フレーゲ・ラッセルとウィトゲンシュタインの関数概念の違い


フレーゲの発想は、野矢さんによれば、述語を関数で表現することによって論理の記号化に成功したというものだ。述語は日本語で言えば、動詞あるいは形容詞で表現されるか、名詞に判断の助動詞を伴った形でなされる。たとえば次のように。

  • 1 地球は「自転している」。
  • 2 海は「青い」。
  • 3 小泉さんは「元総理だった」。

上の文章の「自転している」「青い」「元総理だった」は、それぞれ肯定判断を表しており、判断を示す述語として機能している。三浦つとむさんは、動詞や形容詞に対して、そこに直接判断を示す品詞がないので、日本語の場合は動詞あるいは形容詞そのものに肯定判断の表現が含まれると考えていた。いずれにしても、判断を伴う表現であり、述語として捉えることが出来るだろう。

この述語の記述に対して、フレーゲはその判断が及ぶ対象を変項として捉えてxなどで表す。上の3つはそれぞれ次のようになるだろうか。

  • 1 xは「自転している」。
  • 2 xは「青い」。
  • 3 xは「元総理だった」。

このxには、基本的には現実の対象である何らかの存在物が入る。つまり定義域は現実世界ということになる。そして、1のxに「地球」という対象が入れば、1の命題は正しくなり、真偽値は「真」ということになる。この関数は、現実世界を定義域として、命題の真偽値を値域とするものになる。

1の関数に「コマ」を入れると、コマは自分で回ることは出来ないのでこの命題は偽になる。1の関数には、現実に存在するあらゆるものをそこに放り込むことが出来るだろう。そしてその対象が、我々が知りうる存在物であるなら、真偽の判断も出来るに違いない。2の命題に関してもそのようなことが言えるだろう。「青い」という判断が曖昧で、肯定か否定が難しいときもあるだろうが、厳密な規定を与えることで判断を決めることも出来るだろうから、判断ができないということはない。すべての存在物が定義域に入ってくることが出来るだろう。

3に関してはやや微妙な問題がある。xに人間という対象を入れるなら、普通の意味で3の命題の真偽を考えることが出来る。xに「安倍晋三」を入れれば命題は真となる。「福田康夫」を入れると偽になる。福田さんは現総理であって、元総理ではないからだ。そして、元総理としてまったく名前の挙がっていない無関係な人物、たとえばまったく平凡な日本人の名前としての山田太郎などという名前を入れても、その真偽値を求めることが出来る。これは偽の結果を出す対象になる。

しかし、3の命題のxとして人間でないものを入れた場合はどうだろうか。たとえば自動車の「ロールスロイス」を対象xとして関数に入れて

という命題を作ると、これが正しくないことは明らかなので真偽値は偽であると解釈することも出来るが、そもそも真偽値を考えるほどのこともない、まったく無意味な文章表現であると解釈することも出来る。現実の対象を考えることなく、文章の上で無意味であることが分かってしまう。ウィトゲンシュタインの発想では、このような無意味なものは、論理形式という概念を使って「事態」の中から排除してしまうように僕は感じるのだが、フレーゲラッセルの発想では、このようなものを一般的に認めておいて記号化した論理学を数学のような汎用性を持たせることで一般的な命題を導きやすくしているようにも見える。

いずれにしても、1から3までの関数は、対象の領域として現実世界の個体が対象になっているだけだ。したがってラッセルの言う「タイプ0」の範囲で考えているだけなのでパラドックスが発生することはない。この対象の定義域を、固体を表す名詞から、判断を表す動詞・形容詞にまで範囲を広げると、自己言及文という論理においてはヤバイものに近づいていく。述語を対象にした述語というのは、それがまったく現れないものなら何も問題を引き起こさないのだが、言語はそのようなものも表現できるようになっていて、それが表現の豊かさをもたらしてもいるので厄介だ。野矢さんは次のような例を提出している。

  • 4 xは「神経質だ」。
  • 5 xは「人に嫌われる」。

4のxには普通は人という存在が入るだろう。「神経質」というのは人の性質だからだ。だが、人に近い動物にそれを感じることもあるかもしれないから、そこまでは意味のある命題になるだろう。このxに野菜の「トマト」などを入れて考えるとどうなるか、というのを野矢さんは書いているが、これを無意味と捉えるか命題として偽であると捉えるかは難しい。汎用性を考えれば偽としたほうがいいだろうが、そのように無制限に定義域を広げると自己言及文を認めなければならなくなりそうだ。

5の関数には、xとして「神経質」という述語を入れることも出来る。述語の述語という、入れ子の関数表現が許されるし、現実にもそのような表現が言語の中にはたくさんある。そうすると前回考えた次の関数

