論理トレーニング 4 (接続詞の選択)


野矢さんが提出する次の問題を見てみよう。

問3
「風土そのものが持つさまざまな特徴は、具体的に人間の生活と結びついて我々自身の特徴となる。
    (a)<それゆえ/たとえば>
稲およびさまざまの熱帯的な野菜や、麦およびさまざまの寒帯的な野菜は、人間が自ら作るものであり、したがってそれに必要な雨や雪や日光は人間の生活の中へ降り込み照らし込むのである。また台風は稲の花を吹くことによって人間の生活を脅かす。
    (b)<だから/すなわち>
台風が季節的でありつつ突発的であるという二重性格は、人間の生活自身の二重性格に他ならない。豊富な湿気が人間に食物を恵むとともに、同時に暴風や洪水として人間を脅かすという、モンスーン的風土の二重性格の上に、ここにはさらに熱帯的・寒帯的、季節的・突発的といった特殊な二重性格が加わってくるのである。」


この問題の解答は、野矢さんによれば(a)は「たとえば」であり、(b)は「だから」になる。これは、野矢さんの解説を理解し納得するのはそれほど難しくない。(a)の前に書かれているのは、どちらかというと抽象的な言明で、後に書かれているのは具体的な事柄を述べている。これは、抽象的な言い方では、それだけでは内容の理解が難しいので、その理解を助けるためにイメージしやすい具体像で実例を挙げるという論理的な流れだと解釈できる。そう理解すれば「たとえば」が入ることに納得できる。

「それゆえ」という言葉は、その前の言明を根拠に、そこから導かれる論理的な帰結を語るものになる。そういう目で(a)の前後を眺めてみると、(a)の後に書かれていることは、論理的な帰結というよりも、現実の観察によって得られた判断だといえるだろう。その判断の根拠となるのは、(a)の前の文章の内容というよりも、現実の観察の方だといえる。したがって「それゆえ」がふさわしくないことも納得できる。

(b)のほうの前後の文章は、「また」という言葉で展開されている内容についてのものだ。「また台風は稲の花を吹くことによって人間の生活を脅かす」という言明は、具体的な指摘であり、そのイメージは分かりやすい。これ以上の説明を必要とはしないだろうと野矢さんも指摘する。そうすると、この言明を言い換えてさらに説明するような言葉である「すなわち」という接続詞はこの場合はふさわしくないということになるだろう。

この(b)の前の言明は、その後の「台風が季節的でありつつ突発的であるという二重性格は、人間の生活自身の二重性格に他ならない」ということの理由として提出されていると野矢さんは解説する。台風の性格が、「人間の生活を脅かす」という、生活自身の性格からそう受け止められているのだと主張されていると解釈しているわけだ。これはこれで一応納得のいく説明になっている。しかし、僕はこの問題を見たとき、第一印象として≪なんと分かりにくい文章なのか≫という感じを受けた。

答えを聞けば一応納得するのだが、問題自体の文章がとても分かりにくいという印象を受けた。その印象はどこから生まれてくるものだろうか。それは、論理の流れが、他のことを考慮せずとも、文章を読めば自然にそう感じられるように書かれていないという不親切さにあるような気がする。

「たとえば」の前には「我々自身の特徴となる」という主張が書かれているのだから、「たとえば」では、この主張を具体的に説明していなければならない。そうでなければ、「たとえば」の論理の流れとしては自然ではないだろう。しかし上の問3では、「人間の生活の中へ降り込み照らし込むのである」という状況が語られているだけである。これは、我々自身の特徴としては語られていない。

後の部分を読めば、この「我々自身の特徴」は、二重性格のことを指すのかなとも思えるのだが、直接そう書かれていないので、この部分で論理の流れに乗れない引っ掛かりを感じて、何か違和感が生じてくる。ある文章が難しく感じられるときというのは、その主張がわからないというよりも、どうしてその主張につながっていくのか、論理の流れが不自然で引っかかることが多いのではなかろうか。そんなときその文章のどこが難しいのかはっきりしないけれど、わかりにくいなあという印象を持つのではないかと思う。

「だから」の部分の論理の流れも、台風が「季節的」で「突発的」であるということは、その前の「たとえば」の例としては語られていない。語られているのは、稲の花を吹いて我々の生活を「脅かす」ということだけだ。脅かされるので、「突発的」というイメージに結びつく感じはするのだが、「季節的」と「突発的」は、説明なしにすでに分かっている台風の性格として語られている。そのため、ここの部分が「だから」で結ばれていることに不自然さも感じる。その前に、台風が同じころにやってくるという実例と、それがいつ発生するかは基本的に、発生してみないとわからないという「突発性」を語ってくれないと、この部分の「だから」は不自然に感じる。

