「事実」とその「解釈」について


沖縄の集団自決という深刻な問題についてちょっと触れたので、何らかの反応が返ってくるかと思ったが、それにちょっと疑問を差し挟んだだけで罵倒するようなコメントが送られてきた。このコメントについては、論理的な対話など出来ないと判断したので反映させるつもりはない。しかし、少しの疑問を差し挟んだだけで罵倒するようなコメントが送られてくるというメンタリティは考察に値するものだと思う。

僕は、宮台真司氏や仲正昌樹氏の左翼批判に共感するところがあるのだが、特に宮台氏が語る「左翼の嘘」という指摘に重要なものを感じている。これまでの左翼の言説には、プロパガンダとして役に立つのであれば、少々疑わしい「事実性」であってもそれを宣伝して言語ゲーム的な「事実」にしてしまったものがあるという指摘だ。もっとも分かりやすい例が、今日本にいる在日朝鮮人と言われる人々の大部分が、強制連行された人たちの関係者だというものだ。これは、専門家の間では完全な間違いであるということが言われているようだ。

戦前に日本を訪れた多くの朝鮮人たちは、強制連行という形で来た者たちよりも、日本で何とか一旗上げようという気持ち出来た人々が多かったと宮台氏は言う。それは、本国での産業が廃れてしまった国内では食っていくことさえ困る状態だったので、何とか食うことだけでもできないかという気持ちで訪れたという人々が大部分だったということだ。戦前の日本が移民を多く排出したのと同じ状況だ。

「強制連行」という状況を、国内で食えなくて、日本に来ざるを得ない状況を作り出した日本に責任があるのだという解釈で、上のような自らの意志で来た者たちもそこに含めてしまうという解釈をする人たちもいるようだ。だが、これは解釈としてはあまりにも強引過ぎる。「強制」ということを言うためには、何らかの日本国家の権力の直接の関与が証明されなければならないだろう。

必然性という面から考えても、日本に来た大量の朝鮮人たちを「強制」してまで連れてくる必然性というものを感じない。むしろ、来ざるを得ない者がたくさんいたのでそれを利用したと捉えたほうが論理的な整合性が取れるだろう。現在の不法滞在をしている低賃金の外国人労働者と同じような位置にいたのではないかと思う。

現在の不法滞在の外国人は、その地位が不安定で低賃金に抑えておくことが出来る。これを、低賃金で働かせることを目的に、外国から不法に入国させようとしたら、そのブローカーまがいのものたちが不法行為を犯すことになりリスクを引き受けなければならないだろう。ましてや、法を取り締まる国家がそのようなことをするはずがない。自然にそうなってしまうものについて目こぼしをすることで利権を作ることはするだろうが、不法行為を元に利益を得ようとするのは、国家権力にとってリスクが大きすぎる。

戦前の日本国家は、そのような普通の法治国家にあるまじき行為をするようなひどい国だった、という前提があれば、大部分の在日朝鮮人を「強制連行」で引っ張ってきて、低賃金労働者として利用したということも論理的な整合性が取れるだろうが、その前提には大いなる疑問を感じる。戦前の日本がそれほどひどい国家だったのだろうか。

確かに敗戦というひどい結果をもたらしたので、国家としてもひどかったのだという解釈をしたくなるかもしれない。しかし、ひどい結果というのは、何か一つでもひどいものがあってももたらされてしまうもので、他の部分では正しいことをしていたにもかかわらず、ある一点で間違ったためにひどい結果になるということがある。それは、戦前の日本について言えば、精神主義的な思考があまりにも強かった点に求められると思う。

それは現在の日本でも続いているように思われるので、現在のように産業が発達して豊かになり、それなりに民主的な意識が高まったように見えても、なおこの一点で間違いがあるために、社会のいろいろな部分にひどい結果を生み出しているところがあるように思う。学校のいじめや、膨大な量の自殺者の問題、うつ病の蔓延など、ひどい結果はたくさんある。それでは、この結果から、現代日本は国家としてもひどいものだという解釈が出来るかといえば、日本よりひどい国はたくさんあるし、国家としての犯罪的な行為の責任という点では、アメリカよりましではないかとも思える。

戦前の日本が何から何までがひどくて間違っていた、特に日本の軍隊は非人間的で評価できるところはどこにもないという解釈は、本質を見誤るような思考の展開を見せるのではないかと思う。日本は、国家として何が間違っていたのか、日本の軍隊には具体的にどこに問題があったのかを、細かく部分に渡って理解する必要があるのではないかと思う。何から何まで正しかったという国粋主義的な考え方が間違いであるように、評価できる部分など一つもないという「左翼的」な捉え方も間違いではないかと思う。

「解釈」というのは「事実」からもたらされる。「事実」をある側面から捉えることによって「解釈」は生まれる。ある人間Aの行為がBの死をもたらしたという「事実」があったとき、そのAに殺意があったという「解釈」があれば殺人行為だという判断になり、殺意がなければ事故だという「解釈」が生まれる。これは、「解釈」であって、「殺人」や「事故」という現象がそこに存在しているわけではない。

多くの解釈も論理の構造としては同じものだが、一般性のある抽象的な解釈は、その一般性ゆえに次の解釈の前提になることがある。科学的な法則性という「解釈」はそういうものだ。科学が語る命題は、「すべて」の対象に関わるもので、一般的にそういえるという「解釈」になっている。だから、次に同じような現象を見たときに、その「解釈」が前提となって論理的な判断が引き出される。

