共感することと理解すること


僕は内田樹さんと宮台真司氏とが好きな著者で、その著書のほとんどを持っている。内田さんの本で持っていないのは、翻訳をしたものくらいだろうか。ただ、内田さんには「さん」をつけて呼び、宮台氏にはいつも「氏」という敬称をつけて呼んでいるように、この両者に対する感覚的な受け止め方の違いというのがある。内田さんが年上で、宮台氏が年下ということも関係しているかもしれないが、内田さんは共感を感じる対象であり、宮台氏は、その語ることをぜひ理解したいと思う対象になっている。

宮台氏に対しては、僕はその天才性をリスペクト(尊敬)している。論理的にほとんど間違えることのない人間として、その天才性を感じている。宮台氏も人間であるから、時には間違えることもあるだろうが、その間違いはすべて末梢的なものであり、単純な言い間違いのようなものだと思っている。本質的な部分では決して間違えることのない人間が宮台氏だと思っている。

だから、宮台氏が語ることはまず理解したいと思うことが先行する。共感よりも理解の方が先になる。それだけ宮台氏が語ることは難しいということでもある。それに対して内田さんが語ることは非常にわかりやすい。僕が内田さんの本を読んだ一番最初のものは『寝ながら学べる構造主義』という本だったが、構造主義を語った本で、これほど読みやすく理解しやすい本はなかった。これで僕はいっぺんに内田ファンになってしまった。

内田さんは読者に対して非常に優しい著者だ。どこまでもわかりやすさを優先させてその文章を書いているように感じる。そのため、時には正確さを欠くこともあるだろうが、それよりもわかりやすさの方が大事だという思いが込められているのを感じる。正確さの方は、もう少し勉強が進んでから専門的なものを読んでから求めてもいいだろうというような感じだ。宮台氏は、あくまでも正確さが一番というような書き方を感じる。だから時には読者に対しては難しすぎる議論を展開しているところがあるが、それは専門領域のことだから仕方がないということで了解している。

教育に携わる人間としては、好みの点からいえばやはり内田さんの方に深く共感し、好きだという気持ちがわいてくる。読者の段階を想定して、できるだけわかりやすく語るというのは、教育における配慮に通じるものがあると思えるからだ。宮台氏のようなやり方は、専門領域に踏み込んだ人間の教育としてはふさわしいが、初学者にはなかなかついて行けないという気持ちを起こさせる。初学者には内田さんのような方向が望ましい。公教育という、本質的に初学者の学習の教育を担当する立場では内田さんのようなやり方が参考になる。

さて理解の対象である宮台氏の文章を読むときは、あくまでも論理的に正確に受け取るということに注意すればそれでいい。何が語られているかということが一番大事なことになる。そこに書いてある事柄に賛同するかどうかということは理解の過程では全く頭の中には浮かんでこない。もちろん、宮台氏が語っていることの正しさが理解でき、その前提としている事柄も正しいと確信したときには、正しいが故に宮台氏に賛同するという気持ちが生まれてくるが、これは「共感」とはちょっと違う感情の動きのようにも感じる。

内田さんに共感する部分というのは、その事柄に対してそれが正しい(真理である)かどうかの判断は難しいが、自分もそう思えると感じられる事柄を語っているときにもっとも「共感」を覚える。内田さんが語っていることは、もしかしたら原理的に真理であることを確かめようのない事柄なのかもしれない。だから、人はそれが正しいが故にそう行動するというよりも、そう信じるが故にそうするという、宗教的信念に近いものを原動力にして行動しているかもしれないと思ったりする。

いくつか実際に共感した文章を紹介しながら、その言い方のどの部分に共感するかを詳しく考えてみようかと思う。昨日たまたま手にした『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(角川書店)から引用しよう。たまたま手にして、しかもその始めの部分にもう共感できる文章が目に入ってくるのだから、内田さんが語ることのほとんどに僕は共感できるのだなあと思う。まずは次の文章だ。

「欲望の充足ラインを低めにしておけば、すぐに「ああ、何という幸せ」という気分になれるでしょう。「小さくても確実な幸福」(@村上春樹)を一つ一つ積み重ねてゆくこと、それが結局「幸せ」になるための最良の道だと思います。」


内田さんが語ることが「最良の道だ」という判断は、おそらく客観的に証明することができない事柄だと思う。それは、「最良の道だ」と思った人がそう行動するという命題になるだろう。それが正しいかどうかは、客観的に決まっていることではなく、主体的に選び取るものだろうと思う。僕はこの言葉に深く共感する。実際、娘や息子たちと一緒に酒でも飲んでたわいもない話をしているときに、僕はとても「幸せ」を感じる。この小さくて確実な幸せは、何か大きな仕事で賞賛を浴びるよりも僕にとっては気持ちのいいものではないかと思える。

これに対して、やはり名誉になることこそが幸せだと思う人もいるだろう。その人にとっては、このような「小さくて確実な幸福」は、たいしたものには見えないだろう。だからそういう人はこの言葉には共感できないだろうと思う。それはそれで仕方がない。この命題は客観的真理ではないからだ。客観的真理であれば、どんなに主観的に否定したくても否定することはできないが、そもそもがそういう真理が確定できないのであれば、それは、正しいと信じるのも間違っていると信じるのも、どちらも思想・信条の自由だと思う。この言葉に共感できない人もいるだろうが、僕は共感する。それだけのことだと思う。

