論理の前提としての「事実」と現実解釈の真理としての「事実」


野矢茂樹さんが解説するウィトゲンシュタインの発想を考えてみると、「世界」を「成立している事柄」という「事実」から出発していることが分かる。しかし、ウィトゲンシュタインは、この「事実」が何故に「事実」なのか。つまり、どうやってそれが実際に成立していることであるかを確かめるすべについては何も語っていないように見える。ウィトゲンシュタインにとっては、その事がらが「事実」であるかどうかは所与のことであり、関心はそれを使って展開される論理のほうにしかない。「事実」の確認の仕方については何も語っていないようだ。

ウィトゲンシュタインは、原理的には「事実」を現実に100%確認することは不可能だったと考えていたのではないかとも思う。現実を観察して、その現象を言語によって表現するとき、それが本当に現実を反映した表現になっているかどうかは、常に解釈の余地を残すだけに確定しないのではないかと思う。

たとえばある人物を親切で温かい心の持ち主だと受け取って、それが「事実」であると判断したとする。しかし、実はある利害関係から、そのように振舞っていたほうが得だという場合もある。また、以前は本当に親切で暖かかったけれど、困難な状況が訪れて、とても他人のことなど心配していられなくなって今は親切で暖かくなくなっているかもしれない。「事実」は勘違いがあり得るし、変化して違ってしまうことがある。

「事実」はそれを解釈する主体によって違ってしまうということが原理的なことになるのではないかと思う。それでウィトゲンシュタイン独我論というような発想に傾いたのではないだろうか。そして、解釈した「事実」が違えば、それから構成される論理空間が違ってくる。何が考えられるかという思考の展開が違ってしまうので、このような時は「世界」そのものも違うのだと判断したのではないだろうか。

実際に「それでもボクはやっていない」で描かれていたように、被告である青年が前提としている「事実」(痴漢をやっていないというもの)は、有罪判決を出した裁判官が前提としている「事実」(状況証拠がすべて、青年が痴漢をやったという結論を導くものになっているということ)と重ならない。二人の「世界」はまったく違うものになっている。

青年にとっては「痴漢をしていない」というのは100%確実な「事実」だ。しかし裁判官にとってはそれは「事実」ではない。「事実」として直接確かめることは出来ない。現行犯として目撃していないからだ。だから裁判官は、これを論理によって判断する。その前提となるのはさまざまな状況証拠だ。

たとえば被害者である少女の証言について、映画では裁判官は、これは非常に信頼性の高いものとして解釈していた。青年の位置関係や、そのとき手がどの場所にあったのかということも状況証拠として考慮される。これらが「事実」だという前提に立てば、青年の容疑を直接確認することは出来ないが、論理的な帰結としてその容疑は本当に犯行としてあったのだと判断することができる。

「事実」の前提が、青年にとってはその容疑は冤罪に間違いないので、少女の証言も論理的な帰結としては「勘違い」であろうということになるだろう。このように「世界」が違えば(所与の「事実」が違えば)論理的な帰結が違ってくる。論理空間がまったく違うものになる。このような発想がウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で展開したものではないだろうか。

それは現実の「世界」の出来事を論理を使って考えるもので、抽象的な数学の世界を論理によって構築するものではない。あくまでも現実世界で、どのようなことが思考可能なのかを解明するための論理構造の捉え方を考えた発想だろう。

被告の青年の世界では「痴漢をしていない」ということが「事実」として確認される。したがって、「痴漢をした」というような結論が論理的には導かれるはずがない。なぜなら、そのようなものが導かれるなら、ある命題の肯定と否定が同時に結論されるという矛盾が生じてしまうからだ。しかし、この「事実」を前提に持たない「世界」では、「痴漢をした」という結論が導かれても論理的には何ら問題はない。「世界」の違いが論理にもたらす影響は大きい。

現実世界では、あることが「事実」であるかは、視点の違いによって解釈が違ってくる場合があるので、原理的には万人にとっての「事実」は確定できない。現実世界で「事実」だと思える事を個人的に解釈するか、一般的には「蓋然性」として確定するしかない。裁判における判決などは「蓋然性」が高いと思われるものを「事実」として認定するという原則になっているのだろう。

原理的には100%確実なことはわからないということは、すべてが混沌としているということとは違うだろうと思う。99%確実なことが分かっていれば、それはほぼ100%確実だと思ってもそれほど間違いはないと受け取っていいのではないかと思う。すべてを100%分かろうとする哲学的な姿勢を持っていると、世の中のことというのはすべてあやふやなことばかりに見えてくるだろう。現実世界は混沌としていると思えてくる。だが、大部分は期待通りの結果を示すのが現実世界でもある。期待を裏切られたり、結果が分からなかったりすることに重大で深刻な問題があるから、現実が混沌としているように見えるだけで、つまらない日常的な事実はたいていは予想通りになる。

