内田樹さんの分かりやすさ 2


内田さんの『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)の中から、なるほどそのとおりだと思えるような説明を抜き出して、それがどうして分かりやすいのかということを考えてみようと思う。

内田さんは第1章で構造主義に先行する思想史を作った巨人として、マルクスフロイトニーチェについて書いている。このうち、フロイトを語った部分での「抑圧」という用語の説明が実に分かりやすかった。「抑圧」という言葉を辞書的に解釈すれば、「抑制し圧迫すること。むりやりおさえつけること」と書かれている。だが、この概念ではフロイト的な「抑圧」を理解することが出来ない。

フロイトが語る「抑圧」とはあくまでも「無意識」という心の領域の働きのメカニズムとして提出されている。この辞書的な解釈では、「無意識」の働きで起こっているのではなく、自分で自覚して「無理やり押さえつける」ということをしているように受け取れる。この「抑圧」は無意識の「抑圧」ではなく、自覚的な有意識の「抑圧」になってしまう。

辞書的な意味を心理学的なものに拡張しても、それは「心理学で、不快な観念や表象・記憶などを無意識のうちに押し込めて意識しないようにすること」と書かれているだけだ。これは「無意識」を考慮した概念のように見えないこともないが、よく考えるとおかしいところがある。「押し込めて意識しないようにすること」は、「意識しないようにする」ことを意識してしまうのではないだろうか。「無意識」というのは、このようなことが自覚できない、自分には決して分からないからこそ「無意識」だと呼ばれるのではないだろうか。

フロイト的な無意識の作用による「抑圧」は、この言葉だけを眺めていたのでは概念をつかむことが出来ない。この「抑圧」がどのような現象のときに現れるのか。そしてその現れた現象の本質がどこにあるのか。それを理解したときに初めて、フロイトが語った「抑圧」の意味が見えてくる。内田さんの「抑圧」の説明は、このようなことがよく分かる見事な説明となっている。

内田さんは、まずフロイトの「無意識」というものを「当人には直接知られず、にもかかわらずその人の判断や行動を支配しているもの」と定義する。ポイントになるのは、本人はそれを知らないから、どうしてそのような判断をしたのか・どうしてそのような行動をしたのかを知りえないということだ。これは、本人には分からないのだが、周りにいる人間はその判断を示す行動から容易に推測できることが多い。「無意識」というのはそういう対象になっている。他者(他人)にはよく分かるが、本人には分からない自分の心の中ということになるだろうか。

さて、この「無意識」が心の中で「抑圧」をするとなれば、それはどのようなメカニズムを持っているだろう。それは心の中の二つの部屋(無意識の部屋と意識化できることの部屋)の間にいる番人の比喩で語られている。これは内田さんのオリジナルではなく、フロイト自身が考えていたもののようだ。この番人は、心の中に起こってくるいろいろな現象を、意識化するか「無意識」の中に止めて知らないままにしておくかを判断している。意識化したものは自覚されて自分にも分かるものになる。だが「無意識」にとどまるものは決して自分には知られない。番人はこのような仕事をしているのだが、この番人がどのように動いているかを自分は知らない。自分ではコントロールできないのだ。

この番人は、意識化すると苦痛になるような心的状況は「無意識」の中に押し込めておこうとする。これがフロイト的な「抑圧」になる。押し込めておくのは自分ではない。この番人がやるのである。そして、この番人の働きを自分が知ることがないという意味で、これは「無意識」の働きであると考えられる。

このフロイト的な「抑圧」の意味は、言葉としては上のように概念化される。これをさらに内田さんは、狂言の『ぶす』という話で、そこに登場する人物の心的状況を説明することでより具体的にイメージできるように解説する。この具体的イメージがつかめることで、「抑圧」という概念は、ただ意味を知っているだけではなく、現実の中に「抑圧」を発見して、それがどのような作用をしているかという現実理解のために役立てることが出来るようになる。

『ぶす』という話がどのようなものであるかを内田さんの本からちょっと引用しておこう。

「主人が、太郎冠者と次郎冠者に貴重品である砂糖つぼを委ねて外出することになります。留守中に盗み食いをされてはたまらないので、主人は二人にこれは「ぶす」というたいへんな毒物であるから、決して近づかぬようにと釘を刺して出かけます。
 最初は「ぶす」のほうから吹く風にも怯えていた二人ですが、やがて好奇心に負けて「ぶす」のふたを開けてしまいます。そこから漂う芳香につられて、口のいやしい太郎冠者は制止も聞かず「ぶす」をなめてしまいます。そして「ぶす」が砂糖であることを発見します。二人でぺろぺろなめているうちに砂糖つぼは空になってしまいます。
 始末に窮した太郎冠者は一計を案じ、二人で主人秘蔵の掛け軸を破り、皿を砕くことにしました。
 帰宅して散乱した家の中を見て唖然とする主人に、太郎冠者はこう説明します。
「お留守の間に眠ってはいけないと、次郎冠者と相撲をとっておりましたら、勢いあまって、あのように家宝の品々を壊してしまいました。これではご主人に合わせる顔がない、二人で『ぶす』を食べて死んでお詫びを、と思ったのですが、いくら食べても、さっぱり死ねず……」」


