内田樹さんの分かりやすさ 1


僕が内田さんの文章に接した最初のものは、『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)という本だった。僕は、この本を読んで初めて「構造主義」というものがどういうものであるかという具体的イメージをつかむことが出来た。それまでは、三浦つとむさんの「構造主義者批判」を読んでいて、何となく「構造主義」は間違っているのかなあという感じを抱いていた。三浦さんは、構造主義者の言説を批判して、構造主義「者」を鋭く批判はしていたが、「構造主義」そのものの批判はなかったような気がしたからだ。

しかし「構造主義」そのものに間違いがあるのなら、しかもそれが簡単にわかるような間違いであれば、あれだけ多くの人を魅了して支持されたということが分からなくなる。「構造主義」に魅了された人々はすべて馬鹿だったということなのだろうか。僕にはそうは思えない。むしろその時代の最も優れた知性の持ち主たちが「構造主義」を支持していたようにも見える。

もちろん「構造主義」を細かく分析すれば、そこにいくつかの間違いはあるだろう。何から何まですべて正しい理論などというのはない。時代的な制約・地理的な制約などさまざまな制約のもとで人間が考えることに間違いがないということはあり得ない。そういう意味での間違いを批判するなら、「構造主義」も他の思想と同じように批判できるだろう。だが、そのような末梢的な批判ではなく、本質的にどこが優れていたのかということを僕は知りたいと思った。優れていたからこそ多くの人を魅了したのだと思った。

それを初めて納得させてくれたのが内田さんの『寝ながら学べる構造主義』という本だった。なるほど、このような考え方ならその正しさが納得できる、という説明の仕方で「構造主義」を語ってくれていた。内田さんは、自らをオリジナリティーの高い研究者ではないと語っている。むしろ内田さんが書くことは、すでに誰かが語っていることを言い換えているだけに過ぎないとも自ら語っている。これは、ある人にはたいしたことないものに見えるかもしれないが、僕にはとてもすばらしいことのように見える。誰かが語った真理は、それが真理であっても表現が難しくて、その真理性がうまく受け取れないことが多い。それを、内田さんは「なるほどこういうことか」ということが理解できたことを、自分が理解した道筋が伝わるように説明している。だから、オリジナルな誰かの表現よりも、内田さんが言い換えた表現のほうがずっと分かりやすくなるのだと思う。

内田さんが言い換えた表現が分かりやすいとしても、それが不当な単純化をしているものであれば、分かりやすい代わりに曖昧さが生じて、時に間違いにはまり込んでしまうことが起こる可能性がある。そのような間違いに流れずに、複雑で難しい真理を、複雑な構造のままに分かりやすくしていると僕には感じるので内田さんの文章がとても分かりやすいと思えるのだろう。『寝ながら学べる構造主義』の中から、内田さんが言い換えた説明を抜き出し、それが何故分かりやすくなっているかを考えてみようと思う。その仕組みがつかめたら、それはきっと教育という営みに役立つことになるだろう。

さて、最初に取り上げる説明は「ポスト構造主義の時代」という言葉の説明だ。内田さんは、これを次のように語る。

「「ポスト構造主義」ということは、「構造主義が支配的な、あるいは有効な形式である時代は終わった」ということなのでしょうか。
 私はそう思いません。
ポスト構造主義期」というのは、構造主義の思考方法があまりに深く私たちのものの考え方や感じ方の中に浸透してしまったために、改めて構造主義者の書物を読んだり、その思想を勉強したりしなくても、その発想方法そのものが私たちにとって「自明なもの」になってしまった時代(そして、いささか気ぜわしい人たちが「構造主義の終焉」を語り始めた時代)だというふうに私は考えています。」


ポスト構造主義」を辞書的に解釈すれば「ポスト」という言葉が「以後」という日本語に重なるので、「構造主義」は終わったと解釈したくなる。しかし、それは実際に終わったのではなく、人々の気分の中で終わったと感じている状態を指したほうがいいという指摘だ。それは、特に意識しなくても常識化してしまった考えなら、ことさら構造主義という言葉を言い立てなくてもすむようになっているので、構造主義を主張する時代は終わったなと感じる人が多いだろうからだ。なるほどこれなら納得できる。

内田さんは「構造主義」そのものについても実に分かりやすい説明をしている。「構造主義」も、それを辞書的に解釈すれば、存在するものの「構造」に注目してそれを理解する考え方というような感じがしてくる。しかし、「構造主義」がそのような辞書的な意味にとどまるなら、わざわざ「構造主義」と呼んで、さまざまな対象の解析に使うツールとして利用できるような感じがしない。そういうことは数学の世界では昔から行われていたので、すべての対象を数学的に解釈してしまえば「構造」に注目することは出来てしまう。

しかし、すべてを数学として見るメガネというのは、具体性を捨象して、抽象的な・ある属性だけを持っている存在を設定して、その属性だけが成立する世界を分析することを意味する。これは「構造」を見るには便利なやり方だが、高度に抽象化された対象は、時には現実との関係が切れてしまう。つまり、対象を数学的に扱うだけでは現実に有効な解析にはならない。もし「構造主義」が、すべてを数学化してしまうような考えなら、それは現実を無視した妄想だと批判されても仕方がないだろう。「構造主義者」の中には、そのような勘違いをしていたものもいたかもしれない。それが三浦さんに批判されたのではないかと思う。だが、「構造主義」がそのようなものではなく、別の側面を持っていたら、それは現実に対して有効性を持つかもしれない。その別の側面を、内田さんは次のように説明して教えてくれる。

