内田樹さんの語る中華思想 2


内田さんが語る中華思想のまず第一の特徴は、それが「ナショナリズム」ではないということだった。内田さんは、なぜ「ナショナリズム」ではないことを強調したのだろうか。この帰結そのものは、内田さんが定義するイメージから引き出せる論理的な帰結であって、実際の中国の歴史を見て、事実から引き出した観察結果ではない。つまり、中華思想というものが中国の行動の中に中心的な位置を占めていた時代は、それが「ナショナリズム」として、国家の一体感を感じる人々が出てきたり、国家の利益のために一丸となったりするという現象が出てこないだろうということが予想できる。中華思想は「ナショナリズム」ではないのだから、「ナショナリズム」の発露のように見える行為が人々の間に生まれないということが、その時代の常識だっただろう。

最近の中国を見ていると、オリンピックの聖火リレーでの異様な盛り上がり方といい、「ナショナリズム」を感じさせるようなところがある。この事実の解釈に、それは中華思想が薄れて近代国家主義が浸透したために「ナショナリズム」の傾向が高まったのだとするものも考えられるだろう。中華思想が薄れたために「ナショナリズム」の傾向が高まったと見るのは、一つの論理的展開になるだろう。

また、中華思想が薄れたとはいえ、それがまだどこかに残っているなら、西欧的な近代国家としての「ナショナリズム」、たとえばナチス・ドイツに見られるようなものや、アジアの中で西欧に近い近代化を遂げた日本の軍国主義下での「ナショナリズム」とは、どこか性格が違うものが見られるのではないかとも考えられる。現代中国の「ナショナリズム」の、中国的特性を理解するのに、中華思想というメガネは有効性を持つように思う。内田さんの「ナショナリズムではない」という指摘も、このようなメガネとの関連で評価できるのではないかと思う。

佐佐木さんの「(3)中華思想から現代中国を見ることの<方法>論的問題点」の中には次のような「ナショナリズム」に関する記述がある。

「ここで内田氏が問題なのは、「中華思想は『ナショナリズム』ではない」という言い方がはからずも語っているのだが、中華思想に内在する「ナショナルなもの」を脱色させて「中華思想の本義」を論じようとしていることである。
中華思想を「中華」思想たらしめているのは、儒教をベースに生みだし熟成させた漢民族のドロドロとしたマグマの如く熱い「ナショナルなもの」なのであって、これを抜きにしては中華思想を正面から<全体的>に論じたことにならない。
ところが氏はこれを抜きにして、「儒教的世界」における「王土」「グレーゾーン」「化外の地」の形式を抜き出すことで、“「グレーゾーン」をまったく「気味悪がらない」中国人の体質発想法考え方”を提示し、それをもって日中関係、現代中国の政治的軍事的諸問題を照射せんとする。」


ここでは「ナショナリズム」と関連させて「ナショナルなもの」という言葉が使われているが、これは辞書的な意味で理解すれば、「民族的なもの」という理解になるだろう。これを「ナショナリズム」にも含めて解釈をすると内田さんの主張の受け取り方が難しくなる。内田さんが語る「ナショナリズム」にはこのような意味がまったく含まれていない。なぜなら、それは現代中国に見られる、近代国家としての「ナショナリズム」を理解するという目的で「ナショナリズム」という言葉を使っているからだ。

内田さんは『街場の中国論』の中で次のように「ナショナリズム」について語っている。

ナショナリズムというのは国境線の内側は原理的には均質的で、国境線の向こう側も原理的には均質的で、その一本の境界線のこっちとあっちでは、言語も人種も信教も習俗も、すべてが違うという考え方です。でも、この考え方は明らかにフィクションですね。現実には、そんなことあるはずないから。」


ナショナリズム」はフィクションであるから、事実として見られる民族的な特徴は、内田さんが語る「ナショナリズム」の中には入ってこない。このようなフィクションがなぜ生まれてくるかと言えば、近代国家主義の時代には、国家として行うべき大きな事業が発生したからだろうと考えられる。国民を総動員して一つにまとめ、一丸となって取り組まなければ大事業が発生したので、そのためにはこのようなフィクションとしての「ナショナリズム」が必要だったというわけだ。

この大きな事業の一つは、進歩した近代国家の進歩を押し付ける際に発生する衝突としての戦争だろう。この戦争では、進歩の押し付けの正義のためには、抵抗する人間を殺してもかまわないという正当化のイデオロギーが必要になる。このあたりの「ナショナリズム」理解を内田さんは次のように語っている。

「近代的な国民国家という概念が意味を持ち始めたのは、宗教戦争以降のことです。つまり、同じキリスト教徒同士でも、宗派が違えばのどを掻き切りあうのは「あり」だということについての社会的合意が成立してから後のことです。私とイデオロギーの違う人間は殺してもいい、という考え方が「非常識」ではなくなってから後の話です。」


ナショナリズム」が持っている<国民を一つにして総動員する>という効用は、内田さんが語る中華思想とは相容れないものだろう。内田さんが語る中華思想は、相手が中華思想に畏れ入って、それを尊敬して受け入れるなら内部に取り込むが、そこまで行かないようなら蛮族の「夷」として放っておくというものだった。国民が一丸となって相手に働きかけるという事業を起こす必要がなかった。

