「東シナ海ガス田問題」における中国政府の政策への批判


マル激の238回[2005年10月14日] の放送では「まちがいだらけの東シナ海ガス田開発問題」というテーマでゲストに猪間明俊氏 (元石油資源開発取締役)を招いて議論していた。これがたいへん面白い議論で、マル激の紹介文には次のように書かれている。

東シナ海のガス田開発をめぐる日中対立に解決の兆しが見えない。先の日中局長協議で日本側は、中国側が開発したガス田が日本が主張する権益境界線をまたいでいる可能性があるとの理由で、共同開発、地下のデータ提供、中国による開発の中止を求めている。
 しかし、石油・天然ガスの探鉱開発の実務に40年携わってきた猪間氏は、境界線については日中双方に言い分があるとしても、日本の要求は国際的基準や業界の常識からはずれたものだと懸念する。また、日本にとっては日中中間線の東側での共同開発を受け入れることが日本がこの海域に眠っているかもしれない資源を手に入れることのできる唯一の道であり 、中国が既に巨額の費用を投じているガス田にこだわればその機会を逸するとも主張する。
 なぜガス田をめぐる日中対立は続いているのか。なぜ中国側が提案する共同開発ではいけないのか。日本側が意図的に対立を長引かせている面はないのか。ナショナリズムのはけ口になる気配すら見せている東シナ海ガス田開発問題の深層を探った。」


専門家から見れば非常識な要求を日本が突きつけている理由は何だろうか。そこに戦略的な合理性はあるのか。上の紹介文からは、日本の外交姿勢が、日本の利益を損なうのではないかという懸念が語られている。もしこの外交政策の方向が合理的な思考から出てきたものでないなら、それは「煎じ詰めれば」中国に対して「けしからん」という感情で対応しているに過ぎないものと解釈できるのではないだろうか。上の文中には「ナショナリズムのはけ口になる気配すら見せている」という言葉がある。これは、嫌いな中国を非難して貶めることで溜飲を下げるということにならないだろうか。もしそうであれば、好き・嫌いで外交政策を考えていることになるのではないかと思う。

東シナ海ガス田問題は、中国との外交の問題の多くの中の一つに過ぎないが、これが典型的な一つであるなら、外交の主流はこのようなものだと判断しても間違いではなくなるだろう。この問題は、内田さんが指摘するような特徴を感じるだけに考察に値するのではないかと思う。

まずはこの問題の大雑把な理解をするために、ウィキペディア「東シナ海ガス田問題」を見てみると、基本的な問題は、海底に眠っている資源に対する権利が中国と日本のどちらに帰属するかということの対立のように見える。それぞれが、権利の及ぶ範囲の主張が異なっていて、中国側の採掘が日本の権利を侵しているというのが日本の主張だが、中国側はそれは正当な権利の行使だと主張していて、双方が歩み寄っていないというのが現状らしい。

「問題となっているガス田は両国の排他的経済水域内にあり」と書かれているように、双方の主張は、「排他的経済水域」という言葉の定義を現実に適用したときの矛盾した面が出てきているのが一つの特徴だ。言葉というのは、現実に関係なく定義することが出来るので、それが現実にあわなくなる場合がある。本来なら権利はどちらかに帰属しなければならないのだが、この場合はどちらにも権利があるといえるので、問題はそれをどう調整するか、双方が納得する形でどう「手打ち」をするかということになる。

この「手打ち」には唯一の正しい解答はない。どのような「手打ち」をするかは、外交政策の成果として評価される。可能な限りの最大限の利益をあげられる外交的「手打ち」なら、それは現時点での最も高い評価を受けるだろう。マル激では、専門家の猪間明俊氏によれば、日本側の政策は「手打ち」と呼べるような姿勢は感じられず、むしろ問題を解決しないように無理な要求を吹っかけているように見えるようだ。この無理な要求は、いったい何を基礎にして出てきているのか。

宮台氏に寄れば、それはナショナリズムというものから出てきているものかもしれないということだった。中国との交渉で、現時点で最大の利益を引き出す方向というのは、中国側の提案による共同開発で妥協することだと、専門家の猪間明俊氏は語る。しかし、中国側の提案を受け入れるということは、ナショナリズムで吹き上がっている人々にとっては、中国側に押し切られて情けない姿をさらしているように見える。嫌いな中国の自由にさせるのは「けしからん」というふうに映っているのではないかということだ。

中国側の言い分のほうに理があるということは、専門家としては常識の範囲に入ることらしい。一つには、中国側の海底油田が、日本が主張する海域の外側にあって、油田そのものの位置は権利を侵害していないということがある。だから、日本の主張は、地下でつながっているかもしれない資源が中国側に取られるのが権利侵害だと主張しているようだ。

しかし、これに対しても、地下資源の権利に関しては大陸棚条約というもので、基本的には大陸棚が帰属する国にその権利があるという解釈があるらしい。水域という海の範囲では日本に権利があっても、大陸棚という地下資源では中国に権利があるという主張が認められる可能性もある。

