佐佐木さんの「現代「中華帝国」と中華思想 チベット問題」への考察 1


佐佐木さんの「現代「中華帝国」と中華思想 チベット問題」について考えてみたいと思う。まずはそこに書かれている内容の理解に努力を注ぎたい。何らかの主張に対して、それに賛成するにせよ・反対するにせよ、その主張の内容を正確に受け取った上で自分の意見を提出しなければならないだろう。誤解を前提にして論理を展開しても、それは一つの別の見解にはなりうるだろうが、ある主張に対する関連のある主張にはなりえない。

佐佐木さんの主張は非常に多岐に渡り、しかも専門的な用語の使い方も多いので、そこで何が語られているかを正確に受け取るのは難しい。まずは細部にこだわらずに、大筋の主張において、本質的には何を語っているのかということを考えてみたいと思う。この理解にはかなり時間がかかりそうだが、まずは分かる部分と分からない部分をはっきりと分けて、分かったと思える部分が正確な理解になっているかを考えてみたいと思う。ポイントになるのは、論理的な言葉の使い方において、解釈が唯一に決定出来るかどうかで、それを考えたいと思う。解釈が複数出来そうな表現では、どの解釈が、前後の文脈から考えて妥当なのかという自分の受け取り方を考えてみたいと思う。

最初に、順番どおりに「(1)はじめに ― 現代中国は単なる「中華帝国」ではない ―」から見ていこうと思う。ここでまず理解が難しいのは、「単なる「中華帝国」」と表現されている概念だ。この概念がつかめないので、それを否定した対象についても、それがどういうものであるのかが頭に浮かんでこない。「中華帝国」というものがどういうものであるのか、それが「単なる」と形容されている特長は、どのような点が単純で「単なる」と呼ばれているのか。

中華人民共和国マルクス・レーニン主義を党是とする共産主義者党(中国《共産党》)の統治する特殊な<イデオロギー中華帝国>である」という文章から想像すると、この特徴を付け加えて考えることが「単なる」ではない複雑さをもたらしていると受け取れそうだが、これも具体的にはどのような特質を見せる点をそう呼んでいるのかということがよく分からない。

この前提になる命題の内容が理解できないと、おそらくそれからの論理的帰結だろうと思われる「西側資本主義陣営の後発「開発独裁国」の帝国主義的悪行とは同一視できない特異性・特殊性を帯びている」という主張の正当性も判断するのが難しい。この主張は、現象という「事実」を観察して、印象として語ることも出来るだけに、その場合は「そうも解釈できる」という主張になってしまう。もし論理的な帰結であるなら、その前提を認めた場合には、この帰結はどれほど心情的に反対したいことであっても、その正当性を認めなければならない。論理的な展開によって得られるかどうかという判断は、その主張に賛成するかどうかにおいて大きな意味を持つ。

そこで「単なる「中華帝国」」という言葉の理解に努めたいと思うが、そのために、もっと一般的な「帝国」の概念から考えてみようかと思う。これならばかなり一般的な思考が出来るので、まずは「単なる「帝国」」の概念がつかめるのではないかと思う。その上で、その「帝国」が「中華帝国」になったときのイメージを考えてみようと思う。

さて一般的に「帝国」とはどのようなものを指すだろうか。辞書的な意味は「皇帝の統治する国家」というものらしいが、これでは現代中国には最初から当てはまらなくなる。そこには皇帝がいないからだ。比喩的に、共産党のトップを「皇帝」と呼びたいかもしれないが、比喩を入れた表現は、論理的考察にはふさわしくない。そこで両義的な命題が出来上がり、真偽が明確に定まらなくなるからだ。「帝国」をどのように解釈すれば現代中国にも当てはまる概念になるだろうか。

そこでウィキペディア「帝国」という項目を見てみると、「多民族・多人種・多宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家。この場合、君主が皇帝とは限らず、王だったり、政体が共和制であることもある」という解釈も語られている。この解釈による概念なら現代中国も「帝国」の仲間入りが出来そうだ。

ウィキペディアでは「チベット新疆ウイグル自治区、台湾、日本に対する政策から蔑称として帝国(中華帝国)と呼ぶことがある。ソ連と同様に「赤い帝国」とも」という記述も見られる。現代中国に対しては、一般的な意味で「帝国」と呼んでいるというよりも、「けしからん」ことをしているという軽蔑の意味で「帝国」と呼ぶことのほうが一般的だということだろうか。

佐佐木さんの意図する「中華帝国」は、このような一般的な意味のものや蔑称としての「帝国」という意味からは少し離れているような気もする。一般的な意味というのは、概念としては、多くの似たような具体的な国家に共通なものを抽象したものになっている。したがって、そのままでどの国家にも存在しているという特徴ではなくなっているので、一般的なものを考えている限りの対象を「単なる帝国」と呼べば、どんな具体的な国家も「単なる帝国」ではなくなる。これは、現実を観察することなく、単に定義から得られる言葉の上でのものになるので、内容のない言明ということになってしまう。

