論理トレーニング 3 (接続詞の選択)


さて、接続詞を選択する野矢さんの次の問題は以下のようなものだ。

問1-3
「地球を周回している宇宙船の中では無重量状態であり、それゆえ「軽くなった空気が上昇する」とか「重い空気が下がる」ということはない。
   <しかも/したがって>、
宇宙船の中でおならをしても、すぐには臭わないという。ただし、ガスが濃いまま漂っているので、それが鼻のところに来ると、臭い。」


この問題は、「しかも」と「したがって」にかなり顕著な違いがあるので分かりやすい。「しかも」の場合は、最初の言明を補強するような効果がある。野矢さんは、その言明から論理的に帰結されるであろう事柄を予想して、その予想をさらに補強したいときに「しかも」を使うという解説をしている。次のような場合だ。<ある料理屋で、「この店はまずい、しかも高い」というようなことを言ったとき、その後に「だから入るのはよそう」という言葉が続きそうになる。この「よそう」という判断を導く理由として、まず「まずい」ということがあり、さらにその上「高い」という理由を補強して「よそう」という判断を強める効果を「しかも」という接続詞が持っている。>


問題の文章では、最初の主張で、空気の無重量状態でそれが「動くことはない」ということが語られている。接続詞の後の主張では、それが臭うという状況が語られている。すぐには臭わないが、臭えば臭いという言明だ。さて、この二つの言明が、ある共通の判断を補強しているというのは想像しにくい。

むしろ、空気が動かないという状況を想像すると、その動かないという条件のもとに、その空気の場所に鼻がなければ「臭わない」し、その空気の場所に鼻があれば「臭う」ということが経験なしに予想できる。

それは、鼻は匂いを感じる器官であることや、匂いは空気によって運ばれるものであることが論理的前提となって、そのような帰結が導かれる。この、経験なしに言葉のつながりだけで想像できる帰結が導けるというのが「したがって」という判断であり、問題の文章の論理関係はまさにそうなっている。だからこれは「したがって」が正解だといえるだろう。

さて、次の問題を見てみよう。

問2
「財政政策が物価や景気の安定に確実な効果を持つためには、金融政策もまた財政政策と同じ方向で協調的に働く必要がある。
   (a)<しかし/ただし>、
例外的に財政政策が単独でも大きな効果を上げうる政策目標が、経済安定の関係で一つだけある。それは変動相場制下の経常収支に対する効果である。
   (b)<しかし/ただし>、
財政政策の得意な分野は、本来、このような経済安定に係わる政策目標ではない。それは公共支出政策や租税政策による資源配分や所得再分配である。」


これは最初の問題よりも難しさを感じるものだ。一つには、「しかし」も「ただし」も基本的に前の言明を否定的に受けるという構造が似ている点にある。「しかも」と「したがって」には、「しかも」が付け加える付加であり、「したがって」が論理的帰結を導くという、かなり顕著な違いが見られたが、「しかし」と「ただし」は、基本的な否定面では共通していて、細部のニュアンスで違うという接続詞なので、細部を見なければ正しい判断が出来ないという難しさがある。

それでも、その細部を正しく理解していればその難しさを克服できる。その細部は、「しかし」では、その前の言明と後の言明は、基本が否定面にあって、共通面は考慮されていないという点だ。だが「ただし」では、共通の肯定面があって、その肯定的な範囲で「例外的に」否定される面が取り出されて主張される。論理の流れに、そのような「例外的に」取り上げるというものがあれば、そこでは「ただし」がふさわしいことになる。

問2もこの細部の違いに注意して解答を考えるのだが、この問2は、この論理の用語の難しさのほかに、その内容にかかわる難しさがあるのを感じる。問1の3つの問題は、論理を考える問題ではあったが、そこで語られていることは日常用語で十分理解できる範囲のごくありふれたことだった。争いごとや庭のことであり、臭いのことであった。

しかし問2の内容は、用語が専門的なものになっていて、この用語の難しさが論理の構造を読み取る際にも難しさとして働くような気がする。何が書かれているかという内容の読み取りに難しさがかなりあるような感じがするのだ。

(a)の前の主張のポイントは「同じ方向で協調的に働く必要がある」ということだ。この抽象的な言い方だけならそれほど難しくはないが、財政政策と金融政策が「同じ方向で協調的に働く」ということの具体的な姿は、専門的な知識がないとどういうものかがよく分からない。この、よくわからないという面が、論理の読み取りの難しさを生むのだが、逆に、よく分からなくても論理構造という構造がうまく取り出されれば、論理の範囲で正しいのはどれかという判断ができる。論理というのは、その内容を知らなくても、形式的な構造のみから判断できるという面があるからだ。

