自己実現幻想の弊害−−いつまでも子どもから脱しきれない若者たち


内田樹さんが「人生はミスマッチ」というエントリーでたいへん面白い文章を書いている。このエントリーの冒頭で内田さんは次のように書いている。

リクルートの出している「RT」という冊子の取材が来て、「高校の先生に言いたいこと」を訊かれる。
中高の現場の先生には基本的に「がんばってね」というエールを送ることにしている。
現場の教師の士気を低下させることで、子どもたちの学力や道徳心が向上するということはありえないからである。
現場の教師のみなさんには、できるかぎり機嫌良くお仕事をしていただきたいと私は願っている。
人間は機嫌良く仕事をしているひとのそばにいると、自分も機嫌良く何かをしたくなるからである。
だから、学校の先生がすることは畢竟すればひとつだけでよい。
それは「心身がアクティヴであることは、気持ちがいい」ということを自分自身を素材にして子どもたちに伝えることである。」


学校という現場にいる人間として、たいへんありがたい応援の言葉をもらったようで嬉しく感じるし、その基本的な発想に共感するものだ。教師という職業の人間に出来ることは高が知れている。その中で何を一番大事にしなければならないかという発想で、内田さんが語る「「心身がアクティヴであることは、気持ちがいい」ということを自分自身を素材にして子どもたちに伝えることである。」ということは、たいへん共感できることだ。

この教育観も共感できる面白いことだったのだが、それ以上に印象に残ったのが若者の自己実現幻想の弊害を指摘した次の部分だ。

「大学三年生相手の就職セミナーでリクルートの営業はまず最初に「みなさんは自分の適性に合った仕事を探し当てることがもっとも重要です」と獅子吼する。
その瞬間に若者たちは「この広い世界のどこかに自分の適性にぴったり合ったたった一つの仕事が存在する」という信憑を刷り込まれる。
もちろん、そのような仕事は存在しない。
だから、「自分の適性にぴったり合ったたった一つの仕事」を探して若者たちは終わりのない長い放浪の旅に出ることになる。」


この主張は、宮台真司氏などがマル激でよく語ることと重なるところがまた面白いと思った。内田さんは、以前の文章などで、宮台氏がどうやら嫌いらしいということが書かれていたのだが、嫌いという感情を抱いていても、その語る結論が重なってしまうというのは、それが合理的な思考の結果であることを物語っているような感じがする。

どこかに自分にぴったり合った職業があるはずだという考えは、仕事によって自己実現を図るということに通じる。そして、そのような仕事を求めて自分探しの旅に出るような放浪を求めるようになる。しかし、それはどこかに探し求めるものが存在するのではないという指摘を、宮台氏も内田さんもしているように見える。それはチルチルとミチルが求めた青い鳥のようなものだろう。それは、どこかに始めから存在しているものではなく、生きていく中で創りあげ、発見していくものなのだろうと思う。だからこそ、青い鳥は、実はすぐ近くにあったのだということになるのだと思う。

自己実現幻想も、それが幻想である所以は、自分にぴったり合った職業などというものが、どこかに始めからあるという思い込みだ。そんなものはないのである。もしぴったり合ったと思えるときが来るとしたら、それはまず仕事を始めてから後に分かるのであって、仕事をする前に分かることではない。

さらに言えることは、人間は活動をすることで変化し成長するということだ。はじめは何気なく始めた仕事が、その仕事をすることで成長をし、いつしか天職のようにその仕事で才能を発揮するということがある。むしろ、最初から使命感を抱いてその職業に飛び込んだ人間は、こんなはずではないという幻滅のほうが強くて、最初の志がだんだんしぼんでいってしまうことのほうが多いのではないだろうか。

本多勝一さんは、地元に帰って家業を継ぐのがいやで、たまたま就職してしまった新聞記者という仕事が天職のようになったとどこかで語っていた。それもきっかけは、察回り(警察情報の聞き取り)という定型的な仕事のつまらなさと矛盾に気が付いたことがその転換点だったという。そして、元探検部という特性を生かした秘境のルポルタージュがヒットしたので、本来やりたかったことに手が出せるようになったという。仕事をする中で、その特性と才能が花開いて、自身の成長ということが結果的に仕事での自己実現をもたらしたという感じがする。

本多さんのような有名人と自分自身を比べるつもりはないのだが、僕自身も教員になったきっかけは、卒業後も学問を続けるだけの時間的余裕がほしかったというのが一番の理由だった。学問そのものを職業にすることが出来なかったので、せめて生活の糧を稼ぐ仕事の合間に学問をするだけの余裕がほしかったというのが、教員という職業を選んだ理由だった。いわば、「教員にでもなるか」という感じの「でも教師」だった。子どもが好きだとか、教育に使命感を感じて教師になったということではなかった。

しかしそれでも憧れの教師像というのは持っていた。それは児童文学者の灰谷健次郎さんがかつてそうだっただろうと思えるような教師であり、灰谷さんと対談をして、「人間について」という授業実践をしていた林竹二さんが、いわば僕の理想の教師像だった。しかし学校現場で実際に仕事をしてみると、この理想はすぐに崩れていった。とてもじゃないが、自分にはこの二人の真似すらできないという思いが強かった。自分には教師の資質が欠けているというか、教師は自分に適した仕事ではないという思いをすぐに感じたものだった。

