論理トレーニング 6 (接続の構造)


さて、接続詞の選択では、接続詞の前後の文章の論理的関係が考察された。これが「接続の構造」と呼ばれる章では、接続詞の前後だけではなく、ある主張を主題に持ったまとまりのある文章の全体に関して、論理的な接続関係の構造を捉えようというものになる。これは、部分を見る接続詞だけの考察に比べると難しい。文章全体(といってもまだ短いものだが)が何を主張しているかという読み取りは、その文章自体が論理的にすっきりしていないとなかなか読み取ることが難しいからだ。論理的な構成として優れた文章を材料にしてトレーニングしないとこれは難しい。

どんな問題を差し出してくれるかは野矢さんの腕の見せ所だが、問題は、細かい命題に番号が振ってあって、その命題の間の論理的関係を構造化して捉えるというものになる。例題で紹介していこう。

例題2
「何事かを説明するとき、われわれは必ず現実からなにがしかの距離をとらなければならない。たとえば、友人のために自宅までの地図を描いて説明することを考えてみよう。

  • 1 この場合にも、われわれはすでに「現実から一歩離れている」。つまり、
  • 2 地図を描くということは、自分で彼を家まで連れてくることとは違う。むしろ、
  • 3 現実そのものの街を彼とともに歩かないですむところに、地図を描く効用があるのである。また、
  • 4 そのような地図を描く際、われわれは自宅に辿り着くのに必要な道筋や目安を書き込むけれども、「あまりにちいさなこと」や「目安にならないこと」は書き入れない。たとえば、
  • 5 この家には鯉を飼った池があるとか、この魚屋はめったにまけないとか、ここによく子どもが遊んでいるといったことは書かないのである。

同様に、説明もまた、ただ事実そのものの事細かな記述ではない。何を説明するかがまずあり、それにとって必要なことのみを詳述したものが説明なのである。」


この文章は、文章全体の主題は「説明」ということの意味を明確に主張するところにある。冒頭では「現実からなにがしかの距離をとらなければならない」と主張し、結びでは「何を説明するかがまずあり、それにとって必要なことのみを詳述したものが説明なのである」と主張されている。現実から距離をとることが、現実そのものを記述することではなく、必要なものだけを語ることにつながる。この文章全体の主題を説明するときに、この主張に説得力を持たせるため、1〜5までの論理の流れによって主張の内容を説明しようとしていると考えられる。その構造を捉えようというのがこの章のトレーニングだ。

さて、1〜5までのそれぞれの部分的な構造は、そこに表れている接続詞から読み取ることができる。以下のようなものだ。野矢さんが使っている記号による表現も併せて書き込んでおこう。

  • 1 つまり2 (1 =2 )
  • 2 むしろ3 (2 +3 )
  • 3 また4 (3 +4 )
  • 4 たとえば5 (4 たとえば5 )

野矢さんは、解説に対してはすべて「=」で一括して表現している。これは、同じ内容を言葉を換えていっているという解釈からだ。文章としては違うけれど、その内容は同じだというものを「=」で表現している。「つまり」「すなわち」「言い換えれば」「要約すれば」などという接続関係は、すべて「=」で表される。

同様に付加の関係はすべて「+」で表される。主張に内容的な関連があれば、そこの論理は「転換」として解釈される場合もあるが、内容的には全く別のことが語られているときは、単に付加されていると解釈される。それはすべて「+」で表現される。

「たとえば」「しかし」「ただし」に関しては、このような記号に還元せずに、日本語のままで論理の接続関係が表現される。「たとえば」は実例を挙げるときに使われ、「しかし」は否定である逆の主張を敢えて語るときに使われ、「ただし」では、主題は肯定されるがその一部が否定されるという関係にあるときそう表現される。これらはそれぞれ特徴が分かれていて、一括して扱うことが難しいので、そのまま日本語で表現しているものだと思われる。

さて、接続詞はその前後の関係を示してくれるが、これを全体の構造にまで視野を広げて判断しようとするなら、難しいのはその接続詞の関係が、全体ではどの範囲まで及んでいるかということだ。