ある特殊性を際立たせるために、レトリックとして「単なる帝国ではない」と語ることもあるだろうが、この言い方を命題として受け取るなら、「単なる帝国」という具体的イメージがあって、それを否定することで、たとえば現代中国の持っている特殊な特徴をよりクローズアップするという受け取り方が正しいのではないかと思う。

佐佐木さんが語っている「単なる「中華帝国」」のイメージを、文脈から探っていくと、「資本主義陣営内の後進国によくある権威主義的「開発独裁」型国家」という言葉が見えてくる。「多民族・多人種・多宗教を内包しつつも大きな領域を統治する」ということの目的は、そこにあるさまざまな資源を開発して利益にするという目的が、「権威主義的「開発独裁」型国家」には見られるのではないかと思う。中国のチベット政策にも、そのように受け取れるようなところが見られる。日本にいるチベット人ラクパ・ツォコ氏(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所・代表)もマル激の中で、中国が欲しいのはチベット人ではなくて、チベットの土地だということを語っていた。

このような土地の収奪という面を「単なる「中華帝国」」の姿として見ているなら、現代中国はこのようなものではないという主張は、佐佐木さんの主張に重なるのではないだろうか。佐佐木さんが否定しているのは、このような姿の「中華帝国」ではないかと僕は解釈する。

もし現代中国が、このような意味での「中華帝国」であるなら、資源提供の場としてのチベットを手放しがたいと考えても、それを持ちつづけることと、自治を許して自分にとって有利な付き合いが出来る工夫をする(経済的に見合う方向でということ)ということを比較して、自治を許すほうを選ぶという可能性も考えられる。未来永劫に渡ってチベットを手放さないということはないだろうという考察も出来る。

しかし佐佐木さんは、中国がチベットを手放す可能性というものがほとんどないということを主張しているように見える。それこそが「単なる「中華帝国」」ではないことの特徴の現れで、「その特異性・特殊性は、中国の支配地域(中国共産党による“解放”地域)としてのチベット自治区の「手放し難さ」に集中的に現れる」と表現されている。

そして、この原因として考えているのが、「中華人民共和国マルクス・レーニン主義を党是とする共産主義者党(中国《共産党》)の統治する特殊な<イデオロギー中華帝国>である、という一点」に見ている。これこそが、「単なる」という対象と区別する指標になるというわけだ。

そして佐佐木さんは「中国共産党が中国《共産党》であり続ける限り、その依って立つ政治思想イデオロギーからして、チベット独立(またはダライラマ14世の求める「高度な自治」)など<原理原則的>に認め難いということである」と記述している。このことから受け取れるのは、この現代中国が持っている「帝国」としての特殊性が、チベット問題において解決を困難にしている、すなわちチベット人が望むような方向での自治を絶対に許さないという中国の態度を、論理的に導く前提となっているという理解だ。共産主義イデオロギーから、チベット自治を許さないという政策、チベットの侵略・植民地化を正当化する論理が展開できるという主張ではないかと思われる。

このことの論理関係の正当性は、この段階ではまだ考察することは出来ない。それは「この点後述」と書かれているように、後に詳しく述べられるのだろう。今の段階では、そう主張されているということを受け取ることが文章読解としては正しいのではないかと思う。

佐佐木さんは、(1)の論述において、中華思想についても語っているが、これは現代中国が「帝国」として持っているという特殊性、その共産主義イデオロギーの問題とは切り離して、別の話題として今は理解しておいたほうがいいような気がする。佐佐木さんは、現代中国においては、共産主義イデオロギーのほうが本質であって、中華思想のほうは、その行動の細部を理解するには参考になるだろうが、本質的にその行動を左右するような大きなものではないと判断しているように見える。

(1)における論述で、その理解のために本質的に重要な点は、現代中国の「帝国」的行動を理解するために、共産主義イデオロギーこそが最も重要なものだという点ではないかと思う。共産主義イデオロギーのどのような面が、現代中国の行動を整合的に理解するという点で役に立つのか。これが主張の理解において最重要なものではないかと思う。

また中華思想については、それは本質的な部分を形作るのではなく、むしろ傍流の要素を説明するのに使われるという主張も感じる。これは、中華思想の内容をどう捉えるかで判断も違ってくるだろう。それは複雑で多様なので、どのようなものとして概念化するかで重要性も変わってくると思われる。佐佐木さんが語る意味での「中華思想」がどのようなものであるか、具体的に思い描けなければ理解は正確にならない。そして、これは、内田さんが語る中華思想との比較も問題になる。その概念に食い違いがあれば、議論はすれ違うからだ。

いずれにしても、共産主義イデオロギーの理解と、中華思想の理解というものを念頭に置いて、次の文章を読んでいこうと思う。