この問題の論理の流れは、台風という具体的な対象に対する命題として受け取るよりも、もっと一般的に、人間の生活の二重性格が、風土というか周りの環境の二重性格と結びついて、そこに符合するものが発見できるという主張だと受け取ったほうがいいのではないかと思う。そして、その符号を説明するには、実例としてあげたものがちょっと言葉足らずで、説明不足なのではないかと感じる。そこが難しさを感じたところだ。

この後、野矢さんは課題問題1というのを挙げている。これには解答がついていない。例題や練習問題は解答があったので、野矢さんの説明に納得するかどうかということを考えることが出来たが、課題問題では解答がないので、果たして自信を持ってこれが正解であるといえるかどうかが難しいところだが、今のところこれが正解だと思う、というような考察を展開しようかと思う。接続詞を選ぶ最初の問題は次のようなものだ。

問4−1
「私たちが今日男女の違いとして指摘する多くのものは、社会が異なれば変わってしまう。
    <つまり/たとえば>
本来、男性のほうが攻撃的で女性のほうが優しいというが、文化人類学者の調査によれば、女性のほうが本来男性より攻撃的だと思っている社会もある。」


この文章では、前半部分の抽象的な言明を、後半部分がどのように説明しているかという論理の流れを読むことが解答の決め手となる。「たとえば」の場合は、前半で語られている抽象的な事柄の実例を挙げて、具体的なイメージによって前半部分の理解を深めるという論理の流れになる。

問題の文章で、後半に具体的な地域や社会があげられて、その地域や社会では、男性と女性が具体的にこのようになっていると説明が展開されていれば、それは典型的な「たとえば」の使い方を示すものになるだろう。しかし、問題文ではそうなっていない。

具体的な地域があげられているのではなく、一般的に、前半で主張しているような、男女の違いが変わってしまうような「社会もある」という言い方がされている。つまり、後半でもやはり抽象的な言い方がされているわけだ。この特徴を適切に表現するのは「つまり」という接続詞のほうがふさわしいということになる。「つまり」は、ほぼ同じ内容のものを、意味を分かりやすくして言い直すときに使われることがふさわしいからだ。

問4−2
「日本国内で、トヨタとは、ヴィッツカローラのような大衆車からクラウンのような高級車までを幅広くそろえた「総合自動車メーカー」のブランドだ。だからその頂点にセルシオを置くと、ブランド全体の格が上がる。他方米国では、トヨタは「安くて高品質な小型車」をイメージさせるブランドだ。そのブランドで、ベンツやジャガークラスの車を投入するのはいかにもすわりが悪い。
    <だが/だから>
トヨタは、米国でセルシオを売るときに「レクサス」という別ブランドを用意した。そして広告から店舗からディーラー店員の客扱いまで、すべてを「高級」のメッセージで統一した。」


さて次の問題では、「だが」と「だから」の区別を考える。「だが」というのは、「しかし」に似て、その前の主張と反対の言明を語ることになる。それに対して「だから」は、その前の主張から論理の流れとして当然こう言えるだろうというようなものがつながり、論理的な帰結を導く接続詞になる。これはまったく違う意味になるので、この判断は易しいだろう。

トヨタのブランドは、アメリカでは高級車のイメージがないと前半で語られている。この流れを自然につなげて論理的な帰結を考えれば、「それではそのブランドと違う高級なイメージのブランドにしよう」というふうになるだろう。後半はまさにそのような言明が続き、高級ブランドとしての「レクサス」のことが語られている。つまり、これは自然な流れとしてつながっているのだから、「だから」がふさわしいということになる。

もし「だが」でつなぐなら、論理の流れとしては、トヨタのブランドが高級イメージでないにもかかわらず、そのイメージで高級車を出していくという論理の流れでなければ変な感じがする。上の文章がもし「だが」でつながれていたら、その文章を読んだときに、論理的な違和感を感じなければならないだろう。

この論理的な違和感というのもちょっと分析してみたくなったものだ。僕は、以前に『バックラッシュ なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』(双風舎)という本を読んだとき、その中に収められた斎藤環氏の「バックラッシュ精神分析」という文章に違和感を感じた。それは、僕がファンだった内田樹さんの批判が書かれていたということがきっかけだった。

僕は、内田さんが批判されていたので、感情的に違和感を感じたのか、それとも斎藤氏の文章に論理的な引っ掛かりがあって違和感を感じたのか、そのところは明確につかみきれていなかった。論理トレーニングの応用問題として、斎藤氏の文章の論理的分析を試みてみようと思う。そして、その論理に間違いがないことが確かめられたら、感情的に受け入れがたいと思った結論であっても、それを受け入れざるを得ないだろうと思う。正しいか正しくないかという判断においては、感情よりも論理が優先すると思うからだ。正しいか正しくないかを問題にしないのであれば、もちろん感情的な好き嫌いを優先させても問題はないと思うが。芸術鑑賞などはそういう問題だろうと思う。