前提の違いが結論に与える影響


自民党河野太郎衆議院議員のブログに「大本営発表と提灯持ち」という興味深い一文を見つけた。これが論理的な観点から面白いと思うのは、河野さんが反論している厚労省の言い分というのが、形式論理的には必ずしも間違っているとは言えないのだが、年金の議論の全体の中でその主張を位置付けてみると、河野さんが言うように「省利省欲をごり押ししてきた」と判断するのが妥当のように思えてくるからだ。

それだけを個別に取り上げれば、論理的には必ずしも間違っていないのに、年金議論の全体の中で、年金の運営をいかに整合的に行うかという観点から見ると、それは国民一般の利益になるのではなく、厚労省の利益をもたらすような利権を生み出すことに寄与する議論になっている。国民の利益にはならないような主張が展開されている。

ある種の主張をもたらす論理をたどってみると、その前提としている「事実」の解釈が一つに決まらないため、どれを前提としての「事実」と設定するかで、結論としての主張が変わってくる。そのような主張の場合は、たとえ正反対の結論が得られて、双方がそれを主張していても、どちらかに決定するというのが難しい場合がある。現在の段階ではどちらも認めて、それぞれに一理があると言わざるを得ないときもある。内田樹さんが主張していた、現在中国政府の政策を批判している人たちが、「「中国人は日本人と同じ考え方をしない。けしからん」ということを繰り返し言っているにすぎない」という判断は、それに反対する見解も、今の段階ではともに両立する主張になるのではないかと思う。なぜなら前提とする「事実」を確定することが難しいからだ。おそらく反対の主張は、前提とする「事実」に違いがあるのだろうと思う。これが確定したときに、どちらの主張が正しいかが決定するのではないかと思う。

さて、河野太郎さんの主張は、その正反対の厚労省の主張に対して、その前提の選び方に妥当性があるように僕は感じる。厚労省の主張の前提の選び方は、省益に都合のいいように恣意的に選ばれているように見える。客観的な妥当性を感じないのだ。そのあたりのことを考察すると、現段階では主張の正しさが確定しない内田さんの主張も、どのような角度から考えていけばその正しさを確定する方向にいけるのかのヒントが得られるのではないかと思う。

河野さんは、以前から年金財源を税方式にすべきだと主張してきたが、これは厚労省の主張と真っ向から対立する。厚労省は、あくまでも年金財源を保険制度として確保していくことを主張している。この決定は、どちらのほうが有効性が高いか、あるいは障害となるものが少ないかによって判断されなければならないだろう。そしてその有効性や障害は、国民の負担と利益のバランスの関係から判断されるのが客観的といえるだろう。国民にとっての負担や利益の観点よりも厚労省の省としての利益が優先されるということはないだろう。もしもそういうふうになっていれば、それは厚労省のエゴであり、年金の議論全体の中では明らかな間違いであるといわれても仕方がないものになるだろう。

年金財源を税方式にすれば厚労省の利益が削減されることは確かなことだ。直接的には、厚労省が自らの判断で運営できる資金としての年金ではなくなり、国会での予算審議を経て運営しなければならない税になれば、厚労省として使いたかったところにその金を回すことが出来なくなる。さらに、年金が税方式を基礎にすれば、その運営を担当する社会保険庁という役所は要らなくなる。厚労省としては、そこで抱える役人を削減されるということになるだろう。これも厚労省にとっては利益を損なうということになるだろう。

この利益を守るためには、税方式に反対し、今までの保険制度のままで存続させることが必要になる。だが、始めにそのような目的ありきなら、それは厚労省の省益を守ることであり、厚労省のエゴに過ぎないということになる。これを、そうではないという議論にするためには、今までの年金制度のほうが優れているか、あるいは税方式の方がよりまずくなるということを主張して説得しなければならないだろう。

未納者の比率が高く、しかもその運営において大きな赤字を作り、さらに社会保険庁の職員について言えばいかに働きが悪いかが報道されている現在の制度のほうが優れているという主張は、いかに厚顔無恥であろうともなかなか出来ないだろう。そうなれば、税方式のほうが悪いということを宣伝するしかなくなるが、河野さんの批判と反論はそこを指摘する。

河野さんは「特にひどいのは、毎日新聞で、まるで税方式だと24兆円の増税になるかのような報道ぶりだ」ということを書いているが、厚労省の主張は、税方式にすると国民一人あたりの負担が増えるということをその欠点としてあげるものになっている。

これは論理的にはそのとおりに違いない。「年金を支給するためには、財源が必要だ」と河野さんも書いているとおり、お金がなければ年金を払えないので、そのお金を確保するためには、今まで税として予算を立てていなかったのだから、その分増税になるのは論理的に必然だ。そして増税になれば、それが国民の負担になるのも当然だ。国民の負担が増えるという厚労省の主張は論理的には間違いはない。

だが、これは個別に税の負担という観点で見たときの論理に過ぎない。厚労省は年金を今までどおり続けていったときの負担については何も語っていないようだが、河野さんが書いているように、「その財源を税にするか、保険料にするかが問われている」というのが、年金問題の議論での全体的な観点からの考察のポイントだ。税にすれば確かに税の負担は増える。しかし、保険料にすれば税の負担はなくなるが、その他の負担は増えないのか。

