論理トレーニング 24 (論証の構造と評価)


例題2では「導出」の正当性についての評価がトレーニングとして取り上げられている。「導出」というのは、どのような場合に「正しい」と判断されるのかということだ。これは、論理的に結論が導かれるということの評価になるのだが、論理的に結論が導かれるというのは、それは否定しようのない結論であるということになる。論理的に正しい「導出」なら、もしその結論を否定するならば、そこからは矛盾が生じるということが見られる。

結論を否定して矛盾が生じるようなら、その結論は正しい。つまり、その結論を導く「導出」は正しいということになる。しかし、結論を否定しても、もし矛盾が生じなかったらどうなるだろうか。そのときは、結論を導く「導出」は必ずしも正しくはないのだと言わざるを得ないだろう。あえて結論を否定してみて、その論理構造から矛盾が生じるかどうかを見るという方法で、「導出」の正当性を測るという方法がここから生まれる。これが今回のトレーニングになる。あえて反論を構成するというトレーニングだ。

このトレーニングに関して野矢さんは次のような指摘をしている。

「なぜこのようなやり方を練習するのかについて、もう一言述べておこう。これは、いわば、導出の関連性を評価するための基礎訓練である。根拠が提示され、そこから結論が導かれる。多くの場合、われわれはそこで立ち止まって吟味せずに、単に聞き流す、あるいは読み流してしまうだろう。だが、あえて立ち止まってみる。ここでもっとも要求されるのが、「論理」という言葉にそぐわないと思われるかもしれないが、想像力である。
 この根拠を受け入れ、しかもこの結論を拒否することがどういうことであり得るのか、その可能性を思い描く想像力、これがここで求められる。こうして、その論証が導く道筋とは異なる道の可能性を捉えつつ、その上でその論証の進む道を自分も進むかどうかを決断する。この、想像力を活性化させるためのトレーニングが、「あえて反論する」という方法に他ならない。すなわち、単に拒否するためにのみ反論するのではなく、受け入れるか拒否するかを決断するために、まず、あえて反論してみるのである。」


この指摘は非常に重要なものだと思う。この種の想像力は、トレーニングする以外に自然に身につくとは思われないからだ。感情的な反発を感じて、拒否したい気分が生じるような主張に対しては、否定することは容易いし想像するのも簡単だ。しかし、受け入れたいと思いたくなるような主張に対して、あえて否定してみるという想像力はきわめて甘くなり難しくなる。これを厳しく徹底して論理的に考察するのがこのトレーニングの目的ではないかと思う。そのような厳しさを経て受け入れることを決断した主張こそが,本当に正しい「導出」だと評価できるものになるだろう。

このトレーニングでは、論理的な正しさを受け入れるのに、感情のメガネで目が曇るのを防ぐということも鍛えられるだろう。言い換えれば、論理的な考察をするというのは、あくまでも感情を殺して、論理的な分析が終わるまでは、それを受け入れるかどうかは、たとえ感覚(感情)的にであっても、決して判断をしないという潔癖さを持つ訓練をするということでもあるだろう。このような訓練を経なければ、自分の好むイデオロギーの支配から逃れることはきわめて難しくなるだろうと思う。マルクス主義構造主義の支配から逃れるための訓練にもなるのではないかと思う。

さて、このトレーニングの例題は次のようなものである。

例題2 次の下線部に示された導出に対してそれぞれ反論を試みよ。
「新天皇が即位されるや、マスコミこぞって「開かれた皇室を」という大キャンペーンに着手した。しかし、このキャンペーンは誤っている。天皇は国家及び国民の象徴であり、
(a)それゆえ
世俗を超えた存在に他ならない。
(b)したがって
天皇とは、そもそも世俗の次元に対しては何ほどか閉じられた存在なのである。」


この問題で、(a)の「それゆえ」で導かれる結論は「天皇は世俗を超えた存在である」ということである。そしてその根拠は直前の文章である「天皇は象徴である」という判断だ。「象徴」であるから「世俗を超えている」という論理的な「導出」の関係にある。

この「導出」が、もし言葉の意味として「象徴」という言葉の中に、「世俗を超えている」という意味が含まれるなら、意味を調べることで根拠の妥当性が得られる。しかし「象徴」は、意味的にはその具体的な形が抽象的な意味に通じているということにしか過ぎず、世俗性は意味に含まれていない。世俗性は、現実の存在の属性として考えられなければならない。

そうすると、現実の存在を観察して、「象徴」という存在のあり方が、「世俗を超えている」かどうかという判断は、その存在をどう解釈するかということにかかってくる。つまり、この結論は解釈によっては否定されることもあり得るだろう。実際野矢さんは次のような解答例を書いている。

