囚人のジレンマ−−信頼への裏切りがもっとも利益になるという皮肉な判断


ゲーム理論で有名なものの一つに「囚人のジレンマ」と呼ばれるものがある。これは詳しくは「囚人のジレンマ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」で紹介されているが、簡単に要約すると次のようになるだろうか。

共犯だと思われる二人の被疑者AとBの取調べにおいて、二人において次のような条件が提示されたとする。

  • A,B二人とも黙秘し、自白しなければ少ない物証によって二人は懲役2年の刑になる。
  • どちらか一人が自白し、もう一人が黙秘した場合は、自白したほうは情状酌量されて反省の意を示したと受け取られ懲役1年に減刑される。しかしもう一方は、反省の意を示していないと判断され、懲役15年の厳罰に処される。
  • A,Bどちらも自白したなら反省の意を示したという情状を考慮して、その罪に応じた処罰として懲役10年が言い渡される。

このとき、二人の囚人AとBはどのような戦略を立てることが利益を最も大きくするか(あるいは損害を最も少なくするか)ということを考えるのがゲーム理論の問題となる。

ゲーム理論のもたらす結論は、相手を裏切って自白することが最も利益となる(最も損害を少なくする)というものだ。論理の流れとしては次のとおりだ。まずは、相手の行為を「自白する」か「自白しない」かのどちらかだというふうに場合分けする。これは、形式論理における「排中律」を認めるなら、これですべての場合を尽くしていることになる。さらに、それぞれの場合において自分が「自白する」か「自白しない」か、どの行為を選ぶほうが利益になるかを考える。それは次のようになるだろう。

・相手が自白した場合
 自分が自白すれば、懲役10年の刑になる。
 自分が自白しなければ(黙秘すれば)懲役15年の刑になる。
 自白したほうが利益が大きい(損害が小さい)。

・相手が自白しない(黙秘した)場合
 自分が自白すれば、懲役1年の刑になる。
 自分が自白しなければ(黙秘すれば)懲役2年の刑になる。
 自白したほうが利益が大きい(損害が小さい)。

いずれの場合においても、自白するという行為のほうが利益が大きくなる。したがってゲーム理論においては「自白する」という戦略が理論的には選ばれるということになる。

だがこの結果は皮肉なものとして現実化する。上の思考は、一方だけに当てはまるのではなく、両者に同じように当てはまる。だから、A、B二人とも、お互いを裏切ることが最適の戦略になってしまう。そうすると、お互いを信頼していれば懲役2年で終わったものが、実際には懲役10年の刑を食らうことになって、理論的には最適な選択とはいえ何か損をしているような気分になってしまう。このあたりが「ジレンマ」と呼ばれることにつながってくる。

この囚人のジレンマは、設定としては無理やりにこのような場面を作り出して考察しているので、その無理が何かジレンマを生じさせてしまっているようにも感じる。もし、二人の囚人が本当に罪を犯しているのなら、自白することによって反省の意を示すことで懲役10年に落ち着くのは合理的であるようにも感じる。

しかし、もし冤罪であるなら、そもそも懲役刑になること自体が間違っているともいえる。だから、問題は冤罪であるか、本当に罪を犯しているのかを正しく判断することにあるようにも見えるのだが、これは現実にはたいへん難しい問題になる。完全な物証があれば自白などは必要ないわけだが、それがない時は自白がかなり大きな決め手になる。

もし一人が冤罪で、もう一人が真犯人であった場合は、これは最も悲惨な結果をもたらしてしまう。冤罪の方はあくまでも犯行を否認して自白しない態度を貫くであろうが、真犯人のほうは、そのままでも懲役10年の刑には値してしまうのであるから、自白してそれが懲役1年になればたいへんな儲けものという感じになる。したがって、真犯人のほうが懲役1年になり、冤罪のほうが懲役15年を食らうという結果が起こってしまうだろう。

ゲーム理論の設定では、この二人は共犯ということになっているので、冤罪と真犯人というケースは除外されていると思うが、現実にはそういうケースが起こる可能性はある。また共犯の場合も、この二人がお互いに信頼を保ちつづけられるかという問題が、現実の問題として生じてくる。それは、さまざまの実験によればかなり難しいことが確かめられているらしい。人間は、信頼を持ちつづけるよりも、疑心暗鬼になって相手を疑うことが多いらしい。そうすると囚人のジレンマの状態にいる人間は、自らの利益のために相手を裏切るという行為に傾くことがかなりあるようだ。

囚人のジレンマは、ゲーム理論の対象としても面白いと思うが、それ以上に、人間における信頼関係のもろさというものを教えてくれるのではないかと思う。囚人という設定ではないが、ある利害関係を持った相手がいた場合に、お互いを信頼し合えば現実的には利益となるのに、自分が信頼しているときに相手に裏切られるときの損害の大きさに疑心暗鬼になり、お互いを裏切って、信頼していた状態よりも利益を損なうというケースが出てくる。この皮肉なジレンマが人間社会においてはたくさん見られるようだ。