この部分の強調が「中華思想ナショナリズムではない」という指摘なのだろうと思う。この判断は、「中華思想」と「ナショナリズム」の概念に内在する論理的な判断だ。だから、うっかりすると概念をもてあそんでいるだけのご都合主義的なものに見えてくるかもしれない。だが、これは「中華思想」についての主張にうまくあうように「ナショナリズム」の定義を無理やり作ったのでもなければ、「ナショナリズム」の概念と結びつかないように「中華思想」の定義を解釈しなおしたものでもない。

それぞれ独立にその特性を考えて定義した内容に相容れない対立した面があったということで、肯定と否定が結びつく判断になったということだ。ある意味で矛盾した関係にあると言っていいだろうか。それは両立しないものなのだ。中華思想が大きな位置を占めている時は中国に「ナショナリズム」はない。それならば、今、中国に「ナショナリズム」があるように見えるのは、中国から中華思想が失われつつあるという解釈になるのではないだろうか。それはなぜ失われつつあるのか。

植民地主義の時代に、中国は植民地に「される方」であり、「する方」ではなかった。近代国家成立以後は、中国は武力に関しては負け組になってしまった。中華思想というのは、それによって統治がうまくいっていた時代というのは、「漢の文化が周縁の異民族の文化よりも圧倒的に高いということを自他ともに承認しているということが前提になっています」と内田さんは書いているような特性を持っている。そして、もしこの前提が崩れてしまうと、「中華思想は政治的にはまるで無力になる」とも書いている。

西欧の帝国主義国家は、中国の文化よりも、自分たちの進歩した科学技術のほうが優れていると思っていただろう。しかも、近代国家として国家という大きな単位が大きな力を持って戦争をしてくるのであるから、武力において中国を圧倒するであろうことも納得できる。そして、この「侵略された」という失敗の歴史が、中国を中華思想から近代国家主義の「ナショナリズム」へ向かわせたと解釈してもそこに無理はないのではないだろうか。

マル激の議論でも、アジア政治外交史が専門という、ある意味で中国専門家の平野さんも、中国のナショナリズムの高まりはアジアでいち早く近代化した日本の影響が、間接的ではあるが大きかったという議論を展開していた。日本は近代化したために国家の力が大きくなり、植民地化されることを避けられたという評価を中国はしたらしい。近代化こそが、屈辱的な植民地状態を脱してよりいっそうの進歩をするきっかけだと思ったのだろう。

この近代化に日本が成功したのは、富国強兵政策と軍国主義だったという勘違いがあったと平野さんは語っていた。この両方とも「ナショナリズム」によって効率的に国民に植え付けることが出来るものだったのではないだろうか。国家としての無力を克服する道として選んだのが「ナショナリズム」の効用という方向だったのではないかという解釈はある意味納得できるものでもある。

この「ナショナリズム」の植付けの過程で、中華思想は邪魔になるのではないかと感じる。「ナショナリズム」を強めるには、中華思想は薄めなければならないのではないかと思う。しかし中華思想の伝統は何千年という長きに渡っているので、今ではそれはすっかり見えなくなったのではないかと思われる現代中国でも、どこかに残っているのではないかという思いもする。現代中国の「ナショナリズム」というのは、対立する中華思想がどこかで影響しているかなりねじれた意識のもとにあるのかもしれない。

内田さんは『街場の中国論』の中で魯迅の「阿Q正伝」を例に出して、その主人公阿Qの中に、列強に侵略されながらも中華思想のもとで現実を見ないで、文化の高さがあることで、侵略してくる相手をむしろ軽蔑することによって精神の安定を保とうとする姿の滑稽さを見出している。これこそが、近代における中華思想の弱さを露呈する姿なのではないかということだ。

内田さんは、「『阿Q正伝』は日本人からすると、とても分かりにくい小説です」と語っている。その分かりにくさは次のように書かれている。

「僕が『阿Q正伝』を読んだときの違和感は、どうして中国の知識人がこの時期にこういうものを書かなければいけなかったのか、という歴史的な意味がよく分からなかったからなんです。こういう人物類型を造形して、それを批判することの意味なら分かります。だってろくなやつじゃないんですからね、阿Qくんは。でも、どうしてこんな人をわざわざ文学的に造形して批判しなければいけないのか、その緊急性というか必然性というのが僕には分からなかったんです。でも、今お話を聞いて、そういう人物類型が中国ではポピュラリティを持つということを知りました。「これでいいんだ」「これがいいんだ」というメンタリティが中国人の中に根付いている。だからこそ、魯迅はこれを否定しなければならないと考えた。そういう理路があるとは知りませんでした。」


この話をしたのは、中国からきて内田さんのゼミに参加している丁先生という人だそうだ。この話を聞くと、今でも中華思想は中国人の中に微妙な形で残っているのだということが分かる。

中国は、侵略された歴史から、近代化のために「ナショナリズム」を高めなければならないと思っているようだ。しかしそこには中華思想が微妙な影響を与えている。現代中国の「ナショナリズム」はかなり特殊なものなのかもしれない。その理解のために「ナショナリズムではない」中華思想の理解が役立つのではないか。だからこそ内田さんは、中華思想の話の中では、「ナショナリズムではない」という面を特に論じているのではないかと思う。