  • 6 xは「自分自身に述語づけられない」。

における述語「自分自身に述語づけられない」というものが、このx自身として定義域に入ってしまうように解釈できる。そうするとラッセルのパラドックスを引き起こして6は真偽値を確定することが出来なくなる。論理の体系が破綻してしまう。

フレーゲラッセルの関数においては、対象の定義域は現実世界であり、それは無限に多様になっているので、後から新たな対象がその定義域に放り込まれることになる。この弁証法性がパラドックスに向かって矛盾が導かれる可能性を開いているような感じがする。この弁証法性に制限を設けて矛盾の発生の可能性を排除したのが「タイプ理論」ということになるのではないだろうか。フレーゲラッセルの関数の発想では、「タイプ理論」によるパラドックス回避の道は必然的なものであり、それしか方法があり得ないのではないかとも思える。

この関数を、ウィトゲンシュタインは、野矢さんの表現を借りれば「ノミナル」に捉えて、パラドックス発生の可能性のある表現を無意味として排除することで解決しているようだ。

ウィトゲンシュタインも、形としては命題の一部をxとして、そこにある対象を入れることで関数を考えている。しかし、ウィトゲンシュタインの対象は現実世界の存在ではなく、あくまでも言語表現としての「名」というものになっている。命題のxに入ることが出来るのは「名」として取り出されたものだけなのである。「名」にならないものはxとして対象の定義域に入らない。

また、関数の値域になるのは、ウィトゲンシュタインの場合は命題の真偽値ではない。真偽値を問題にすれば、それはやはり現実世界を対象にして考えざるを得なくなる。ウィトゲンシュタインの場合は、関数の値域は命題そのもので、そこで表現された文章が、「名」の論理形式にふさわしいものであれば、命題として有意味なものとして存在できる。その存在できる命題そのものが関数の値域になる。

ウィトゲンシュタインの関数は、現実とのつながりを持っていない。徹底的に言語の範囲内で捉えられている。言語表現としてそれが意味を持っているなら、ウィトゲンシュタインの言葉で言えば、それがある「事態」を表現しているなら命題として有意味なのである。問題は、我々の言語の使い方にある。これが解明できたとき、ウィトゲンシュタインの関数も解明できる。言語の範囲で徹底されるこの発想は、野矢さんが言うように「ノミナル」という感じがするのではないかと思う。

ウィトゲンシュタインは、世界をまずは命題の集まりとして考えることから出発する。その構成部分である物から出発しない。物は、命題表現から取り出されてきたとき「名」の資格をもつことになる。だが、世界の出発点である命題が正しいかどうかということはウィトゲンシュタインは言及しないし、問題にもしない。それはある意味では知りえないことであり、所与の事実として前提にするしかないものと捉えているのかもしれない。論理においてはそのように発想しなければならないと考えているのかもしれない。

そして、そのような前提のもとに論理を解明していけば、それは最終的には我々の言語の使い方を解明することで明らかになるというのがウィトゲンシュタインの発想ではないだろうか。我々の言語の使い方においては、ラッセルのパラドックスは生まれようのないパラドックスとして排除されると考えているのではないかと僕は感じる。ラッセルのパラドックスは、論理の汎用性を数学的に捉えようとしたために、言語の使用範囲を越えて論理を適用しようとしたために生まれたというのがウィトゲンシュタインの発想ではないかと感じる。

後のウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という発想も、なぜ人々がそのようなルールに縛られているのか、日本的な言い方で言えば「空気」に支配されているのかということは分からないが、とにかくそのような状況があることは確かで、それを「言語ゲーム」という言い方で指摘しているのではないかとも思える。言語の使用が高度に発達した現代の人類においては、現実の事実をそのまま受け入れるのではなく、言語化された論理がまず教育されて、そのメガネをかけて現実を見ることしか出来なくなっているのかもしれない。

ウィトゲンシュタインの発想は、徹底的に現状肯定をした後に、現実をどう解釈するかという分析において威力を発揮しそうな感じがする。この現状肯定がご都合主義にならないように気をつけなければならないだろう。どうしてそのような現状になっているかはあまり言及せずに、その現状の構成が論理的に整合性を持っているかどうかが解釈されるのがウィトゲンシュタイン的な「ノミナル」な論理の捉え方になるのではないだろうか。

「名」の解明によって論理形式が明らかになり、現実の世界の姿が見えてくるというウィトゲンシュタインの発想は難しい。野矢さんは単純な世界を構成して、「名」をいくつかの有限なものに限定して、それのみが存在する世界で論理形式を捉えることでその雰囲気を伝えようとしている。次回は、その具体例を通じてウィトゲンシュタインの関数がどのようなものであるかを考えてみたいと思う。それが、フレーゲラッセルの関数とどのように違うのかがもっと明らかになるように考えてみたいと思う。