上記のウィキペディアでは

「「囚人」という言葉にこだわらなければ、現実での例はいくらでもある。「価格破壊競争」など、例えばA社とB社があり、A社が販売価格を下げれば、B社のシェアを奪う事が出来るが、B社も販売価格を下げた場合、A社のシェアは変わらず、利益のみが下がる事になる。恐怖の均衡にも似たところがある。」


という例が語られている。米ソの冷戦時代などにも、核兵器の使用という点で、先に使ったほうがより損害が少なく出来るという理論的な結果が導かれたそうだ。バートランド・ラッセルのような平和主義者でさえも、理論的にはそう主張したということをどこかで読んだ記憶がある。

核兵器をお互いに使うことがなければ、つまりお互いが使わないという信頼を持っていれば、核兵器による悲惨な殺戮は避けられる。しかし、この信頼をもし相手が裏切るなら、先に核兵器を使って相手を屈服させてしまったほうが利益が大きくなる。相手に対する信頼が崩れ、疑心暗鬼を抱けばそう結論せざるを得なくなる。

しかし、その思考は相手も同じなので、お互いに核兵器を使用してそれに見合うだけの悲惨な殺戮が行われるということになってしまう。それは、相手に一方的にやられる場合に比べれば損害の程度が少しは軽くなるかもしれないが、大きな損害を受けることは確かだ。信頼していれば受けなくてすむ被害が、信頼がなくなったときには、最適の戦略を選んだ場合でさえも大きな損害を受ける。

幸いなことに、冷戦時代には米ソどちらも先に核兵器を使って相手に先んじようとすることがなかった。核兵器の場合は、下手をすれば自分も全滅してしまうかもしれないという大きなリスクがあるので、その決断を下せなかったということもあるのだろう。理論どおりにいかなかったのを幸いだと思うだけだ。だが、これはお互いの信頼の上に安定して平和が保たれていたようにも見えない。果たして、平和というのは信頼関係の基礎のうえに築くことが出来るものだろうか。囚人のジレンマに寄れば、それはたいへん難しいのだといっているように聞こえる。

日本国憲法では、その前文に「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という文章がある。日本国憲法の平和の理念は、「平和を愛する諸国民の公正と信義」への信頼を基礎に置いている。囚人のジレンマ的な発想で言えば、この信頼が崩れない限りにおいて、現実的には最も利益となる方向を選択していることになる。だが、もし信頼が裏切られれば、日本は最も損害が大きくなるというリスクを背負っている。

現実には、日本は自衛隊という軍隊を持ち、日米安保条約によって世界一強大な軍隊の庇護の元にいるという、いわば日本国憲法でうたわれているような「信頼」を裏切る存在となっている。日本国憲法は、その前文において空文化しているわけだ。だが、この空文化はゲーム理論的にいえば正しい選択だといえるものになるだろう。

国家における軍隊の問題も、囚人のジレンマ的な側面を持っているように思われる。もし軍隊に使うだけの金を他のところにつぎ込めるなら、国家としての経済的な利益は計り知れないものになるだろう。しかし、軍隊を持たないということは、外国が侵略してこないということを信頼することでもある。この信頼は、たいていの場合は裏切られる。地下資源を豊かに持っている国は、侵略される危険をかなり考慮しなければならないだろう。

Kさんが「存在の問題の難しさ−−その弁証法性」というエントリーのコメント欄コスタリカについて語っているが、コスタリカはかなり特殊なケースとして考える必要があるのではないかと感じる。

コスタリカにおける軍隊の放棄は、自らの国が、侵略されるあるいは侵略するという行為からは遠くはなれているという特殊な状況における結果だと考えたほうがいいのではないかと感じる。それは一般化できるケースではなく、特殊な例外的な存在だというふうに僕には感じる。

コスタリカは、自らが原因で国際紛争を起こすことは考えにくい。他国の状況に巻き込まれるという危険性が最も高い。だから、他国の紛争の調停への努力というのは、コスタリカという国の存続をかけた仕事になるようだ。その調停のためには、強大な軍隊を持つ必要はないし、むしろ軍隊を持たない、戦争行為の心配のない国だということをアピールしたほうが有利だろう。コスタリカという国の特殊性が、軍隊を持たないという選択を合理的なものとしているように思われる。果たして、その他の国でも、平和を実現するために軍隊を持たないほうが利益となるのだということを一般化できるだろうか。

これは理論的には僕には確信が持てない。囚人のジレンマが信頼を揺さぶるのではないかと思われるからだ。核兵器を使用しないという点では、我々は結果的にその囚人のジレンマを解決してきたように見える。米ソは核兵器を使わなかった。この成功を軍隊一般にも広げることが出来るだろうか。もし出来るなら、未来において軍隊のない平和な世界を想像(創造も)することが出来るだろう。しかし囚人のジレンマが残りつづけるなら、未来に渡っても国家が存続する限り軍隊も存続するということになるのではないかと思う。国家にとって軍隊は必然的な存在になるかどうか、萱野稔人さんの国家論などを参考にして今一度考えてみたいと思う。