構造主義というのは、ひとことで言ってしまえば、次のような考え方のことです。
 私たちは常にある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。」


この説明の中には「構造」という言葉はどこにもない。「構造主義」は、「構造」について直接何か語ることではなかったのだ。問題は、我々が「自由ではない」ということを指摘することだったのだ。何ゆえ自由ではないのか。それは時代・地域・社会集団などの制約があるからだ。その時代・地域・社会集団では、疑いようのない自明な前提というものがある。その中では、すべての論理はその前提から出発するしかない。だから我々の思考はその前提に縛られて、ほかの前提を置いて論理を展開することが出来ない。これが我々が自由にものを考えられない理由になっている。

この我々の「自由な思考」を制約するものとして、時代が持つ「構造」、地域が持つ「構造」、社会集団が持つ「構造」が問題になってくる。我々の自由な思考を制約するものとして「構造」に注目するということが「構造主義」の真髄ではないかと僕は理解した。このような発想ならそれは役に立つだろうということも納得できる。

我々が制約された不自由な思考をしている時は、ある種の問題に対してどうしても解答が得られないことがあるだろう。我々が縛られている前提からはどうしても帰結しない論理的な結論が、現実には起こってしまっているというパラドックス状況が見られるということは良くあるのではないかと思う。

かつてはこうだったのに、今ではなぜそうならないのだろうかという問題はたくさんあるのではないだろうか。昭和30年代がブームになった時は、その頃は人々は人情が厚く、連帯感を持って生活していた、と考える人が多かっただろう。そして、今はなぜそうならないのだろうかという思いを抱いている人は、昭和30年代を知っている人には多いだろう。それは、時代の「構造」が違うのではないかと、「構造」に注目して思考する発想が「構造主義」ということになるのではないだろうか。昭和30年代は、我々は特に意識することなく、人情の心地よさの中に浸っていられた。それはどのような社会構造があったからだろうか。そのような発想が「構造主義」になるのではないだろうか。

構造主義」は発想法として役に立つと思う。しかしそれはあくまでも発想法なので、なかなか解答が得られない、自由な思考が展開しにくい問題で、違う発想で論理を展開したいというときに役立てるものだろう。なんでもかんでも「構造主義」を適用すれば役に立つというものではないだろうと思う。いつでも「構造主義」的に考えればよいのだという考えでは、発想法とも呼べない単純な思考になってしまうだろう。単純な思考では複雑な存在を理解することは出来ない。発想法は、それを適用するにふさわしい対象に使ったときに、もっとも大きな成果を生む。そうでない対象について発想法を適用すれば、それはとんでもないでたらめな結論を導く恐れすらある。

同じ発想法として弁証法というものもあるが、これの機械的適用が間違っているのは三浦さんがよく指摘していたことだ。弁証法の発想は、「構造主義」の発想をさらに抽象度を高めているように僕は感じる。弁証法の発想は、視点を変えるということが最も大きなものになる。人間は全体をいっぺんにつかむことが出来ない。部分を認識して、それを総合して全体像を作るしかない。だから、今まで見ていなかったところからものを見れば、それは違う見え方をする。視点を変えれば違うものが見える。それは最初の考え方とまったく対立するものが見えるかもしれない。そこから思考をスタートさせようというのが弁証法の発想だ。

視点を変えるという弁証法の発想は「構造主義」の発想の中にも似たものがある。内田さんは、「世界の見え方は、視点が違えば違う。だから、ある視点にとどまったままで「私には、他の人よりも正しく世界が見えている」と主張することは論理的には基礎付けられない」と書いている。これも「構造主義」の発想から出てくる考え方だ。弁証法の場合に視点をずらすのは、自分の立ち位置を変えることを意味するが、「構造主義」の場合の視点のずらし方は、人間の思考を支配している「構造」を別のものに入れ替えることで、別の「構造」の中の視点としてそれをずらすという感じがする。

構造主義」を発想法として捉えれば、それは弁証法の場合と同じように、行き詰まった思考の展開を打破するような可能性をもたらす有効性があるだろう。そのような意味では、「構造主義」そのものには何らまずいところはないような気がする。まずいところが出るとすれば、弁証法の失敗と同様に、その適用の仕方を間違えたときに弊害が出てくるということだろう。それを適用するにふさわしい対象に適用していれば問題はない。適用するにふさわしくない対象に発想法を押し付けたときに、それは無理な論理展開を導く間違いにつながるのではないかと思う。

僕は、「構造主義」を、このような発想法として理解したとき、それが優れている面を理解できたと思った。多くの優れた知性が、「構造主義」を支持したことの理由も納得できた。この発想法を使えば、今まで解決できなかった、さまざまな制約のもとにあった思考を越えることが出来たのではないかと思う。このような概念は、もしかしたら「構造主義」の専門家の間では常識だったのかもしれないが、僕は内田さんの文章で、初めてこのような考え方を目にした。素人への解説者として、内田さんはとても優れた教育者だと思う。