パラドックス的な現象の理解


世の中には、「こうなっているはずだ」あるいは「こうなっていて欲しい」というようなことがいくつかある。しかし現実にはその期待はしばしば裏切られ、「なぜこうなっているんだろう」というような理不尽な思いを抱いた人は多いのではないかと思う。自分が抱いていることが常に「通説」とは限らないが、期待を抱いている事柄というのは、ある意味では世間もそう考えているだろうということで期待できる部分があるので「通説」に近いのではないかと考えてもいいだろう。その「通説」に反した現実が訪れてみると、そこには深刻なパラドックスがあることが感じられるのではないかと思う。

昨日ケーブルテレビで、昨年話題になった映画の「それでもボクはやっていない」というものを見た。これは痴漢冤罪を描いて裁判制度のおかしなところを描いた映画だ。裁判制度のパラドックスを提出していると言ってもいいのではないかと思う。

主人公は再三、「自分は痴漢をしていないことは事実なのだから、いつかはそれが分かってもらえるだろう」というよう思いを独白している。しかしその期待は最後までかなわない。事実と違うことが認定されて、やってもいないことで裁かれてしまう。これ以上の理不尽はないだろう。このパラドックスに実際に遭遇したら、それを受け入れるのにどれだけ苦労するだろうかと思う。論理的なパラドックスなら、論理を理解することによって、感情抜きに客観的に理解できる。しかし、この種のパラドックスは、深刻に自分の人生とかかわりを持ってくるので、感情を外に置いておいて理解することが難しいのではないかと思う。

映画を見ていない人にとってはネタばれになるので、このあたりで読むのをやめて、映画を見た後に、興味と関心が持続していたらまた読んで欲しいと思うが、主人公は裁判制度の意味を最後に次のように理解する。裁判で明らかにされるのは事実ではないということを。裁判で明らかにされるのは、提出された証拠の客観的解釈なのだ。事実は、ある意味では誰にも分からないということを前提にしている。

主人公が痴漢をやったかどうかということは、その場にいて直接目撃していない裁判官には分かりようがない。裁判官が判断するのは、提出された証拠が、検察側の主張のように、主人公が痴漢をしたということを認めるように説得的に働いているのか、あるいは弁護側が主張するように、その証拠では痴漢の犯罪事実があると積極的に認めるには足りないと判断するのか、どちらなのかを判断しているに過ぎない。だから、誰にも知られずに実行された犯罪は裁判では裁きようがないということも言える。

映画では、主人公が痴漢をやっていないことは観客には明らかに分かっている。その現場を直接見ているからだ。しかし、映画の中の警察や検察は、彼が痴漢をやったという前提で証拠を調べ、その犯罪を立証するような証拠を集めて裁判に臨んでいる。これは、それが彼らの仕事であるといえばそのとおりなのだが、証拠を吟味した後に主人公の痴漢という犯罪を立証するのではなく、それ以前にまず犯罪があったということを前提として、それに都合のいい証拠を集めるという展開になっている。映画でも語られていたが、都合の悪い証拠は提出しなくてもいいことになっているらしい。

やってもいない犯罪で告発され、無実なのに有罪になるというパラドックスの原因はこのあたりにあるような気がする。この映画を見ていて感じるのは、告発する側の警察や検察が、せめて白紙の状態から捜査をスタートさせていれば、彼が冤罪であることはあっけなく分かったのではないかという思いだ。しかし、冤罪の可能性を頭から否定してかかれば、彼の状況証拠のすべてが疑わしくなってくる。

もちろん、罪を犯しているにもかかわらず嘘をつくような犯罪者もいるだろう。だが「推定無罪」の原則というのは、証拠によって確固たる判断が決まらない間は、有罪とは言えないということでなければならない。映画を見る限りでは、日本の警察・検察の取調べは「推定無罪」の原則を持っていないことが分かる。

これは我々一般市民にとっては非常に重要なことであり、日本の警察や裁判制度のあり方が、この「推定無罪」の原則を持っていないということを、これだけ鮮やかに描いて見せたところにこの映画の大きな価値があると僕は思う。この主人公が置かれた立場は他人事ではないのだ。いつ自分がそのような立場になるかは、偶然の出来事であり、確率としては低いかもしれないが、決してあり得ないことではないのだ。誰にでも可能性があることなのだ。

誰にでも可能性がある、このような理不尽なことをされる可能性は、多数の声を集めて改革していく必要があるだろう。特に満員電車に揺られて通勤しているサラリーマン男性にとっては、すぐ明日にでもこのような理不尽が襲ってくる恐怖を抱くのではないかと思う。