天皇が「国民の象徴」であり、それゆえ国民の一員ではないとしても、なお「天皇が世俗を超えた存在ではない」ということは考えられる。というのも、世俗を国民のみに限定する理由はこの論証においては示されていないからである。それゆえ、国民とその象徴とがともに世俗に属すると考える余地は残されている。」


「世俗」の解釈を、国民に限定するのではなく、他の属性で判断すれば、たとえば生活の仕方・習慣(食事の内容や服装など)の特性などで判断すれば、天皇といえども「世俗」の面を見つけることが可能だろう。つまり、天皇は「世俗を超えていない」と判断することも可能になる。結論が否定される可能性が見つかったわけだ。

このような反論に対して野矢さんは,問題文の元になった文章が、この問題文に続いて書かれている部分を引用している。それは次のような文章だ。

「世俗の次元に開いたまま、世俗の次元に親しまれたままというのは世俗にまみれることに他ならず、そんな存在では象徴たり得ないではないか。超越ということの意味を理解できず、それゆえ象徴ということの意味を理解できないのは子どもの所業と言わざるを得ない。」


問題文の著者は、予想される反論に対しては、それに再反論するような文をちゃんと付け加えていたわけだ。象徴であっても世俗的な面を見つけることができるというような解釈も可能だが、そんな解釈をすれば、「象徴」がもはや象徴でなくなるというのが再反論の趣旨ではないかと思う。そのような解釈は「子どもの所業」だというわけだ。

それに対して、野矢さんはさらに「子どもの所業」というのは、確かに考えとしては浅い面があるかもしれないが、それだけで間違っているとは言えないと、また結論を否定する可能性を示唆している。この指摘だけで恐れ入る必要はないのである。大人が間違っていることだって十分考えられる。このように、反論が可能な主張は、反論を続けていくことで議論が深まっていくこともあるだろう。そして、最終的に、否定しようのない結論が導かれるなら、そこに正当な「導出」が見つかったと言えるのだろう。

さてもう一つの(b)の「従って」で語られる「導出」は、(a)のトレーニングで否定した「天皇は世俗を超えている」ということを根拠として、「天皇は閉じられた存在である」すなわち「天皇は開かれていない」ということを導く「導出」になっている。「導出」の根拠を、一応それが正しいと認めて、その上でなお結論が否定できるかどうかを考えるのがこのトレーニングである。その前のトレーニングでは「間違っている」として否定したものを、次のトレーニングでは「正しい」と肯定して論理構造を考えなければならない。これが初心者には難しいと野矢さんは指摘している。

このように、その命題が「正しい」か「間違っているか」ということが、臨機応変に切り替えて想像できるという能力が、このトレーニングで必要な「想像力」として野矢さんが指摘していたものだろう。このトレーニングで試みられているのは、あえて否定された結論「天皇は閉じられていない」つまり「天皇は開かれている」ということが、「天皇が世俗を超えている」という前提の下でも論理的に主張できるかどうかということになる。野矢さんは次のような解答を例として提出している。

「たとえ天皇が世俗を超えていなくてはならないとしても、しかし同時に世俗に対して開かれていることも可能ではないか。世俗を超えた存在でありつつ、かつ天皇が世俗を超えた存在として世俗に開かれ、世俗と交わるということもできるように思われる。」


これは、具体的には、正月の一般参賀などで天皇が皇居に集まった一般国民に対して手を振って応える姿などを、「開かれた」という解釈をすることができるという意味で言っているのではないかと思われる。いずれにしてもどんな主張であっても、視点を変えることによって解釈を変えることができる。そして解釈を変えることができれば、いくらでも反論をすることが可能になる。

結局反論を構成するトレーニングというのは、現実の判断に対しては違う視点で対象を眺めることができるようにするトレーニングになるのではないかと思う。これは、僕が学んだ弁証法のトレーニングをしているような感じがする。あるいは、宮台真司氏が言うところのフィージビリティスタディの訓練をしていると言ってもいいのではないかと思う。あらゆる可能な論理を構成する訓練と言えるだろうか。

現実の判断に対してはそれを弁証法的に見ることによって、このトレーニングの解答を求めることができる。これが数学の世界になると、その対象を見る視点がただ一つに限定されるために、結論も否定しようのないものがただ一つだけ求められる。数学が論理的な性格の強い知識だという特性がここにある。自然科学の論理は、この数学と現実判断のちょうど中間にあるのではないかと思う。現実の対象を、違う解釈ができないように限定して唯一の特性を持たせ、その限定された前提の下で唯一の結論を導くという形になっているのではないかと思う。これが数学と自然科学の真理性ではないかと思う。