論理トレーニング 23 (論証の構造と評価)
この章の最初の例題は次のものである。
例題1 次の文章から論証の構造を取り出し、論証図を作成せよ。
- 1 犯人はAかBだ。だが、
- 2 AはいつもCと仕事をする。
- 3 ときにはそれにDも加わることがある。
- 4 今度の犯行ではCにはアリバイがある。だから、
- 5 Cは犯人ではない。ということは、
- 6 Aも犯人ではなく、
- 7 Bが犯人だ。
- 8 実際、Bには動機もある。
この問題を考えるには、まず最終的な結論となる判断を探す。そして、その判断がどのような根拠からもたらされているのか、あるいは根拠が述べられていないのか、それから論証の構造を考えていく。この文章は、A,B,C,Dの4人の人間のうちの誰が犯人かを推論しているものと考えられるので、最終的な結論は、Bを犯人だと断定する7ということになるだろう。
それではなぜBが犯人だと考えられるのだろうか。一つには8の「動機がある」という指摘だ。これは、それだけで犯人だと100%言える訳ではないが、動機がある人間には、その犯罪を犯す可能性があるという意味で「犯人だ」という断定の根拠になりうる。根拠の関係から言えば、確率的には100%ではなくても、「動機がある」という8は単独で根拠になりうると考えられる。
それに対して、1と6の両方の命題は、この両者があってBが犯人だという断定ができるものになっている。これは、そのどちらが欠けてもBが犯人だという断定はできない。両方があれば、そこから論理的に帰結されるものとして根拠になっている。AかBのどちらかが犯人で、Aではないと言えるなら、犯人はBでなければならない。ここまでの構造を図示すると次のようになるだろう。
1+6 8
└┬┘ │
└─┬──┘
↓
7
この構造において、1,6,8のそれぞれに根拠があってそこから論理的に帰結されるものになっていれば、そこにまた導出の構造が図示できる。どうなっているだろうか。1は文章の先頭に語られているので、これの根拠になることは書かれていない。他の文章があればそれが根拠になるのだろうが、この問題文では、1は根拠なしに前提とされている命題となるだろう。
6は、Aが犯人ではないということを語っている。これはそれ以前の命題を根拠として導くことができる。それは2と5で、AはいつもCと仕事をしていると語られ、そのCが犯人ではないということを根拠に、いつも一緒のAも犯人ではないということが帰結される。これは、2と5と一緒になって根拠となっており、単独では根拠にならない。
8に関しては、Bの動機に関する記述が他にはないので、これも論理的な前提なしに事実として確認されているだけと考えられる。以上をまとめると論証の構造は次のように図示される。
2+5
└┬┘
↓
1+6 8
└┬┘ │
└─┬──┘
↓
7
さて、2と5に関しては、その根拠は論理的に記述されているだろうか。4の「アリバイがある」ということは、5の「Cは犯人ではない」ということの根拠になりうる。ここに導出の関係を見ることができる。最後に一つだけ残った3は、これはどの判断の根拠にもなっていない。ということは、この3は論証の構造においては、根拠の関係としては無関係な記述ということになる。最終的な図示は次のようになるだろう。
4
↓
2+5
└┬┘
↓
1+6 8
└┬┘ │
└─┬──┘
↓
7
この章では、論証の構造と、もう一つその「評価」を問題にしている。「評価」というのは、簡単に言えばそれが「正しい」かどうかという正当性に関する判断だ。矢印で図示される「導出」に関して,それが間違っていればもちろん論証全体も間違っている。しかし、「導出」が正しくても、その個々の事実を語る命題が間違っていれば、論証全体としても,それは結論の正しさを保障するものではないので「評価」からいえば正しくない論証と言わざるを得ない。
論理トレーニングという観点からは、どのような「導出」が正しい「導出」なのかということを中心の話題にすると、野矢さんは書いているが、根拠となる事実の正しさについても、次の点に注意するようにと指摘している。
- (1)意味規定
- (2)事実認識
- (3)価値評価
(1)の「意味規定」は、現実存在の属性という事実から評価されるものではなく,言葉の使い方を定めた約束事から判断されるものになる。その言葉をどのような意味で使っているかということだ。まったく一般常識から反するような使い方をしているのなら、それはそこから導かれる帰結も、一般的なものでなくなるだろう。だから、文脈上、それが辞書的な意味で解されるような使い方をしているのなら、非常識な意味を付け加えるのは間違いになる。
それが特殊な使い方をしているのだったら、それを議論の最初に断っておかなければならない。たとえば野矢さんは次のような例を挙げている。
例5 ここで、「自然科学」の内には数学は含めないこととする。
この判断は、数学を観察して、数学の属性から得られたものではなく、とりあえずそういう約束にして「自然科学」という言葉を使おうというものだ。数学を、現実の量を抽象した学問だという規定をすれば、これを「自然科学」として扱うことも可能なので、これは辞書的に「自然科学」を「自然を扱った科学」と考えただけでは出てこない約束事になる。さらに特殊な意味を込めた規定になると次のような使い方もある。
例6 「論理的」とは、実は、正しく言葉を使用しているということに他ならないのである。