保険料にした場合の大きな負担は、すでに議論されているように、保険料を支払う世代の負担増だ。年金を受け取る世代に比べて、それを支えて支払う世代が大きく減ってくるというのがこれからの日本社会のあり方だ。この保険料を払う世代は、増税で降りかかってくる負担よりもいっそう大きな負担を受けるだろうことが予想されているのではないだろうか。

この負担は受け取る世代の負担ではないから、受け取る世代は問題にしなくてもいいだろうか。これはそう簡単にはいかないと思う。大きな負担を若い世代が受けつづけてくれれば問題は表面化してこないだろうが、年金未納者が増えているということは、その負担は背負いきれなくなってきていると考えなければならないだろう。負担が背負いきれなくなれば、それはやがて年金を受け取る世代にも回ってくる。おそらく年金の支給額を引き下げなければならないときがやってくるだろう。どちらの負担がより厳しいかという議論がされなければならない。

河野さんは、「現行の保険料方式でも毎年、厚生年金の保険料率と国民年金の保険料金額は上がっていく。そこはまったくコメントされていない」とも書いている。厚労省は、本質的な議論において都合の悪いところには触れないようにしているように見える。このことだけでも、この議論においては厚労省はまっとうな議論をしていないという感じがする。議論においては厚労省の負けであり、河野さんの主張のほうに正当性があると僕は感じる。

また、河野さんは、以前の主張の中では、年金未納者が高齢になったときに年金は支給されないが未収入で生きていくことは出来ないので、それをどう解決するかという問題が生じるという指摘もしていた。年金未納者は野垂れ死にしてしまえというような態度は、近代国家としては取ることが出来ないだろう。当然のことながら、年金がなければ生活保護をはじめとする福祉制度で生活を支えなければならない。年金財源のツケは、最終的には税金の負担のほうに回ってくる。

このように年金の問題は、それを税方式にしたときに、増税されるという表面に現れる分かりやすい問題だけで議論が終わるのではない。それを、この分かりやすい不利益の問題だけに絞ってアナウンスするのは、年金の議論としてはやはり間違っていると判断したほうが妥当だろう。河野さんも次のように書いている。

「基礎年金の果たすべき役割と現状についてなど、まず議論するべきことをすっ飛ばして税方式か保険料方式かに焦点を当てるというのは、省の利権を守りたい厚生労働省の策略だ。」


このような厚労省の主張に対して、記者クラブからのマスコミ報道が、厚労省の主張に沿ったものになっているという。このマスコミの報道が、それしか情報源のない人たちに影響して一つの世論を形成してしまったら、本来の正論は河野さんのようなものであるのに、「今年金制度を議論している人々の主張」は、税方式の批判をしていると解釈されてしまうのではないだろうか。実際にはそうでない人がたくさんいても、社会の「事実」としての解釈はそのようにされる可能性が高い。

この年金議論で重要なことは、税方式と保険料方式という違う方法が、どちらのほうが国民の負担が減り、より有効に年金を活用できるかという、合理性の問題を議論して正しい解答を出すことだろう。現状認識として、マスコミによる世論が税方式の批判に偏っていると判断して、その世論の内容は間違っていると批判するのは、あくまでも正当な議論の方向に戻すためのものになる。そのときに、世論はそのようなものではないという議論も生じる可能性があるが、それは年金問題の議論にとっては本質的なものではない。そのような世論が形成されようがされまいが、大事なのはどちらの方式のほうが有効かということを議論することだろう。

内田さんの主張の本質も、<中国という国の持っている本質的な部分を理解せずに、好き・嫌いという感情の部分で相手を判断して付き合うような外交ではない考え方をしなければならない>というものだと思う。これはまったくの正論で、この範囲では反対する人はおそらく少ないだろう。問題は、「煎じ詰めれば」そのような外交になっているものを、どう改善していくかという捉え方だろう。表面的には感情的なものではないように見えるものでも、「煎じつめて」その本質を解釈すると、好き・嫌いで判断しているといえるものがあるかもしれない。

内田さんの指摘が、すでにそうされていて、もはや好き・嫌いで外交を行っているのではないと言えるものなら、中国との付き合い方の失敗(これは事実として失敗しているように見える問題がかなりあるだろう)は、内田さんの指摘以外の原因があると考えなければならない。年金問題において、税方式にすると悪くなるという厚労省の指摘は、年金問題が悪化する原因を他のものにも求めることが出来るし、その方が妥当性が高いとも思われる。だから、厚労省の主張には間違いがあると判断できるだろう。内田さんの、中国との外交における問題の指摘も、他の原因のほうが妥当性の高いものとして得られるなら、内田さんの指摘は見当はずれということになるだろう。いくつかの中国との外交の問題で、失敗の原因が分析できそうなものを探してみようかと思う。そうすれば、内田さんの主張に対する評価もよりはっきりしてくるのではないかと思う。