ラッセルのパラドックスを回避するウィトゲンシュタインのアイデア


ラッセルのパラドックスというのは、「嘘つきのパラドクス」と同様に、自己言及によって矛盾が導かれてしまう種類の論理的なパラドックスになっている。現実を誤って認識したために、現実存在に反する判断が生じてしまったような、「ゼノンのパラドックス」のようなものではない。

現実に反する判断は、どこかに論理的な間違いが生じているのか、論理の出発点となるような現実の把握(つまり事実の認識)において間違っているのかどちらかだということになる。論理的な間違いであれば、それは正しくない論証であり、論理の出発点の把握が間違っているのなら、それを否定した判断が正しいという背理法を示すことになる。ゼノンは運動を否定したという言い方もされるようだが、その真意は空間が多くのもので構成されていて無限に分割できるものではなく、一つの存在として捉えなければならないという主張を証明するための背理法として提出したのだという。存在は「多」という性質を持つという前提を否定しようとしたらしい。

間違い・あるいは背理法として処理できるパラドックスに対して、論理的なパラドックスは、そこに間違いを見つけることが出来ない。ある意味では論理の限界を示すものとして、論理を無制限に適用してはいけないという警告と受け取らなければならない。どのような制限を設ければパラドックスを回避できるのか。ラッセルは「タイプ理論」というもので一つの解答を提出したが、ウィトゲンシュタインはそれとまったく違う発想でもう一つの解決を提出したというのが野矢茂樹さんが『『論理哲学論考』を読む』という本で展開していることだ。これを詳しく考えてみようと思う。そこには、パラドックスというものの本質が見えるのではないかと思う。

まずは、ラッセルのパラドックスをもう一度確認しておこうと思う。このパラドックスでは、「自分自身に述語付ける」という概念が重要になる。ある述語概念に対して、その述語概念自身が肯定的に判断されるなら、その述語は「自分自身に述語づける」と判断される。たとえば次のように。

  「曖昧である」は「曖昧である」…「曖昧」の基準が明確でないから

「曖昧である」という述語に対して、その言葉自体が「曖昧である」かどうかを考えると、それは肯定的に判断される。「曖昧」の基準が時と場合によって変化し明確でないからだ。逆に、

  「厳密である」は「厳密」ではない…「厳密」の基準が明確でないから

というふうに、「厳密である」という述語は、その述語自身は「厳密」ではない。つまり「曖昧」である。これは「自分自身に述語づける」ものとなっていない。「自分自身に述語づけられない」ものになっている。論理的に少々ややっこしいものになっているが、まとめると次のようになる。

  • 自分自身に述語づける…自分自身に対する判断が肯定的になされる。
  • 自分自身に述語づけられない…自分自身に対する判断が否定的になされる。

ここで記号を導入することにしよう。「曖昧である」という判断を、「Aimai」の頭文字を取ってAで書くことにする。ある対象xに対する判断は「A(x)」と書くことにする。また、「厳密である」は「Genmitu」の頭文字をとってGと書くことにする。以下は同様にして記号化すると、次のように書かれる。

  • 自分自身に述語づける…A(A)である(肯定判断)
  • 自分自身に述語づけられない…G(G)ではない(否定判断)

このとき、「自分自身に述語づけられない」という述語をWで表すと、AとGに対する判断はそれぞれ次のようになる。

  W(A)ではない…(Aは自分自身に述語づけられない)ではない(つまり二重否定)
         だから Aは自分自身に述語づけられる。
  W(G)である……Gは自分自身に述語づけられない。

Wは、自分自身に対して言及しない限りでは、対象に対して肯定か否定かのどちらかの判断をもたらす。しかし、これが自分自身に対する適用の自己言及をしてしまうと、

  W(W)である ならば Wは「自分自身に述語づけられない」
     ↓(すなわち)
  W(W)ではない

となり、逆に「W(W)ではない」を前提にして論理を展開すると、

  W(W)ではない ならば Wは「自分自身に述語づけられない」ではない
     ↓(すなわち)
  Wは「自分自身に述語付けられる」 だから W(W)である。

いずれにしても、肯定の前提からは否定が導かれ、否定の前提からは肯定が導かれるという矛盾が生じる。そして、この論理はどこにも間違いがない。これこそがまさに論理的パラドックスと呼んでもいいものになるだろう。

ラッセルはこのパラドックスを回避するために、述語に「タイプ」という性質を設定した。個体そのものを指す言葉を「タイプ0」と呼び、その個体だけに言及する述語を「タイプ1」とする。そして、「タイプ0」と「タイプ1」に言及する述語は「タイプ2」とする。以下同様に、述語は自分自身よりタイプの低い対象にだけ言及するという制限を設ける。そうすれば、自分自身に言及するという、同じタイプの対象に言及するような自己言及は論理的に回避できる。