さて次の共感する言葉を引用しよう。

「疲れたら、正直に「ああ、へばった」と言って、手を抜くということは、生きるためにはとても大切なのです。疲れるのは健全であることの徴(しるし)です。病気になるのは生きている証拠です。飽きるのは活動的であることのあかしです。」


この文章で「徴」に「しるし」とふりがなが振ってあるのは、原文でもそうなっているからだ。そして、最後の「あかし」は「証」と漢字になっていないのも、原文でそうなっているからだ。これなどは、見慣れない漢字によって理解が妨げられるのを防ごうとした教育的配慮ではないかと僕などは感じて、そこの部分にも共感を感じる。

「手を抜く」というのは、道徳的に悪いことだという罪悪感を持つ人がいるかもしれない。しかし、手を抜かずにがんばってしまったら過労死にまでいってしまうほどひどい結果を招くかもしれない。それは個別な条件によって違いがあるだろうが、いつでも「手を抜くことは悪いこと」という道徳に縛られていると、こんなに疲れているのは、少し休めという信号が身体から出ているのだというのに気づかなくなる。身体性というのも内田さんの重要なテーマだが、正直に自分の感覚に従うということの意義を強調するところに僕は共感する。

がんばりすぎる人は、自分の限界を超えることが自分を進歩させることだと捉えて、自分を限界まで追い込むこともある。かつて武道家の南郷継正さんは、しごきの必要性というのを、限界を超えるという点に求めていた。これは、確かに極限を経験して、それを克服した人は、南郷さんがいうところの達人の領域に踏み出すことができるだろうと思う。しかし、誰もが達人になれるわけではないという厳しい現実があることも知らなければならない。自分は達人になれそうもないと分かったとき、それでも敢えてがんばり続けるのか、それともその現実を受け入れてなお幸せである方向を探すのか。これは、専門家ではない人の教育にも通じる問題ではないかと思う。

内田さんは、「自分の潜在的可能性の「限界を超える」ためには、自分の可能性には「限界がある」ということを知らなくてはいけません」ということを語っている。この弁証法性を深く捉えた言い方にも僕は共感する。限界を超えるためのしごきについても、南郷さんは限界の一歩手前の見極めの大切さを強調していた。限界を超えてしごきをしてしまえば、力士死亡事件にあったような痛ましい結果を招く。限界を超える前に身体の方が限界に到達して死んでしまうことにもなる。限界を超えるために限界があることを知らなければならないというのは、その限界の手前まではがんばるが、限界を超えてまでがんばってはいけないということだ。

限界がはっきり見えるまでは努力やがんばりがあっても認められないとなると、これは幸せになるどころか不幸な結果を招くことになる。内田さんの次の言葉なども僕はとても共感するものだ。

「愛情をずいぶん乱暴にこき使う人がいます。相手が自分のことをどれほど愛しているのか知ろうとして、愛情を「試す」人がいます。無理難題を吹きかけたり、傷つけたり、裏切ったり……様々な「試練」を愛情に与えて、それを生き延びたら、それが「本当の愛情」だ、というようことを考える。
 でも、これは間違ってますよ。愛情は「試す」ものではありません。「育てる」ものです。
 きちんと水をやって日に当てて肥料を与えて、じっくり育てるものです。
 若芽のうちに、風雨にさらして、踏みつけて、それでもなお生き延びるかどうか実験するというようなことをしても、何の意味もありません。ほとんどの愛情は、そんなことをすれば、すぐに枯死してしまうでしょう。」


「愛情を「試す」人間は間違っている」という命題は客観的に証明できるものではない。しかし僕はその正しさを確信する。これは、それが正しいということを主体的に選び取って、その正しさを確信する類の命題ではないかと思う。

内田さんはこの可能性の問題を、「僕たちの可能性を殺すものがいるとすれば、それは他の誰でもありません。その可能性にあまりに多くの期待を寄せる僕たち自身なのです」という言葉で結んでいる。この結びにも僕は大きな共感を覚える。教育に携わる人間として、この言葉が正しいという実感がわいてくるのだ。

内田さんは、宮台氏のようなタイプが嫌いだということをどこかで書いていた。思想的には対立する部分がかなりあるのだろうと思う。内田さんのブログの最新エントリーでは、都庁で宮台氏と初遭遇したことが書かれていた。どのような議論がされたのか興味のあるところだ。しかし、どんな議論がされようと、僕が内田さんに共感し、宮台氏の論理に尊敬を抱くということは変わらないだろうと思う。内田さんに対する共感は、僕の身に染みついた何かが共感せずにはいられないものを感じてしまうのだろうと思う。好きなものが、なぜ好きなのかという理由が語れないように(それは好きだから好きなんだとしかいいようがないのだが)、内田さんに共感するのも、共感せずにはいられないから共感しているというのが実感なのかもしれない。