たとえば始めの「つまり」に関して、1 と2 だけの関係でいえば1 =2 という表現でいいのだが、5 までを含んで考えると、1 と「=」の関係で結ばれるのはどこまでかということが問題になってくる。「現実から一歩離れている」ということの説明は、全体を眺めるとどこまでだと言ったらいいのかということだ。

2 から5 までの内容を見てみると、それぞれ現実に対して、地図ではそうなっていないということが語られ、どれも「現実から一歩離れている」ということの解説になっているようにも思える。

  • 2 「自分で彼を家まで連れてくること」と地図を描くのは「違う」
  • 3 「現実そのものの街を彼とともに歩かない」
  • 4 「「あまりにちいさなこと」や「目安にならないこと」は書き入れない」、つまり現実そのものではない。
  • 5 ここでは、具体的な細かいことについて「書かない」と語っている。


このように考えるとすべてが1 の解説のようにも見えてくる。しかしここで3 の後ろの「また」という接続詞が気になってくる。「また」という言葉で、話を別のものにしているのではないかという気がしてくるからだ。もしすべてが1 の解説であるなら、ここは「また」ではなく「さらに」というようなニュアンスでつなげなければならないのではないだろうか。「また」を使うことによって、論理構造としては、ここで1 の解説が途切れているという意識が働いているのではないかと感じる。

野矢さんの解答によれば、2 と3 は、地図を描くこと「自体」について「現実から一歩離れている」ということの内容を語っていると指摘している。それに対して4 と5 は、「どのような」地図を描くかという地図の書き方について語っていると読んでいる。そうすると、1 では「現実から一歩離れている」という内容について、果たしてどのような内容で語っているかということが問題になる。

野矢さんは、「すでに」という言葉に注目するように促している。1 の文章の中で使われている「すでに」という言葉は、地図を描いて説明することを考えることで「すでに」われわれは「現実から一歩離れている」という主張になっている。つまり、地図を描くこと「自体」が「すでに」「現実から一歩離れている」ことになってしまうという主張だ。この「すでに」の効果で、論理構造としては、1 の説明は2 と3 までだという判断ができる。4 と5 とは、関連性はあるものの別の話題で提出されていると考えられるので「また」という接続詞が使われているのだと考えられる。

以上の考察から、どこまでが論理構造としてまとめられるかを、接続詞をそのまま使って表現すれば次のようになる。

    (1 つまり(2 むしろ3 )) また (4 たとえば5 )

同じ括弧の中に入っている文章は、まとまって考えるものとして論理構造では扱うことになる。1 の解説は2 と3 をまとめて考えることになる。「また」でつながれる前後の文章は、1〜3 までと4,5 の区切りがあると解釈するわけだ。これらを野矢さんの記号で表現し直すと次のようになる。

    (1 =(2 +3 ))+(4 たとえば5 )

この問題は、トレーニングにはまことにふさわしいいい問題ではないかと思う。野矢さんの解答を読むと、そこに使われている言葉の一つ一つが、論理の構造を解釈するには必要不可欠のものとなっており、しかも正確に使われている。その意味を論理的に受け取るに際して、曖昧さがきわめて少ないように感じる。初歩のトレーニングとしてはこれほどふさわしい問題はないだろう。

論理トレーニングの応用として、実際の言説を検討しようとすると、具体的な主張によっては、その主張が論理的には不十分な構造を持っている場合がある。そのようなときは、構造の解析そのものがうまくいかないことがあるだろう。それは、自分の解析能力のせいというよりは、解析の対象としている文章そのものがあまり論理的に書かれていないからだとも言える。

ある文章に対して感じる違和感は、このような論理的には曖昧である文章だから感じてしまうということもあるかもしれない。実際に応用問題を解くときには注意して考えてみようかと思う。接続の構造は、文章の全体の構造を読み取ることから始めなければならないから、その文章自体が明確な論理構造を持っていなかったら、その読み取りも当然難しくなるだろう。それは、このような構造を持っているということを決定することができなくなるからだ。論理トレーニングの応用は、もしも対象とする文章が、論理的にまずい文章であった場合でも、そのまずさが的確に判断できてようやくトレーニングの成果が出るものかもしれない。