ウィトゲンシュタインによるラッセルのパラドックスの解決


ウィトゲンシュタインの基本的発想は、野矢茂樹さんに寄れば、ウィトゲンシュタインの関数概念ではラッセルのパラドックスが生まれるような自己言及文は言語の意味として無意味になってしまうということだ。それは論理形式からは排除されるので、論理的な言い方ではないということになる。このことを解釈すれば、ラッセルのパラドックスは、言語の機能としての論理を、その適用範囲の限界を越えて適用したために、不都合が生じたという感じになるだろうか。ラッセルのパラドックスは、言語適用の間違いによって引き起こされた無意味な命題に意味を与えてしまったということになるのではないかと思う。

基本的な発想はこのようなものだと思われるが、フレーゲラッセル的な記号論理に親しんできたものとしては、この発想を納得するのはなかなか難しい。都合が悪いから排除したというような、ご都合主義的な解決に見えてしまうからだ。ラッセルのパラドックスは、言語の意味としてちゃんと理解できる。だからこれが論理形式としては無意味になるということが納得できなければ、ウィトゲンシュタインの解決もすんなりと腑に落ちるというわけに行かなくなる。

ウィトゲンシュタインの発想は、あくまでも現実の「世界」を出発点にしているところがフレーゲラッセル的な発想と違うところだ。フレーゲラッセル的な発想は、現実から抽象された論理世界を出発点にしている。それは現実世界の存在物である対象が抽象された、世界の部品からスタートして、それを組み合わせて論理的な表現である命題が構成される。

そしてそのようにして作られた命題は、命題を作った時点では関数の値域である真偽はまだ決定していない。それは抽象の土台である現実にもう一度投げ返されて、現実の中にその命題の表現が見つかるかどうかで真偽が決定する。命題を作っただけでは、その命題が論理的な性質である真偽を持つかどうかが決定しない。

この現実との照合というもので、ラッセルのパラドックスのように、それが現実に存在すると考えても、存在しないと考えてもどちらも論理が破綻してしまうというような深刻なアンチノミー(二律背反)が生じてしまう。これが二律背反ではなく、どちらか一方の矛盾だけですむのなら、矛盾を生み出した前提を否定するという背理法で片付けることが出来るのだが、肯定でも否定でも矛盾が生じるなら、それはどちらも否定しなければならなくなり、形式論理の大前提である「排中律」を否定しなければならなくなってしまう。これは受け入れがたい深刻な破綻である。

ラッセルはこの破綻を「タイプ理論」によって回避しようとしたが、これは考えようによっては、都合が悪いことを排除するための工夫になるので、これもやはりご都合主義的な解決にも見える。ご都合主義的という面では、ラッセルもウィトゲンシュタインもどちらもあまり変わらないようだ。問題は、どちらの都合のほうが整合性があるかということだ。

ラッセルは、現実との照合において、その命題が自己言及文になってしまうことにパラドックスの原因を求め、それを排除する工夫をしている。ラッセルのパラドックスでは、「自分自身に述語づけられない」という述語が、自分自身でこのような性質を持っているかどうかを考える。そして、肯定から出発すると否定が導かれ、その否定から出発すると今度は肯定が導かれ、これが無限に繰り返されるループになる。この命題は真偽が決定出来ないものになり、関数としては許されるはずなのに、その値域が決定しないという厄介な存在になる。

命題を構成する対象に「タイプ」というものを設定して、命題の言及を「タイプ」の低い対象だけに限定すれば、「タイプ」が同じ自己自身に言及する命題はすべて排除される。しかしこの工夫は、すべての自己言及文も排除してしまう。これは強すぎる制限にならないか。無害な自己言及文というものもあるのではないか。野矢さんが挙げた例では「「曖昧」は「曖昧」である」というようなものは無害ではないのか。ラッセルの「タイプ理論」では、このようなものも排除されてしまう。

ラッセルの「タイプ理論」は、現実の日常言語を扱うのではなく、数学での論理を扱うような表現だから、このような制限も正当だという言い方も許されるような気がするが、あくまでも現実世界を問題にし、日常言語が持つ論理性を解明しようとするウィトゲンシュタインにとっては、このような制限は整合性を欠くように見えるのではないかと思う。

ウィトゲンシュタインは無害な自己言及文を排除しない。それが有意味なものであれば、関数の定義域に対象が入り、命題表現が値域に入ってくる。ウィトゲンシュタインの「名」の概念にとって「タイプ」は本質的なものではない。関数の表現において

  「 x - y 」

という形にしたとき、yは述語を表すので、定義域のxに含まれる「名」に対しては、もし「タイプ」があるのなら、yのタイプはxのタイプよりも高いものになる。しかし、それは「タイプ」というものが設定できるならということであって、すべての「名」にタイプがあるかどうかは、解明してみなければ分からない。ラッセルは、これを最初からすべての対象に対してタイプが設定できることを前提にしているが、タイプによって自己言及を避けるという必要のないウィトゲンシュタインでは、タイプのない「名」があっても少しも差し支えないことになる。