万有引力によってすべての物質は質量に比例する引力を持っているという「解釈」が出来る。そうすると、地球を離れていくように見えるヘリウムガスを入れた風船も、「解釈」としては、地球に引っ張られるという前提で考えなければならない。ヘリウムガスの場合は、地球の引力よりも、空気から押される浮力のほうが大きくなるので結果的に地球を離れるという現象が見られるという「解釈」になる。この「解釈」によって、万有引力と形式論理的な矛盾を起こさないように、論理的な整合性が取られることになる。

万有引力の場合は、科学的真理として確かめられているので、これを前提にして思考を進めることに問題は生じない。しかし、このように確実な真理として確定したものでない「解釈」を前提にして思考を進めれば、その「解釈」に間違いがあった場合に、そこから展開された思考の全体が崩れてしまうということが起こる。

戦前の日本の軍隊および日本という国家は、世界に冠たるひどいものだったのだろうか。その前提が正しければ、さまざまな日本軍の行為というものの「解釈」も論理的な整合性が取れるものになるだろう。しかし、この前提が違っていた時は、そこから導かれたように見える判断はすべて疑わしいものになってしまう。

南京大虐殺」や「従軍慰安婦」「沖縄の集団自決」の問題などは、旧日本軍と日本という国家のひどさを象徴する「事実」だと言いたい人がいるかもしれない。しかし、日本がひどい国だったからということを前提として「解釈」すれば、これらのことが起こったということが論理的整合性を持っているという「解釈」になっていると、その信憑性は、旧日本軍や国家としての日本がひどいものだったという「解釈」の妥当性に依存することになる。

これに疑問を差し挟むならば、そういう「解釈」を前提としない「事実」性から、上のような事件の姿を確定する必要があるだろう。例えば、「沖縄の集団自決」の問題では、多くの証言が得られているというが、証言だけでは証拠としての能力は弱いと考えなければならないだろう。裁判においても自白だけで判断すれば間違えることが多い。「解釈」を前提としないのであれば、どうしても物的証拠を求めなければならなくなるのではないかと思う。

もちろん、物的証拠を求めることが難しい場合があるだろう。そのような時、裁判であれば基本的には、犯罪を確定する証拠がないのであるから、疑わしくても被告は無罪になるのが正しいと思う。歴史的「事実」の場合は、裁判のときほど割り切った感覚にはなれないだろうから、問題の設定を変えて対処するのがいいのではないかと思っている。

南京大虐殺」「従軍慰安婦」「沖縄の集団自決」といった問題が、本当にあったことであれば、日本軍や日本という国家はいかにひどいものだったかがよく分かるようになるだろう。しかし、日本がそれほどひどい国家だったということを証明することにどれだけの意味があるだろうか。しかも、その証明は困難を極めているとすれば、なおさら意味を失うような気がしてならない。証明が困難であればあるほど、この「解釈」は自明の前提として設定されているだけのようにも見える。

以前の国家や軍隊がひどいものだと分かっても、今のそれは違うのだという意識があれば、そのひどさは過去のものになり、現在それに気をつけるという意識は薄れる。過去の「解釈」がイメージだけであって、その内容まで理解してされているのでなければ、昔はたいへんだったけれど今はいいという「解釈」にもなるのではないだろうか。

原因と結果を考える因果律も一つの「解釈」に過ぎない。日本軍と日本という国家がひどいものだったから、戦争においてひどい行為が行われたという因果関係も一つの「解釈」だ。この原因の位置に置かれているひどい国であるという「解釈」が、原因として置かれるのではなく、もっと根本原理的な、別の原因があるのではないかという問題の設定が、現在にもつながる思考の展開を見せるのではないかと思う。

小室直樹氏は、目的と手段が逆転してしまって、手段が目的化してくるようなメンタリティの問題性を、日本社会の問題として指摘していた。戦争行為というのも、そもそもの目的は、日本が外国の植民地にされないようにという自衛の目的を遂行するための手段だった。だから、その目的が達成されるなら、どこまでも戦争をする必要はなかったし、目的が達成されたと判断した時点で停戦協定を図ることも出来ただろうと思う。

しかし、いつしか戦争をすること自体が目的化し、そのために退却も捕虜になることも許さないというようなおかしな規定さえ生まれた。たとえ玉砕してでも戦争を遂行するというのは、戦争を手段として考えた場合には起こりえない発想だろう。

目的と手段を混同することは、高度経済成長期の企業での労働にも見られたと小室氏は指摘する。働いて物を生産することは、自分の生活を豊かにするための手段に過ぎないのだが、いつしか働くこと自体が目的化し、何のために働くかではなく、働くこと自体が幸せという転倒した意識を生み出すことによって、日本の猛烈サラリーマンが生まれた。

このような目的と手段の混同は、日本社会のあらゆるところに見られるのではないかと思う。大学受験は、学問をするためにどこかの大学へ入るための手段に過ぎないのだが、かつても今も受験生にとっては人生の目的のようになってしまっている。

単純なものの存在は、単にそれを指し示すだけで理解できるが、複合概念の存在は、指し示すことが出来ない。それは「解釈」によって「ある」とも「ない」とも言える弁証法的なものになる。だからこそ、複合概念の問題を、単純な存在の問題にしてはいけないのだと思う。僕は「ない」ということを主張しているのではない。「ある」ということへの疑問から思考をスタートさせようとしているだけだ。単純な「対象」であれば、「ある」の否定は「ない」なのだが、複合概念の場合は、「ある」の否定は、「かつ」という論理語で結ばれた命題の一つを否定することに過ぎないのだ。