「論理的」という言葉は、辞書的には「きちんと筋道を立てて考えるさま」という意味で使われる。言葉の使用というよりも、考え方の方法という側面の方が一般的な意味の方だろう。それに対して、「言葉」というものにもっと注目した意味を込めて使いたいということがこの規定には感じられる。このように、意味規定に関しては、議論の主体となるものがかなり自由に規定できる。ただし、それは議論の前に必要なだけの規定をしていなければならない。そうでなければ、辞書的な意味の範囲で使わなければならないという規定を受けるだろう。その意味の範囲を逸脱していれば、「論証」の評価としては低い評価にならざるを得ない。
(2)の「事実認識」に関しては、野矢さんはこれを「個別的」なものか「一般的」なものかという区別をしている。この「事実認識」に関しては、それが正しいかどうかということももちろん大事なことだが、議論においてはその否定がどのようにされるかという、反論の形における区別がより重要になる。たとえば、例7では
と語られているが、これは、もし他の誰かが『堕落論』を書いたということが確かめられると、これは否定される。また、『堕落論』というものが坂口安吾のどのような資料の中にも見つからなければ、完全な否定はできないかもしれないが、この例7はきわめて信用できない事実として認識されるだろう。この本が、坂口安吾の名前で出版されていれば、もちろんこれは正しい事実として判断されるだろう。これが
例8 フランス人は海藻を食べない。
というような、個人を語るのではなく、フランス人一般について語るものになっていると、これは命題としては「すべてのフランス人」について成立すると、論理的には解釈される。だからこれを否定するには、誰かひとりでもいいから、この主張を否定するようなフランス人、すなわち「海藻を食べるフランス人」を見つけるだけですむ。
一般化された事柄に関する命題は、特殊な反例を一つ挙げることができればそれを否定することができる。存在に関する命題は論理的にはちょっと厄介だ。
例10 この山のどこかに埋蔵金がある。
この命題は、実際に埋蔵金が見つかれば、この命題が正しいことが確認できる。しかし、実際にくまなく探してみたけれど見つからないというときに、この命題が否定できるかどうかは論理的には難しい。まだ探していない場所があるじゃないかという指摘に完全に答えられるかどうかが難しい。「存在している」ということの否定である「存在していない」という命題は証明が難しいのである。
論理的にいえば、「存在している」という命題の否定は、「すべての可能性に対して否定される」ということになるからだ。埋蔵金がないということを言うには、「すべての場所」に埋蔵金がないということを言わなければならない。このようなことが言えるのは、「すべて」の対象をあらかじめ限定して決めることができる数学の世界だけだ。現実の世界は、「すべて」を扱うことができない。
いずれにしても事実認識に関わることは論理的に決定することは難しい。その蓋然性を主張することができるだけだろう。事実として確認できる度合いが高いということを根拠にして、論理的な推論の前提にするしかないのではないかと思う。「事実認識」が関わってくる論証の評価に関しては、100%完全な正しさを評価することはできない。宮台真司氏は、裁判において争われているのは真理ではないという指摘をしていた。現実の事実が関わっている問題では、真理は決定できないのである。裁判ではいかなる形で「手打ち」をするかという互いの了解を争っているというその指摘は、論理的にも正しいのではないかと思う。
最後の「価値評価」に関するものは、「いい」「悪い」というある意味では善悪の評価と、「そうすべき」という規範の評価の問題があると野矢さんは指摘している。どちらにしても、価値に関することは、絶対的に正しいというようなものはあり得ない。立場や視点が違ったり、好みや感情が違えば価値評価は違ってくる。だから、価値評価が論証の評価に関わってくるときは、それに共感できるかどうかという、賛成の表明が得られるかで「正当性」が測られることになるだろう。
賛成できないような判断であれば当然のことながら評価は低くなる。だが、その不同意が、実は自分だけで、大部分の人はその価値評価に賛成しているというようなときは、社会における評価は、それを高いものとして認めるだろう。いつの時代にもそれが高い評価を得るとは限らないが、多くの人に支持される価値判断というのは、その時代・その社会においては高く評価されると受け止めなければならないだろう。
それは相対的なもので、後の時代には否定されるかもしれないが、とりあえずは、今は評価されるということは了解しておかなければならない。それは、絶対的に正しいのでも、絶対的に間違っているのでもない。単にその時代・地域の多数派にとって自明になっているだけということだろうと思う。(ちなみに、仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんはそのようなものを「正義」と呼んだ。多数派にとって自明なことが「正義」であるという規定に、僕も賛成する。)価値評価が関わる根拠に反対するには、あくまでも自分の価値判断を押し出すか、多数派の意見をどのように受け止めて、多数派であるが故の高い評価と関連させるかということが、議論の進め方においては重要になるのではないかと思う。