実際に論理形式として自己言及が許される「曖昧」という「名」にはタイプはないと考えなければならない。それでは、「自分自身に述語づけられない」という対象の「名」はどのように排除されるのか。この「名」が自分以外の「名」を定義域に持つ時は、たとえば

 「「厳密」は「厳密」ではない」」
   ↓(すなわち)
 「「厳密」-「自分自身に述語づけられない」」

ということになり、この関数において「厳密」は定義域に含まれる。「厳密」という言葉の使い方のルールから、この論理形式が得られる。それでは、この言葉自身が自らの定義域に含まれるかどうか。つまり、

 「「自分自身に述語づけられない」-「自分自身に述語づけられない」」

は命題として成立するかどうか。もし、命題として成立するなら、この自己言及は自分自身を定義域に持つ有意味な命題になる。これは実際には解答が得られない。この言葉(「名」)を、このように表現する言語習慣を我々は持たないからだ。なぜなら、この述語である「名」は、現実の「事実」から解明されてきた、世界の現実を反映する我々の表現ではないからだ。それはある意味で、無理やり部品を合成して作り上げた人工の創造物なのだ。我々の言語のルールには、このような表現はまだルールとして確立していない。

したがって、この表現はまだ無意味にとどまるのだといってもいいだろう。そして、無意味ならば、この「自分自身に述語づけられない」という「名」にとって、自分自身は定義域に入ってこない。つまり、論理の対象として自己言及の命題を構成することが出来ないのだ。

このことは何を意味しているのか。ラッセルのパラドックスは、言語による表現の限界を超えていると言えるのではないか。つまり、言語では表現できないものなのだ。したがって、それは思考の限界も越えている。思考の対象にはなりえないものなのだ。ウィトゲンシュタインの言葉でいえば、「沈黙しなければならない」対象ではないだろうか。

ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』で、我々が思考できる範囲の限界を示そうとした。それは、あくまでも現実の世界に対して我々が思考できるのはどこまでかという問題意識だった。その問題意識から言えば、ラッセルのパラドックスを、思考の限界を越えたものとして排除するのは、ご都合主義ではなくて問題の設定に適合した判断ではないかと思える。

ラッセルのパラドックスは、現実に対しては少しも悪さをするものではない。それは無理やり設定した情況を、現実にどう受け入れるかで破綻が生まれるものだ。集合論でも同じようなラッセルのパラドックスが設定できるが、それは、自分自身をも含むすべての集合というような設定をするところから論理の破綻が生まれる。そんなものは現実にはどこにもないのだが、存在と独立に論理があって、それを形式的に存在に適用すると、そのような困った状況が生まれてしまう。

現実を出発点にするとき、現実にそれが存在するような、実現されている「世界」なら、それを表現する論理に破綻は生まれない。論理は、長い間の人類の経験が凝縮された言語表現から生み出されたものだと、ウィトゲンシュタインは考えるからではないかと思う。そこに論理の持つア・プリオリ性も示されているのではないだろうか。論理を論理によって正当付けることは出来ないが、それが現実世界の表現であるということから、ア・プリオリに正当性が導かれるという発想も生まれてくるような気がする。

論理の出発点を現実世界に置き、論理の形式であるそのルールを言語表現のルールに基礎を置くという発想が、ウィトゲンシュタインにおいては最も重要なものになるのではないかと思う。それがパラドックスを回避するカギなのではないか。現実においてはパラドックスは存在しない。これは、板倉さんが言っている、「矛盾は現実には存在しない」という言い方に通じるような気がする。

パラドックスも矛盾も、思考の展開において頭の中に出現する。それは論理の使用において、これまでの言語習慣になかったような表現に一歩踏み出そうとしたときに発生するような感じがする。そのパラドックスや矛盾は、言語の表現として間違っているとき、つまり論理的に無意味だと判断できれば、思考の誤りとして解決されるのではないか。

そして、思考の誤りではなく、新たな論理表現として、そのパラドックス的で矛盾した言い方が許されるなら、それまで前提としていた「事実」のほうに誤りがあることが見出せるのではないかと思う。その時は、それまで「事実」としていた事柄が「事実」ではなく「事態」という可能性にとどまっていることが分かる。この「事実」の構成が変わったとき、ウィトゲンシュタインは、「世界」そのものが違ってしまったと捉えるようだ。ウィトゲンシュタインの「世界」が我によって違ってくる「独我論」と呼ばれることの関連もここにあるのではないだろうか。いずれにしても、ウィトゲンシュタインの発想のほうにより整合性を感じるようになってきたことは確かだ。現実の論理世界を捉えるには、ウィトゲンシュタインの哲学のほうが納得できるような感じがする。腑に落ちるという感じだろうか。