さて(a)の後の主張は、この前提を肯定的に認めて、その中で例外的なものがあると語る、前提の一部否定なのか、それとも前提で語った「必要がある」を単純に「必要でない」と否定するものなのか。これは、(a)のすぐ後に「例外的に」という言葉が続いているので、一部否定の但し書きであることが分かる。だから、(a)の接続詞は「ただし」がふさわしいのだが、もし「例外的に」という言葉がなくても、このような判断ができるだろうか。

これは、論理の流れとしてそのような判断も可能だろうと思われる。そのときの判断の根拠となる言葉は、「単独でも」の「でも」であり、「一つだけ」の「だけ」である。協調的に働くことが基本であるから「単独でも」という「でも」の表現が使われ、大部分は協調的に働くが「一つだけ」例外的に強調的でない場合もあるという意味で「だけ」という表現が使われると考えられる。論理の流れは、全体として「ただし」の方に流れているので、それに伴って「例外的に」という言葉も使われるようになるのだろう。論理的に語る人間は、やはり最もふさわしい表現を選ぶということではないかと思う。

(b)の後の文章では、その前の単独で効果を上げる財政政策の内容についてさらに細部に議論を展開しているのではなく、それは一応置いておいて、それは本来の政策目標ではないと、その言明自体を否定する方向で議論が展開する。つまり言明をとりあえず肯定しておいて、その中の一部に否定面を見つけるという但し書きの構造にはなっていない。単純にその前の言明の否定を語る構造となっている。したがってここでふさわしい接続詞は「しかし」の方になる。

この論理構造を考えるとき、財政政策や金融政策の細かい内容に立ち入ることなく考えることが出来た。それだからこそ論理構造を考えることができるのだと言えるのかもしれないが、論理が正しいかどうかは、その事の内容を知っているかどうかには余り関係がないということはいえる。

専門的な知識は豊富に持っているが、論理的な構成が狂っているような言明があった場合、それが信用できるかどうかという問題はかなり深刻な問題であるような気がする。正しい論理によって展開されている主張というのは、前提の正しさを認めれば、どれほど結論に反対する気分が起ころうとも、結論が正しいことを認めざるを得ない。そのような絶大な信頼を置くことが出来る。

しかし、論理が狂っている言明は、どれほど前提が正しかろうと、その結論が正しいことを保証しない。結論が正しいかどうかは、それが事実であるかどうかを直接確かめなければ何とも言えなくなる。直接事実が確かめられる問題というのは、実は論理によって証明する必要のないものだともいえる。直接事実がわからないので、それが正しいかどうかが論理的に判断されるのが普通だ。

前提の正しさが確かめられないとき、自分にその知識がなくて判断ができないというとき、その論理構成が論理的に見て間違っているような主張だったら、その前提の正しさに関係なく、結論を信用してはいけないということが言えるだろう。それは、事実として正しいときもあれば間違っていることもある。その主張だけからは判断できないと思ったほうがいい。

逆に、論理が信用できるものであれば、その前提が正しいことがわかった時点で、その結論を100%信用することが出来る。そこで主張されている内容が専門的なものであり、その専門性にわかりにくい点がある場合は、論理性という観点からは、その結論の信用度がどれくらいあるかという見通しを持つことが出来るかどうかが重要なことであるように思われる。正しい論理に従っていない主張は、その主張だけでは結論が信用できないという観点は持っていたほうがいいだろう。

ある主張の結論に違和感を感じることはよくある。その結論のどこに違和感を感じるかを考えるのは物事を考えるいい観点ではないかと思う。結論が事実であるという事実性に違和感を感じるのか。それとも、結論を導いた論理に狂いがあるんじゃないかという論理性に違和感を感じるのか。

自分の好みや感性に反するような結論を聞くと、それだけでその結論に反対したくなる気分が涌いてくる。しかし、それは事実性の問題であれば、本当に確実な事実をつかまない限り、自分の好き嫌いの感情だけでは正しい判断にならない。たとえ違和感の出発点がこのような感性にかかわるものであろうとも、論理的な面にその違和感を与えるものを見つければ、自分の違和感を肯定的に受け止めてもいいだろう。違和感を感じるほうが正しいと。論理はそのような判断をもたらしてくれるすばらしいものだと思う。逆に言えば、論理的に狂いのない語り方をする人は、絶大な信頼をしてもきっと大丈夫だろうと思う。