この物語は、知っている人も多いだろうが、ここに登場する太郎冠者の心の働きの中に「抑圧」という現象を見つけることが出来ると内田さんは言う。しかし、これは「抑圧」という概念を言葉の定義だけで理解している間はなかなか発見できないだろう。太郎冠者の「無意識」の番人は、いったい何が意識化しないように、「無意識」の部屋に押し込めて「抑圧」をしているのだろうか。

物語に登場する太郎冠者は非常に頭のいい人間で、主人が禁止した「ぶす」に近づくなということを破った言い訳が成立するような工夫をしている。しかも主人が「ぶす」は毒だといった嘘を逆手にとって、責任の半分は主人にもあるのだというような理屈を立てるような工夫をしている。論理の流れとしては次のようになるだろうか。

      眠ってはいけない
        ↓
  だから、相撲をとって眠らないようにした
        ↓
  そのため、家宝の品々を壊してしまった
        ↓
  だから、死んでお詫びをしようとした
        ↓
  そのために、毒である「ぶす」をなめた

論理の流れとして、こじつけを感じるところがあるものの、一応言い訳の理屈としては成立するようなものになっている。太郎冠者は、このように論理的な理屈を構築できるような頭のいい人間だということがわかる。逆に言えば、素直に謝るような善良な人間ではなく、口からでまかせを言っても言い逃れようとする邪悪な人間だということでもある。

太郎冠者は、この計略が主人に見破られるだろうということは少しも考えていない。それは、自分のほうが主人よりも頭がいいと思っているからだ。そしてそれはたぶんそのとおりだろう。頭のよさでは主人よりも太郎冠者のほうが上のような気がする。

だが主人は、帰宅してその惨状を見て直ちに太郎冠者が嘘をついていることを見破ってしまった。これは主人の頭のよさが太郎冠者を上回っていることによって見破ったのではない。太郎冠者がいかに頭がよくても、その判断から抜け落ちたもの(「抑圧」されて意識に上らなかったこと)が、主人に嘘が見破られるということをまったく考えなくしてしまったというのが、「抑圧」のメカニズムがここに見られるということだと内田さんは説明する。

太郎冠者が「抑圧」していたものは何だったのか。それは「太郎冠者が嘘つきの不忠者である」という邪悪な性格の持ち主だということを「主人は知っている」ことだと内田さんは指摘する。主人は、論理的な判断から太郎冠者の嘘を見破ったのではなく、太郎患者がそのような邪悪な正確の持ち主だと知っていたので、直ちに「ぶす」をなめた言い訳で嘘を言っているのだと判断したのだった。

実は、太郎冠者が邪悪な性格だということは、主人だけではなく他者(他人)はみんな知っているのだった。太郎冠者だけが、「みんながそれを知っている」ということを知らなかったのだ。それは、単にうっかり分からなかっただけというのではなく、「無意識」の働きとして、知ろうとしないことに最大の努力を傾けて知らないままにしているのだと考えるのが「抑圧」というメカニズムの、現実解釈において役立つところだ。内田さんはこれを「構造的無知」と呼んでいる。それは「構造的」なものだから、自分の努力だけで無知を克服して知識化することが出来ない。このあたりのことを内田さんの言葉を引用すれば、次のようになるだろう。

「この無知は太郎冠者の観察力不足や不注意が原因で生じたのではありません。そうではなくて、太郎冠者はほとんど全力を尽くして、この無知を作り出し、それを死守しているのです。無知でありつづけることを太郎冠者は切実に欲望しているのです。」


この「抑圧」と「構造的無知」は、太郎患者がなぜ邪悪な性格を持ちつづけるかということの理由も納得させてくれる。内田さんは、「誰だって自分の邪悪な側面が「みんなに筒抜け」であると知っていたら、それを隠すか治すか、何とかしますから」と語っているが、「無意識」への「抑圧」がなく、自らの邪悪さを自覚した人間は、それから逃れることが出来るのだというは、確かにそのとおりだろうと思う。「抑圧」があり、「構造的無知」があるからこそ邪悪さを持ちつづけることも出来るのだ。

悪役俳優には、実は人間的にはいい人が多いのだということを聞いたことがある。これは、邪悪な人間を演じることによって、邪悪さというものが強く意識化されるからではないかと思う。邪悪さを意識化した人間は、もはや邪悪さの中にとどまることが出来ないのではないかと思う。

逆に、自らの有能さや正義を疑わない人間は、邪悪さを「抑圧」する方向に向かうのではないかと思う。頭のいい有能な人間が、しばしば人格的には最低ではないかと思えるような行動をとるのは、この「抑圧」のメカニズムで解釈するとなるほどと思えるようなものが発見できるかもしれない。

正義感についてもそのような現象が見られる。自分が絶対的に正義であるという位置にいると思っている人間は、その正義感で他者(他人)を攻撃し、結果的には不当ないじめをしているのと同じような行動をとっていてもそれが分からない。むしろ自分は正義を実現するよいことをしていると思っている人間が多い。僕が出合った差別糾弾主義者はたいていそのように見えた。その言い方はあまりにひどいんじゃないかという批判をすると、彼らは正義を否定されたと思うだけで、自らの邪悪な面を自覚することは出来なかった。

「抑圧」概念は、人間の邪悪さを理解し自覚することに役立つ。そして、邪悪さは自覚したときにようやくそれを乗り越えることが出来るものだろう。自らの邪悪さを自覚するために、「抑圧」概念を役立てたいものだと思う。