佐佐木さんの「現代「中華帝国」と中華思想 チベット問題」への考察 2


佐佐木さんの「現代「中華帝国」と中華思想 チベット問題」についてその「(1)はじめに ― 現代中国は単なる「中華帝国」ではない ―」を読んだ限りでの、佐佐木さんの主題と主張について、僕は次のようなものだと受け取った。

  • 2 現代中国を理解するのに中華思想は重要ではあるが、それのみを理解の中心に据えることは出来ない。「中華思想一本で論じきれるほど現代中国の諸問題とりわけ政治的外交的軍事的諸問題は単純ではない」。


カギ括弧で引用しているのは、佐佐木さん自身の表現で書かれている部分で、この二つが、この長い文章の全体を貫いているテーマではないかと僕は理解している。

この二つのテーマのうち、僕に関心が高いのは1の方である。マル激での議論においても、宮台真司氏が冒頭で語っていたように、中国のチベットに対する姿勢というものが、今与えられている情報から考える限りではその整合性が理解できない。中国のチベットに対する行為は明らかな侵略行為に見える。それはかつて日本が中国に対して行っていたこととほとんど同じようなものに見えるという。

中国が日本の行為を批判しつづけているのは、その侵略行為が不当であり間違っているという主張であるはずなのに、その間違った行為を自分がやっている時はどうして正当化できるのか。その論理的整合性を理解するにはどこを見たらいいのか。マル激の第366回(2008年04月05日)では「中国がチベットを手放せない理由」というテーマでゲストに平野聡氏(東京大学大学院准教授)を招いて歴史的背景を見ることによって、中国がどうしてそのような正当化を主張するかの合理性(何らかの前提があって、その前提の元ではそうすることが納得できるような理由がある)を理解しようとしていた。

この合理性というのは、論理的な合理性のことで、前提が正しいと認めた場合に、その帰結を正しいと認めざるを得ないような命題の展開がされているかという点を見る合理性だ。帰結が正しいかどうかの合理性ではない。チベットへの侵略行為は、チベット人の権利を侵害するという点では、事実としてその侵略行為を容認することはできない。そのような意味で、侵略行為そのものに合理性はない。理不尽な行為である。しかし中国はそれを正当化している。

これは、結論としてその間違いを指摘するのは簡単であるとは思うが、その指摘だけで中国がその行為を止めないとしたら、このパラドックス状況は、結論の間違いを指摘しただけでは解決しないものになっている。「アキレスと亀」のパラドックスにおいて、実際にはアキレスは亀を追い抜くではないか、という事実を指摘しても、「アキレスと亀」のパラドックスの論理を否定することが出来ないように、侵略行為に見える点を指摘しても、中国自身がそれを「侵略行為」と認めていなければ、この批判は効果あるものにならない。事実の指摘だけでは相手の主張を否定できないのだ。

だから、中国の言い分を批判し否定するためには、中国の言い分のほうにどのような論理的正当性があるかを探らなければならない。中国はどのような前提から、そのような不合理だと思われる結論を導いているのか。なぜ、事実と反するような結論が論理的に導かれてしまうのか。それは、中国が論理的な前提としている事柄に問題があるに違いない。マル激では、それを清の時代からの歴史を考察することによって求めようとしていた。内田さんは中華思想の中にそれを求めていたように見える。それに対して、佐佐木さんは中国の持っている国家イデオロギーにそれを求めているように僕は理解した。

僕自身も、中国のチベットに対する態度や行為を理解することが出来ないでいた。事実だけを見れば、「けしからん」事をしているという嫌悪感と怒りが湧いてくるので、それをもとにした非難をしたくなる。しかし、中国というのは、そういうわけの分からないことをする嫌なやつだという見方で理解して済ませられる対象だろうか。それほど頭の悪い人間たちがトップに立っているのだと単純に理解してはいけないのではないかとも感じる。矛盾の現れのように見えることが実は、中国を深く理解するきっかけにもなるのではないかと考えられる。そのような意味で、さまざまな観点から、この不合理な事実を合理的に解明することは重要だし面白いだろうと思う。

そこでまずは1で主張されている事柄を論証する部分を、佐佐木さんの文章から探したのだが、これが見つからなかった。僕の期待としては、中国が持っている国家イデオロギー(それを社会主義と呼ぶか共産主義と呼ぶかは微妙なところがあるが)がどんなものであるかがまず説明され、その前提を共有したならば、そのイデオロギーからの論理展開で、中国のチベット侵略に見える行為が正当化される、つまり論理的な必然性が帰結されるという展開が見られるものと思っていた。

しかし残念なことに、佐佐木さんが、中国のイデオロギーをどう捉えているかという具体的な概念が語られている部分が見つからなかった。これは、社会主義あるいは共産主義というイデオロギーは、それが含んでいる事柄があまりにも広いので、一般的な意味で考えた場合に概念を一つに絞りきれないのではないかと思う。そうすると、前提が確定しないので、論理的な帰結も確定しなくなる。イデオロギーを前提としてチベット侵略を正当化するという論理の展開が出来なくなる。