自分の進むべき道は二つしかないように感じていた。一つは、適正を欠く教員という仕事をやめて、もっと自分に適した仕事を求める道だ。そしてもう一つは、教員という仕事を、生活の糧を得るための仕事と割り切って、給料分の仕事をしてすごせればいいと思うことだ。これは、適性がないと思える教師の仕事に慣れることで対処しようというものだ。

不思議なもので、適性がないと感じたところですぐに辞められないと、ちょっと長く仕事を続けると、この仕事に慣れが出てくる。1年を過ぎたところで迷いながらも続けていた仕事が、3年も勤めてしまうと、それなりに大過なく過ごせるようになり、これならこの先何年でも慣れと経験だけでやっていけそうな感じもしてしまった。

転機が訪れたのは、4年目に養護学校に転勤したことだった。そこでの仕事には迷いもなく、ある意味ではこんなに楽しんで仕事をしてもいいのだろうかと思うくらい、仕事に没頭することが出来た。ここでようやく適正を感じる仕事にめぐり合ったという感じだろうか。養護学校での仕事は、当時は余り希望する人はなく、会う人ごとに「たいへんですね」と声をかけられたものだが、僕にはそういう思いはまったくなかった。むしろ、楽しさのほうが大きく、楽しいがゆえにここでの仕事は楽だという思いが強かった。そのように感じることが出来たとき、その仕事に適正を見出すことが出来るのかもしれない。

ただ、楽しい仕事は四六時中あるのではなく、つまらない仕事が大部分ではあるけれど、その中にいくつかの楽しい時があることが、その仕事への意欲を継続させてくれているという感じがする。仕事での自己実現というのは、そういうものではないかと思う。どんな仕事をするかというのは、かなり偶然の結果であることが多い。その偶然に取り組んだ仕事で自己実現が出来るかどうかは、その仕事のどこかに適正を感じる部分を見つけることで成し遂げられるのではないかと思う。決して、どこかに適正がぴったりする仕事があって、それが待ってくれているのではなく、偶然見つけてしまうものなのだろう。

その偶然見つけるきっかけとしては、内田さんが語る

「人生はミスマッチである。
私たちは学校の選択を間違え、就職先を間違え、配偶者の選択を間違う。
それでもけっこう幸福に生きることができる。
チェーホフの『可愛い女』はどんな配偶者とでもそこそこ幸福になることのできる「可愛い女」のキュートな生涯を描いている。
チェーホフが看破したとおり、私たちには誰でもどのような環境でもけっこう楽しく暮らせる能力が備わっているのである。
それでいいじゃないか。」


という文章の中の「可愛い女」の感性が役に立つのではないかと思う。どんな相手ともそこそこうまく付き合えるというのは、どんな相手とも相性のいい部分を見つける技術と能力を持っているということではないかと思う。どこかに自分にぴったりあう唯一の相手がいるのではない。どんな相手とも、相性の合う部分は必ずあるのであり、それを見つけることが出来るかどうかで幸福になれるかどうかが決まる。

このような考え方は、板倉聖宣さんが語る「どっちに転んでもシメタ」という発想にも似ている。現在の状況というのは、視点を変えることによって最悪の状態だという思いを転換できるということだ。それは、無理やりにそう思い込んで自分を慰めるのではなく、客観的にそういう視点が必ず見つかるというのが、いわば弁証法的な現実の法則性だといってもいいものになっている。「ものは考えよう」ということわざに通じるものだろうか。

ただ、この弁証法性は、弁証法性であるから常に正しいとは限らない。いつも「ものは考えよう」と思っていると、もしかすると不当な扱いを受けているのに、それに気づかないで我慢しているだけということもあるかもしれない。だが、それの裏返しとしての、民衆は常にだまされて搾取されていると考えるのも、極端な非弁証法的な発想になるだろう。問題は「程度の問題」なのではないかと思う。

人間はたいていどんな相手ともうまくやっていけるだけの社会性を持っている。しかし、特別の相手とはどうやってもうまくいかないということもある。そこに「程度の問題」が存在するだろう。仕事に関しても同じではないかと思う。どんな仕事でもそれなりにやることは出来る。生活の糧を得るためだと割り切れば、少しでも効率のいい給料の高い仕事を探すというのが第一に大切なことになる。特別に自分に相性の合わない仕事だけができないという判断になるだろう。だが、自己実現が出来なければ自分とは相性が合わないのだという基準を持っていると、大部分の仕事は自分と相性が合わなくなってくる。自己実現幻想を持つことは、仕事をするという社会性を育てる上で大きな弊害となって今現れているのではないかと感じる。自己実現は、目的として存在するのではなく、結果としてそのようになったように解釈できるという現象なのではないかと思う。そう思えたとき、人は少し大人になったと感じるのではないだろうか。苦い現実を謙虚に受け止められるようになるのだと思う。