現代中国の実相


マル激の第218回 [2005年6月4日]では「今中国に何が起きているのか」というテーマでゲストに興梠一郎氏(神田外語大学助教授)を招いて議論している。ここで語られている現代中国の姿というのは、ある意味では驚くべきことばかりで、そんなふうになっているとは知らなかったというものが多い。これは、『中国 隣の大国とのつきあいかた』(春秋社)という本にも収録されていて、箇条書きにしてみると、次のような話題が語られている。

  • 1 勝g小平体制や江沢民体制は、ずっと金持ちよりの路線でやってきたために、かなり階層分化が進んでしまった。貧乏人(農民と下層労働者)はいつまでも貧乏なままだ。
  • 2 中国には流動性がない。1958年に出来た戸籍に関する法律によって固定化されている。農民は都市の市民になれない。教育も社会保障も戸籍のあるところでしか受けられないので、都市にとどまって高い賃金のもとに働くことは出来ない。農民はいつまでも低所得のままになる。
  • 3 現在の体制は官僚や企業家にとって都合が良く、彼らは大きな利権を持っている。親の官僚が権力を使って子どもに儲かる商売を回す。独裁国家の独裁権力が金儲けも独占しているので、彼らだけが儲かる構造になっている。
  • 4 労働者はすべて国家のコントロールのもとにあるので、賃金は安く押さえ、労働争議も鎮圧してくれる。そのため外資にとっては、効率のいい労働市場となっている。
  • 5 警察の腐敗。居住地以外から来た人は臨時居住証を持っていなければならないが、それを持っていないことを摘発されると罰金を払う。これが警察の金づるになっていて、狙われることが多い。そのときのトラブルで殴られて死んだ人間もいるが、それは闇に葬られてしまう。
  • 6 国有企業はその生産と就業人口はともに30%にしか過ぎないのに、それへの投資や銀行融資はそれぞれ60%、70%に上っている。まったく効率の悪い金の使い方をしている。やがて破綻することは目に見えているが、国家の財政収入のほとんどが国営企業からのものなのでそれを見捨てることが出来ない。
  • 7 出稼ぎ労働者への賃金未払いがある。これは直接労働者を抱える末端の企業よりも、最上位にある企業の責任が大きい。そこが金を払っていないことが多い。そしてその企業はたいていが政府系だという。


これらの事実を見ると、その権力の腐敗ぶりのひどさにあきれてしまう。そして、そのような社会体制のもとで、底辺の労働者・農民が、いかに惨めな生活を強いられているかという理不尽も感じる。まさに「けしからん」ことのオンパレードといった感じだ。

宮台真司氏は、

「もともと共産主義や、そのプロセスとしての社会主義は、肉体労働者、すなわち労働者や農民といった、従来虐げられてきた人々の立場や利益を代表するものだった。そのためのプロレタリア独裁だったはずです。それなのに肉体労働者たちが経済的にも完全に下を占めているというのは、どこが社会主義、どこがプロレタリア独裁なのかといいたくなりますね。」


と発言している。まったくそのとおりだと思う。今の中国は、建前として社会主義思想を掲げていても、それは実質を伴わない。むしろまったく正反対の結果をもたらしているもののように見える。もっとも、イデオロギーというのは、日本の天皇イデオロギーに関しても宮台真司氏がよく語ることだが、支配層にとっては「ネタ」にしか過ぎないのであって、それは利用するものであっても、「ベタ」に信じて行動の指針にするものではないのかもしれない。

これらの事実は、「中国が社会主義国家であるならば」という前提を設けるならば、その正反対の結果が出てきているので、「ある意味では驚くべきことばかり」という感想も出てくるわけだ。言っていることとやっていることが違うじゃないか、という非難をしたくなるほど「けしからん」ことだと思う。

もしこの事実だけを取り上げて書いて、それ以外のことを何も言わなければ、言葉としては「けしからん」と言わなくても、「煎じ詰めれば」そのロジックは「けしからん」という主張につながっているといってもいいだろう。それを「けしからん」と言っているに過ぎないといわれないためには、この事実から、「けしからん」という情緒的判断以上のものを考察する必要があるのではないかと思う。マル激ではどうなっているだろうか。

これら「けしからん」と思えるような事柄が、その経緯を考えてみると必然的な面もあるという考察が語られている。ある意味では「仕方がない」という判断も出来るということだ。これは「仕方がない」から許されるという主張ではない。これらの「けしからん」事柄が、単純に誰かの悪意によって引き起こされたものではないという考察をしているという意味だ。