この方法はパラドックス回避の一つの方法ではあるが、制限としてはちょっときつすぎるかなという印象も受ける。この制限ではすべての自己言及が許されなくなるのだが、「「曖昧」は「曖昧」である」というような自己言及はまったくパラドックスを起こさないのだから、この種のものまでも制限されてしまうと、論理の適用範囲が狭くなってしまうのではないかという危惧も感じる。パラドックス回避の方法が、これ以外にないというのであれば、この制限も止むを得ないとも言えるのだが果たしてどうだろうか。

このラッセルの方法に対して、違う発想で答えたのがウィトゲンシュタインではないかと、野矢さんの本を読むとそう思える。ウィトゲンシュタインは、自己言及の中に有意味なものと無意味なものを区別し、無意味なものを排除するという方法でラッセルのパラドックスが生じないような工夫をしているように感じた。ラッセルのパラドックスを生じさせるような「自分自身に述語づけられない」というような自己言及は、ウィトゲンシュタインの体系ではそもそも意味を持つことが出来ないようになっているようなのだ。それは無意味な言い方だから、そもそも真偽を考える対象にもなっていない。

このあたりのニュアンスをつかむのはたいへん難しいのだが、ラッセルの体系(これはフレーゲの枠組みも基本的には同じようだ)では、このパラドックスが述語として生じてくるのを避けることが出来ないようなのだ。だから「タイプ」というものを設定して、論理そのものに制限をかけなければそのパラドックスを回避できない。それに対して、ウィトゲンシュタインの体系では、「有意味」と「無意味」というものがキーワードになり、パラドックスそのものが「無意味」になってしまうので、論理体系の中に入り込まないようになっている。それでは、「有意味」と「無意味」とはどのように区別されるのだろうか。これが分かれば、ウィトゲンシュタインの発想も理解できるのではないかと思われる。

そのカギは、ウィトゲンシュタインが「世界」(現実世界)を分析するときに使った、「事態」や「対象」という概念、それから発生してきた「名」という概念などが、フレーゲラッセルが論理を分析した際に問題にした現実世界や対象と違っていることを理解することにあるようだ。フレーゲラッセルは、論理の判断を、命題としての真偽の判断を基礎にして展開しているようだ。しかしウィトゲンシュタインは、現実世界を実際に実現された「事態」という、すでに真であることが確定している命題の寄せ集めから展開している。ウィトゲンシュタインが問題にするのは、この命題群の真偽ではなく、むしろ命題が言語的に意味があるかどうかという、ウィトゲンシュタインの用語で言えば「論理形式」を問題にしているように見える。

フレーゲラッセルの体系にパラドックスが生じるのは、それが言語の範囲での判断にとどまらず、現実の対象との結びつきを入れた、現実の対象が定義域になるような関数が導入されるからだということも野矢さんは語っている。現実世界というのは、知り得ない部分がどうしてもある。すべてを把握することは有限の存在である人間には出来ない。現実世界には、常に未知の可能性がある。既知のものから積み上げた論理が、未知の存在によってひっくり返される可能性を消すことが出来ない。現実存在を、その対象として設定しなければならない体系は常にパラドックスを配慮しなければならない。これが、弁証法的思考の重要性を物語るものでもあるのだろう。

それに対して、ウィトゲンシュタインは、現実対象に対しては、それが存在することをまずは肯定的に把握しておくことを前提としているように見える。そしてその前提のうちに、その表現としての言語を分析することで論理の体系を打ち立てているようだ。ウィトゲンシュタインにとっての論理は、純粋に言語の範囲のものであるような感じがする。

ウィトゲンシュタインにとっては、それが言語として適切に表現されているなら、そこに展開されている論理が正しいかどうかの判断は適切に出来るし、非常に信頼性の高いものになっているという感じがする。論理の判断は、言語の適切性として判断されるという感じだ。それに対して、フレーゲラッセルの判断は、論理を言葉としてのみ扱うのではなく、何らかの意味で現実世界との結びつきも問題にして判断しようとしているのではないかと感じる。そのどちらが論理にふさわしいのかはまだよく分からない。言葉の法則としてのみ展開したほうが、論理としては純粋な感じがするが、現実を無視した空論のような印象も消えない。

現実を対象にした思考は「科学」が扱い、言葉の法則のほうは「論理」が扱うという分業のほうがいいのかもしれないが、どちらも相互の足りない部分を補うという意味では協働しなければならないだろう。いずれにしても、ウィトゲンシュタインの発想の細かいニュアンスはまだ詳しく考えていない部分もあるので、この次は、どのような発想が「言語論的展開」と呼ぶにふさわしいものになっているのかという具体的な部分を考えてみたいと思う。ウィトゲンシュタインのどのような部分が、論理を純粋に言語の側面から見ることになるのかということを考えてみたいと思う。