深刻で重大な問題では、所与の事実がどのようなものであるか、それから展開される論理がどのようなものになるかに慎重になったほうがいいだろう。国会では道路特定財源の再可決の問題が論じられていたが、これなども何が事実であるかがわかりにくいものだろう。暫定税率の維持が、道路族の利権を維持させるだけで、国民にとっては本当に必要なところに税金が使われずに、無駄なところ(無駄な道路が作られる)に使われるということが「事実」であるなら、暫定税率の維持に反対するという判断が論理的な帰結としては正しいだろう。だが、これが「事実」であるかどうかの判断は難しい。

これが直接確かめられない「事実」であれば、これが他の「事実」から導かれる論理的帰結であるかどうかを考えなければならない。それは一つには、マル激で議論されていたことだが、日本における道路の整備の比率を数値的に明らかにするということだ。マル激によればそのデータはすでに先進国中でも最高の水準になっていて、もはや高速道路整備という点ではほとんど終わっているということを「事実」としてもいいだろうと語っていた。マル激ではこのように判断していたが、これを「事実」として認めていないというのが、国会および地方自治体の長の議論ではないかと思う。

そうすると判断を論理的にもう一つさかのぼると、日本では必要な道路というのがどのように評価されているのかという「事実」がまた問題にされなければならない。高速道路というものが本当に必要なものなのかどうか。必要だということが「事実」になるのか、それとも、もう十分だということが「事実」になるのか。

だが、これも直接現実を解釈して引き出せる「事実」にするのは難しい。必要だという判断と、十分だという判断の基準が「蓋然性」のある、多くの人が賛成するものでなければならないということがあるだろう。評価という判断には、利害関係が絡んでくると客観性が弱くなる。多くの人にとって必要かどうかよりも、自分の利益にとって必要かどうかという判断が評価に滑り込んでくる。こうなると「蓋然性」の低い判断が導かれてしまうだろう。

論理の問題というのは、その前提である「事実」の確認が難しいものである時は、解答を出すことが非常に困難な難しいものになるだろう。深刻な問題はそのようなものが多いように思う。論理的に正しいものという判断は、前提となる事実を考慮に入れずに、形式だけを判断するだけならそれほど難しくない。形式論理の論理計算において間違えなければ、形式論理的には正しいと言えるからだ。だが、前提となる「事実」に間違いがあれば、論理的な帰結の正しさの信頼性はなくなる。ここが、現実と形式論理の大きな違いの問題だろう。数学では、その前提をある意味では任意に設定できるので、前提の正しさをさほど問題にしなくてもいい。とりあえず、これを正しいことにしようということで公理を設定すればいい。しかし、現実の「世界」を論理で解明する時は、「世界」を解釈する「事実」の集まりをどうとるかで、「世界」が違ってしまう。

道路特定財源の問題では、現実には政治的に力を持っている人間が「事実」として前提していることから展開される論理的な帰結の方向に向かっていくだろう。民主主義社会であれば、たとえ勘違いであろうとも、多くの人々が前提としている「事実」を元に論理が展開されるだろうが、不十分な民主主義社会では、何らかの意味で力のある存在が、その力を背景にして自らの利益を増大させる方向で「事実」を設定し、論理を展開していくだろう。

道路特定財源の問題は、今の時点では「事実」を確認することが難しい。閣議決定のように、それが一般財源化されて、本当に必要なところに税金が回るようになれば結果的には国民の利益になる。しかし、一般財源化されても、結局は道路の方に大部分の金が回るようであれば、閣議決定は国民の目をそらすための嘘ということになるだろう。

今の時点では何が正しいのかはなかなか言うことが難しい。特に、情報が限られている一般民衆の立場では確実なことは言えないだろう。だが、まだ結果が出ていないこれからのことを言うのは難しいが、もし将来結果が明らかになるような時が来れば、今は何が「事実」であるかがいえないが、その時は「事実」を語ることが出来るようになるだろう。

閣議決定がされたことによって、予定されていた道路建設のための税金が減り、他のもっと必要なところに税金が使われるようになれば、現政府が語っていることが「事実」だということが確認されるだろう。しかし、将来も変わらずに道路への税金の使われ方が同じになるなら、現政府が今語っていることは「事実」ではないと判断できるだろう。その時は、「事実」か「事実」でないかははっきりと言えるようになる。しかし、そのときでは遅すぎるということになるかもしれない。遅すぎるタイミングにならないために、実は論理による思考の展開というものがあるのだが、そのためには、どんな「事実」を確かめて、その「事実」をどう組み合わせて論理的な帰結を得るかということを考えなければならない。

かつては道路に特に税金をつぎ込むことは、日本の経済の発展にとっては必要だったし正しかったと言えるだろう。しかし今はどうなのか。それを正しく判断できるような「事実」をつかみたいと思う。論理的な帰結の正しさを信頼できるような、正しさが確信できる・論理の前提としての「事実」をつかみたいものだと思う。