社会主義の概念を一般的に考えれば、それは富の管理を社会全体で行ない、富の分配を公平に行うことだという理解も出来るだろう。そう考えると、マル激で宮台氏が指摘していたように、労働者と農民が低収入の状態にあり、共産党の幹部を始めとする国家官僚が富の大部分を独占するという不公平な状態が、どこが社会主義なのか、どうしてプロレタリアート独裁などといって、労働者の国家だなどと言えるのか、という指摘が正当のように思えてくる。つまり、中国が社会主義イデオロギーを持ちつづけている国だという前提そのものに疑問を生じるような事実も見られる。

このように一般的な概念で考えた場合、その中の一つを取り上げて論理を展開すれば、佐佐木さんが主張するような結論を否定するような論理展開も出来てしまう。だから、佐佐木さんが考えているようなイデオロギーの具体的な内容と、それが中国に存在しつづけているという証明が、その主張の論証の際には必要だろう。なぜなら、佐佐木さんの主張が成立するということを、直感的には僕は理解できないからだ。

論証という形の部分は見つからなかったが、関連を語る部分はいくつか見つかった。たとえば「(3)中華思想から現代中国を見ることの<方法>論的問題点」には

マルクス・レーニン主義における民族問題処理の原則は、少数民族民族自決権、民族の自主自立と民族的伝統文化は原則的に承認擁護されなければならない。しかしその「民族的な利益」とか「民族的な要求」などは、共産主義者の国際主義者としての連帯と団結(民族的な障壁を越えた階級的結合)の原則のもとにおいてのみ認められる。
では、チベット族が「ダライラマ法王様を活仏として仰ぎ奉りたい」などという「民族的な要求」を主張したとしようか?
もちろんそんな要求など断じて認められない。なにしろ、中国共産党が周辺の「後れたチベット民族」を、「活仏を拝む」などという「無知蒙昧」状態にしておいては、共産主義者の国際主義者としての神聖な義務(民族的な障壁を越えた階級的連帯と団結)に反するのだから。」


という記述が見られる。この記述からは、チベットへの侵略に見える行為は実は近代化の「指導」なのであるという中国の主張が語られているように見える。これは他民族の文化を踏みにじるひどい行為だと解釈することも出来るので、行為そのものの評価は正反対の主張も出来るが、論理的な前提として「「活仏を拝む」などという」のは「「無知蒙昧」状態」だ、というのに賛同すればその論理的な帰結も承認せざるを得ない。だが、これは民族の歴史が築いた文化なのだと理解すれば、この前提はむしろ否定される。

この論証は、中国の持つイデオロギーが侵略を正当化している論理展開だと受け取れるだろうか。確かに、中国共産党という指導部としての前衛が、遅れた後衛であるチベットを指導するというのは、「民主集中制のメカニズムは、労働者階級を指導するのは唯一無比の共産党であり、共産党を現実的に指導するのは党中央であり、党中央を主宰するのは党書記長であるという風に、ピラミッドの頂点へと権力が集中収斂していく」と佐佐木さんが語るイデオロギーの一つに当てはまりそうな感じがする。

だが、このイデオロギーからそのまま、チベットへの行為が「侵略」ではなく「指導」だということは出てこない。「指導」だというには、チベットの仏教信仰が遅れた「無知蒙昧」状態だということが前提されなければならない。こちらの方がより本質的な前提になる。だから中国の間違いを指摘するなら、民主集中制というイデオロギーの批判をするよりも、他民族の文化を「無知蒙昧」な行為と勘違いしている、近代化概念の間違いを指摘するほうが正しいのではないかという感じもする。

残念なことに佐佐木さんの長い論文には僕がもっとも関心を持っている部分は論述されていないのを感じる。その代わり膨大な言葉を尽くして語られているのは、2の主張に関わる部分ではないかと思われる。そのために中華思想をどのように捉えるかという佐佐木さんの見解を述べることに多くの言葉が費やされている。

これは、佐佐木さんがこの文章を書くきっかけとなったのが内田さんの文章だったからなのだろうと僕は想像する。内田さんは、中国の行為の理解のために中華思想の重要性を解いていた。それに対して、それは違うのではないかという批判を語ることが佐佐木さんの文章を書くことの動機としてまず浮かんだのではないかと思う。そのため、僕には関心が高かった1の論述ではなく、佐佐木さんにはより関心が高かったのではないかと思われる2の記述が長くなったのではないかと思う。

中華思想に関しては、内田さんは中華思想そのものを論じているのではないので、ここまで細かく掘り下げる必要があるかなという疑問が生じる。内田さんは、中国の理解のための道具として中華思想のもっとも中心となるものを取り出そうとして単純化しているように見える。その単純化に対して、中華思想の深さを語って対立した面を取り上げるのは、議論としてはすれ違うのではないかという印象をもっている。

もし議論がすれ違っているなら、一見対立しているように見える主張が、実は対立せずに両立するという理解が出来るかもしれない。弁証法性をそこに見つけることが出来るだろう。両方の主張は、実は視点が違っているのだという理解だ。そのような観点で、佐佐木さんの2に関わる論証を見ていこうかと思う。