。そのように考えると、深刻な対立が生まれている議論も、ある程度冷静に対応した議論が出来るのではないかとも考えられる。

例えば「南京大虐殺」と呼ばれる歴史的「事実」に関して、それが「あったか」「なかったか」というような存在に関わる議論をすれば、それは弁証法的な矛盾が形式論理的な矛盾にかぶさってくるのではないかと思われる。それは、「大虐殺」というような判断が妥当であるかどうかという認識の問題として議論されるべきだろうと思う。

かつては「あったか」「なかったか」という議論だったが、今ではそうではないのだと言いたい人もいるかもしれないが、何人が虐殺されたのかという人数を議論している段階にとどまっているのであれば、これはやはり存在の問題として、間違った議論に陥っている可能性があるのではないかと思う。「虐殺」という言葉が、単純に対象を指し示して誰もが納得できるような言葉ではないことは、かなり明らかなことではないかと思う。さまざまな条件を設定して論理語によって結合される定義の複合概念であると思う。

ある現象を見て、それが「虐殺である」と肯定判断する人もいるだろうし、「虐殺でない」と否定判断をする人もいるだろう。それは、「虐殺」という複合概念の定義が違うからだ。このような複合概念を基礎にして、その人数を議論するのは、違う視点の元での結論だけを切り離して議論していることになる。この議論の中でも、犠牲者の中には一人も「虐殺」されたものがいないという「虐殺0人」という考え方と、すべての犠牲者が「虐殺」されたものだという、中国の「虐殺30万人説」は、どちらも両極端としてばかげた言説として退けられなければならないだろう。「南京事件」を冷静に議論の対象にしようと思うなら、異論の多い「虐殺」の定義に妥当な線を見つけなければならないだろう。それが見つからない限りは、この議論は常に不毛な結論に導くに違いない。

複合概念の存在を議論するのは不毛な議論になると思う。存在するものは単純な「対象」に限ったほうが論理的な判断には間違いが少なくなるだろう。最近の話題でも議論が危うい方向に行っているのではないかと感じるのは、沖縄における集団自決の軍の関与の問題だ。これは、教科書の中から、それが「あった」という記述が削られたことに端を発した議論だ。しかし、これを「あったか」「なかったか」という存在で議論してしまえば、それは不毛になるとともに、形式論理的に間違った議論になりそうな気がする。

軍の関与というのは、単純に指し示せる単純概念ではないだろう。どのような条件が整ったときに、軍が関与したという判断ができるかという定義には、それぞれの立場で大きな違いが生じてくるものと思われる。軍隊の存在が大きな圧力として無言のうちに自決に導いたのだというのなら、これはそういうことが「あった」という想像はしやすい。

しかし、軍が、その地方の命令権限を持っている人間の判断として明確に命令という形で自決を指示したということが、軍の関与だという定義だと考えると、そのようなことがあったと想像するのは極めて難しい。軍が、兵士以外の民間人に直接命令を下すということは、よほど特別な状況でないと考えられないからだ。もちろん、沖縄戦は特別な状況だという判断も出来るだろうが、アメリカ軍と絶望的な戦いに出て行く日本軍が、わざわざ武器をアメリカに向けずに、民間人の自決のために使わせるということを命令するということの必然性が僕にはどうも違和感が生じる。

実際には、渡嘉敷島の集団自決の問題においては、今までは軍の直接命令があったとされていたが、それは嘘であったということが確かめられているという。(「沖縄・渡嘉敷島の集団自決」)もし、軍の関与というものが、直接命令をしたものだという定義になってしまえば、正式の命令書でも残っていなければ、つまり単純に指し示すことが出来る「対象」が存在しなければ、「あった」ということが証明されなくなるのではないだろうか。

沖縄の集団自決の問題が、教科書の記述の中で、軍の関与があった・それも直接の関与があったということの問題にされていると、それは存在の問題になってしまい、とても証明が出来そうにない問題になってしまうのではないかと思う。集団自決の問題は、日本軍の非道性の問題というよりも、集団自決しなければならないという圧力を人々に与えた、精神主義的な問題として捉えたほうがいいのではないかという感じがする。

国民がみんな死んでしまえば、国が残っていても仕方がないのに、国のために国民全部が死んでもかまわないというような精神的な圧力が存在したことが問題なのではないだろうか。軍の位置も、そのような圧力との関係で理解しなければならないのではないか。集団自決の問題が、存在の問題に傾いているように感じるのは、どうも論理的には間違いではないかという気がしてならない。存在は単純概念の問題であり、複合概念に対しては、その判断が妥当かどうかが問題にされなければならないと思う。