誰かの悪意によって引き起こされたものなら、その悪意を持つものを倒すことによって問題は解決する。しかし、悪意ではなく、何らかの必然性から起こってきたものは、その必然性を支える前提を変革しない限り、善意や努力では問題を解決できないし、善意や努力で解決しようとする方向を取ることは人間を疲弊させるだけになる。必然性を見ることによって、「けしからん」と憤慨する以上のことを語ることになる。

ゲストの興梠さんは、毛沢東共産主義思想を大同思想と呼び、「農業を中心とし、みんなと同じものを着、貧しくても憂えない。平等であればいい。だから経済成長なんかもある意味どうでもよく、みんなであるものを分ければいいという思想」と指摘していた。しかし「それがまた官僚層の腐敗を生み、結局は失敗に終わった」とも評価していた。

この失敗を問題とし、その解決に努力したのが勝g小平で、「もう一回競争社会を作ろうと、改革開放路線を邁進した」とも語っている。この路線が、経済的には成功を収めたのだが、その成功の原因によって、上の箇条書きのような現象が現れてくる面も同時に生まれてしまったと考えられる。

中国に投資する外資にとっては、そこでの安い賃金はコストの削減という点では大きな魅力になる。この魅力があればこそ外国は投資をし、中国に富をもたらす。この魅力を存続させるためには、獲得した富によって国民が平等に豊かになっては困ることにもなる。いつまでも低い賃金で働いてくれる労働者がどうしても必要になる。

社会主義あるいは共産主義の思想から言えば、国が獲得した富は労働者に平等に分配すべきなのに、富の獲得を持続させるためにそれが出来ないというジレンマが中国に生じているようだ。それは、単に「けしからん」から考えを変えろというだけでは解決しそうにない。

ヒューマニズムの観点から「けしからん」と主張しても仕方がないという面があるのと同時に、これらの問題が、中国が近代民主主義を確立すれば解決できるかという方向にも大いなる疑問が生じるとマル激では指摘している。近代民主主義では、民意が反映して国家の方向が決まっていく姿が普通だ。その民意がたとえ間違っていようとも、多くの人がそれを望むのなら、ある意味では仕方がない。20世紀初頭のファシズム国家も、それらは民主主義的多数を得て発展してきた。

近代民主主義というのは、民主主義だから正しい道を選ぶとは限らない。中国は、その民意があまりにも巨大すぎることが懸念されている。間違った世論で民意が偏った場合の弊害の大きさが予想がつかないからだ。大多数の人々が、論理的に正しい判断をすると期待できるだろうか。もしそれが期待できないのなら、少なくとも、今の段階ではきわめて優れた人物が国家の中枢に入るようなシステムになっている、今の独裁国家の中国のほうがましではないかという考えもある。

宮台真司氏は、「ある政治体制が末期状態になると、必ず起こる定番的な出来事として、体制存続の方向に力を尽くすのでなく、体制がだめになったときに備えて、自分の富を国外に移転したり、体制に依存しない利権や自分の地位を確保する方向に、社会上層の人々がエネルギーとリソースを使うようになります」と指摘していた。このような状況にもしも中国が陥るなら、国家の崩壊を招き、それによって混乱した人々が引き起こす損害は莫大なものになるだろう。

中国は、その巨大な存在であるという現実から、今のままの状態が続いても、それが変化しても大きな影響を与える。単純に「けしからん」と憤慨していればよくなるという対象ではない。また、事実だけを指摘して、こんな問題があると傍観していても問題の解決にはならない。今ある情報を最大限に生かして、どのような方向が問題の解決として、論理的には最も妥当なのかを考えることが重要ではないかと思う。マル激ではそのような議論をしているように感じる。

中国に対して単純に「けしからん」という言い方をする言説は、中国が「嫌い」という好き・嫌いで語る人にたぶん多い言い方だろう。これは単純なので分かりやすいが、言葉としては、「けしからん」や「嫌い」を語っていなくても、「けしからん」事実の指摘だけにとどまっている言説は、「煎じ詰めれば」そのロジックは「けしからん」と言っているに過ぎないと判断してもいいのではないだろうか。

ある「けしからん」事実があったときに、その事実がどのように理を持っているかを考え、その理に照らして改善の方向を考えることが出来るかどうか。それが出来たとき、「けしからん」と言っているに過ぎないロジックを乗り越えることが出来るのではないだろうか。「けしからん」事実に対して、それがなぜ現実にそうなっているかの理を語っていない言説は、内田さんが語るように「けしからん」と言っているに過ぎないのではないかと僕も思う。

マル激の議論は、宮台氏を始め、社会の中のトップの階層のインテリの議論なので、一般市民としてはややハードルが高い感じがするところもある。それに対して内田樹さんの『街場の中国論』(ミシマ社)に書かれている言説は、一般の我々でも考えられる範囲のものになっているように感じる。この中に、「けしからん」を越えるロジックがあるか探してみようと思う。