凶悪犯罪で死刑になるかもしれないという冤罪は、そのインパクトの大きさで世間の注目を浴びるが、日常的な感覚でいえば特殊なケースと捉える人が多いだろう。しかし痴漢冤罪のケースは、特殊ではなく日常の一こまに過ぎない。このテーマを、日本の警察・司法制度の欠陥を描くテーマとして選んだ周防正行監督の慧眼さというものに敬服するものだ。映画の中で弁護士役の役所広司が、痴漢冤罪事件の中にこそ日本の司法制度の根本的な問題が凝縮されているというようなことを言っていたが、まさにそのとおりだと思う。

一番の問題として感じるのは、告発された人間を、告発された時点ですでに犯罪者扱いするという「推定無罪」の反対の考え方だ。これが理不尽なパラドックスを生む論理的な前提になるだろう。この前提を何とか変えていかなければならないのだが、それには宮台真司氏が以前に語っていた、「たとえ1000人の真犯人を逃すとも、ただ一人の無辜の市民を刑することなかれ」というようなことを実践しなければならない。

これは非常に難しいことだ。特に危険性が叫ばれてセキュリティに関することに高い関心が向いている現在というときに、真犯人を逃がしてでも冤罪を作るなと主張することは、その冤罪に直接関わっていない人への説得力が弱い。そんなことよりも身近な危険を避けるために、疑わしいのを片っ端から警察が引っ張って欲しいと願う人のほうが多いかもしれない。しかし、このような時代に、冤罪が生まれるかどうかに、我々の市民感覚が試されていると言っていいのではないか。社会の秩序維持や創造に対して責任を持って参加する(コミットする)という責任を持っているかという市民感覚が今こそ試されているのだと思う。

マル激では、凶悪犯罪は決して増えていないし、むしろ減っているのだということをいつも強調している。それにもかかわらず多くの人が社会に不安や危険を感じるのは、その「空気」が作られているからだろう。その「空気」が、ちょっと普通と違う個性をもっている人々の排除へと向かっている。それは、多くの人にとっては、自分のことではないという感覚を持っているかもしれないが、凶悪犯罪と関わるのは関係がなくても、痴漢冤罪のような小さな出来事であれば、誰にでもそれは関わってくる。

映画の中でも、女性弁護士が、男はみんな痴漢予備軍だというようなことを言っていたが、このような「空気」は社会に存在するだろう。この「空気」が警察の予断的な犯罪者扱いを招き、映画で描かれていたような冤罪を生み出す要因ともなっている。この前提は論理的には明らかにおかしい。すべての男が痴漢予備軍だとするなら、男という生理的な特質と、痴漢という犯罪の間に何らかの論理的関係がなければならないのだが、たまたま一部の男が痴漢をするということで、すべての男が一くくりにされているなら、それは特殊を全体と取り違える間違いであり、全称命題と特称命題の混同ということになる。

宮台真司氏は、裁判というのは真実が明らかになる場ではなく、どのような「手打ち」に合意するかを話し合う場であるということをしばしば語っている。「手打ち」というのは、お互いに対立する主張があった場合に、不満はあるだろうが適当な落しどころを見つけて、事実の解釈をこのようにしておこうということで、関係者が合意することを言う。やくざ映画などで、対立する組が争いを収めるときに、双方の主張を聞く仲立ちに適当な落しどころを見つけてもらって「手打ち」をする姿が典型的なものだ。裁判も基本的にはそれと同じだという。

だから、裁判で真実が明らかにされるとナイーブに(純粋に)思っていると、その期待は裏切られる。この映画で描かれていたとおりに。だが、その「手打ち」は、あくまでも対立する双方が納得できるような落しどころに行かなければ、近代国家における民主的な裁判とは言えないだろう。この映画で描かれていたような裁判は、明らかに被告側に不利であり、とても「手打ち」にならない。むしろ、まともな捜査が行われていれば、無罪として結論付けられてしかるべきケースだろう。まともな捜査が行われず、被告に不利な証拠だけが吟味されて、それだけを前提にして論理的に判断すれば、映画で描かれたような結論になる。

裁判官が論理のみに従うのは、その職責を果たす意味では当然だが、論理に従うというのは、前提をまったく吟味しないということではないはずだ。検察が提出した前提にあまりにも重い比重がかかりすぎているように僕は感じた。

来年からは裁判員制度というものが始まるという。この映画を見て、日本の裁判制度の問題、警察や検察の取り調べの問題など、今一度深刻に受け止めて自分の問題とする必要があるのではないかと思う。冤罪で苦しむ人は、単に運が悪かったということではないのだ。制度さえちゃんとしていれば、そのような理不尽な目にあわなくてすむ人だったのだ。そして、そのような理不尽な目にあって苦しんでいる人がいるということは、その人は、その体験で制度の不備を教えてくれた人だということで我々は感謝しなければならないだろう。もし彼らを見捨てて、他人事として受け止めるなら、いつか自分の身にそのような理不尽が降りかかったときも、「運が悪かった」ということで片付けられても文句は言えないだろう。理不尽を理不尽だと告発することの重要さを、この映画を見て改めて感じた。