日本の権利主張はかなり弱いらしいのだ。日本の主張する海域の外で中国が開発しているということは、ここまでは中国のほうがかなり譲歩していると受け取ったほうがいいのかもしれない。マスコミが報道するように、日本の権利が及ぶ範囲で中国が勝手なことをしているのではないと解釈したほうが正確なのではないだろうか。

中国側が譲歩しているように見えるのは、もっと強硬な姿勢をとったときの悪影響を考慮しているのではないかと思う。日本が主張している海域の範囲に関しては共同開発を申し出ているのも、中国側の譲歩と受け取ったほうがいいのではないかと思う。そうすれば、この譲歩をうまく利用して交渉したほうが外交的には成果が上がるのではないかと思う。

中国側が譲歩してでも開発したいというのは、そこにかなり大きな資源が眠っている可能性があるからではないかとも猪間明俊氏は語っていた。そして、現在の中国にとってはエネルギー源の確保は国家的に非常に重要であるという指摘もあった。そのようなことを考えると、この交渉は状況的には日本に有利な展開が予想される。それなのにどうして、中国側の提案を受け入れることは、日本にとって敗北であるという解釈がされてしまうのだろうか。中国は譲歩せざるを得ない状況にあるのだから、最大限の譲歩をさせて中国側の提案を受け入れるのが外交的には正しいのではないかとも感じる。

日本側が強い姿勢を見せるために、この中間的な危険な海域で日本側も試掘を始めようという動きもこの時点であったようだ。これは危険な試みなので、海上自衛隊護衛艦を伴って試掘が出来るように法改正をする動きもあったようだ。しかしこれは危険すぎる賭けで、結果的には日本の不利益になるだろうと猪間明俊氏は指摘していた。

これは一種の挑発行為であり、戦争が起こる危険さえある。だが、猪間明俊氏は、中国側は戦闘行為をするような単純な反応はしないだろうと言っていた。もし、日本側が護衛艦を伴った試掘を、まだ紛争中の海域で行ってしまえば、中国にもそこで試掘をすることの正当な理由を与えてしまうという。日本がやっているのだから、中国がやっても権利的には同じだというわけだ。

そのときに、日本側がその中国の行為を阻止できるかといえば、そんなことをすれば戦争のきっかけを作ったのは日本ということになり、国際的な非難を浴びるのは日本のほうになるだろう。中国側は、日本の試掘などは放っておいて、日本よりもさらに強力な海軍の護衛で、それこそ日本よりもはるかにたくさんの試掘をやりまくるだろうというのがマル激の議論だった。もし、日本がそのような行為に出てくれれば、中国側は待っていましたとばかりに、今まで出来なかった海域での試掘ができるということで、むしろチャンスだというふうに受け取るだろうということだった。

猪間明俊氏のこの指摘は当たっているのではないかと僕は思う。中国の思考というのは、そのような合理的・戦略的なものではないかと感じるからだ。中国側の思考は、感情的な溜飲を下げるというものではなく、実質を取る頭のいいものではないかと感じるからだ。情緒的な気分のよさを取るよりも、実質的な利益のほうを取るという合理性は、日本人からすると気持ちの悪いものに映るのではないかとも感じる。日本人は、多くの場合、合理性よりも溜飲を下げるほうを選んできたように僕は感じるからだ。

日本人が中国人を理解するのが難しいのは、情緒よりも合理性を優先させるという心性があるからではないだろうか。これが中華思想に通じるものなのかは分からないが、日本人の思考は世界標準から見るとかなり特異ではないかと思うので、中国人だけでなく、合理的・論理的に思考する人々を理解するのに苦労するのではないかと思う。

東シナ海ガス田問題は、合理的に考えれば、中国側の提案を受け入れて共同開発することが外交的には正しいように見える。これがなぜそうならないのか。そうしない合理的な理由が他にあるのか。宮台氏は、中国側に「嫌がらせ」をするという目的だったら、問題が解決しないことが目的になるので、いつまでも問題に止めておくことは戦略的なものになるといっていたが、「嫌がらせ」をすることが日本の利益になるかどうかは難しいだろう。利益という観点から考えれば、「日本にとっては日中中間線の東側での共同開発を受け入れることが日本がこの海域に眠っているかもしれない資源を手に入れることのできる唯一の道であり」と専門家は見ている。

中華思想との関連で言えば、中国が合理的・論理的に行動している範囲では、わざわざそのようなものを取り上げて理屈を考えなくてもいいのではないかと思う。普通の論理で理解すれば、その合理性は分かる。しかし、普通の論理ではその合理性の理解が難しい時は、もしかしたら中華思想の持っている、論証抜きの先入観がその思考に影響しているかもしれない。チベット問題においては、中国の思考・行動の合理性は、論理的には理解できないことが多い。このような論理的に理解しがたい行動の問題を理解するためには、中華思想というような歴史的な影響を考慮することがいいのではないだろうか。そのような観点で中華思想というものを見てみようかと思う。内田さんが語るような中華思想を考慮したとき、チベット問題での中国の態度が果たして納得できるものとして説明できるかどうか。考えてみたいと思う。