秋葉原の事件を「テロ」と受け止める感性


今週のマル激では、東浩紀氏(批評家・東京工業大学世界文明センター特任教授)をゲストに迎え、秋葉原で起こった「通り魔事件」に関して議論をしていた。東氏はこの事件を「テロ」という言葉で表現していた。これは僕には見えていなかった視点だったが、東氏の話を聞くと、確かにこれは「テロ」だと思えるような特徴を持っていると感じた。

東氏は、この事件の加害者である青年を擁護する気はまったくなく、このような残虐な犯罪は厳しく裁かれなければならないということを前提にして、その上でこの事件が社会に発しているメッセージを正しく読み取らなければならないということを主張しているように感じた。そうでなければ、この事件に対処するようなさまざまな措置が、まったく感情に応えるだけの的外れな実効性のない対処になってしまうのではないかと言っているように聞こえた。

しかしこの事件を「テロ」だと受け止める感性は、なかなか難しいものも感じる。僕自身も、最初はそのような感覚をほとんど持たなかった。悲惨で衝撃的な事実そのものに驚いてしまったということもあるが、多くの新聞記事や社説に語られているように、加害者の青年の生い立ちや、派遣社員としての生活の悲惨さ、希望のない毎日の生活で生まれてくる絶望感などから、何とかうまく理屈が成り立つような受け止め方をしようと思っていた。何がなんだか分からないけれどあのようなことが起こってしまったという理解ではなく、しかるべき理由があってあのようなことが起こったのだと理解したいと思っていた。

このような理解において「テロ」だという観点は、訳の分からないところはそのまま訳の分からないものとして受け止めて、それが最も悲惨な形であらわれてしまったところに注目すべきだと語っているように感じる。彼があのような行動に至ってしまった具体性というのは、さまざまな要素が絡み合って複雑化しているために決して解答が得られない問いになってしまうのではないだろうか。もし解答が得られるとしたら、そのような「テロ」という行為に至る人間が出現してしまう構造が今の日本社会にあるのだということなのではないだろうか。

「テロ」という言葉のイメージは、イスラム自爆テロ911での飛行機でビルへ飛び込むというようなものを思い描くことが多いだろう。このような「テロ」に対して、秋葉原の事件を同じように「テロ」と呼ぶことには最初は違和感があった。東氏も「絶望映す身勝手な「テロ」 秋葉原事件で東浩紀氏寄稿」という朝日新聞の記事で次のように語っている。

「筆者はいま「テロ」という言葉を使った。多くの読者は違和感をもつだろう。テロといえば普通は、何らかの政治的主張を伴った、強い信念のもとでの行動を意味する。今回の凶行にそんな主張があったのか、と。」


加害者の青年の主張は、そこに政治的な内容を読み取ることが出来ない。だからその意味では「テロ」と呼ぶことに違和感を感じてしまう。しかし、「テロ」行為をする人々のことを考えてみると、彼らの主張に誰も耳を傾けず、しかも何らかの意味で迫害をされているという怒りに包まれているとしたら、その怒りだけはこれほど強いのだということを知らせるために「テロ」を行うのだと理解することも出来る。このような「テロ」においては怒りの表出が重要なことであって、何をするかという行為そのものにはあまり意味はないという解釈も出来る。

このような「テロ」に対しては、アメリカが行っているように、断固とした厳しい対応をするという対処のしかたもある。しかし、このような対応は、強い怒りのもとになるような構造が残ったままであれば、「テロ」行為を誘発する温床は残ったままになる。「テロ」は憎むべき凶悪犯罪ではあるけれど、それしかアピールする手段を持たないとしたら、どれほど厳しい取締りを行っても「テロ」に情熱を傾ける人間は存在しつづけるだろう。

「テロ」は断固とした武力弾圧だけではなくならないというのは、これまでの「テロ」の歴史において示されている。しかし、「テロ」を発生させるような社会的な怨念を手当てするにしても、「テロ」の発生の後にそれをするというような後手に回れば、「テロ」をすれば何かが変わるのだというメッセージを発することにもなってしまう。従って、そのような対処の仕方ではまた「テロ」を誘発してしまう可能性を生む。「テロ」への対処はまことに難しい。この意味では、事件直後に派遣法の見直しなどがすぐ出てくる政治情勢というのは、「テロ」に屈した姿のように見え、「テロ」が成功したかのように感じてしまうという批判を宮台真司氏は語っていた。

このような事件が起こる前に、すでに派遣法の問題は多くの人が指摘していたのだから、その時点で政治的に修正をすべきだというのが宮台氏の主張だと思う。東氏は、「若い世代のあいだでは、日本社会への絶望や不満が急速に高まっていた」と指摘し、「若者の多くが怒っており」と言っている。その怒りがこのような事件につながるかもしれないという危惧も抱いていて、「ついに起きたか」というような第一印象をもっていたという。よくよく考えれば、「テロ」が起こる前に問題は指摘されていたのだと考えられる。今回は「テロ」が起こってしまって後手に回ってしまったが、この「テロ」を教訓にするなら、「テロ」が発生する前に問題の解決を図らなければならないという反省をしなければならないだろうと思う。

この事件を「テロ」だと語った東氏の主張が正しいと思えたのは、朝日の記事で語られていた次の言葉を読んだときだ。

「しかし、逮捕後の調べのなかで、容疑者が職場への怒りや世間からの疎外感を長期的に募らせたうえで、計画的に凶行に及んだことが徐々に明らかになってきている。そこに窺(うかが)えるのは、未熟なオタク青年が「逆ギレ」を起こし刃物を振り回したといった単純な話ではなく、むしろ、社会全体に対する空恐ろしいまでの絶望と怒りである。不安定な雇用に悩んでいたという報道もある。」


ここで東氏が語っている「未熟なオタク青年が「逆ギレ」を起こし刃物を振り回したといった単純な話」というのが、実は多くの新聞報道や社説などで語られていた内容ではないかと感じる。その内容がまったく理解できない理不尽なものだっただけに、加害青年がそのような凶悪な人間だったのだと思いたくなる気持のほうが強くなるのではないかとも感じる。しかし、このような理解では、この問題の解決は出来ないのではないだろうか。「むしろ、社会全体に対する空恐ろしいまでの絶望と怒り」というものをこそ見なければならないという指摘は、まったくそのとおりではないかと思える。

僕はこの加害青年に共感は出来ないし、個人的な感情として彼がどんなことを思っていたかというのを実感として理解することは出来ないのではないかとも感じる。しかし、今の社会構造が、これほど絶望的な怒りを生み出すものかということは、考えることが出来るし理解可能ではないかとも思う。その上でも、自らの人生と直接の関係を持たない人々を無差別に殺傷するような行動にまで怒りの矛先が向くようなことはしないで欲しいとは思う。その怒りは、しかるべき相手にこそ向けて欲しいと思う。だが、そのような表現方法を持たない絶望的な人には、感情の表出をすることのほうが大事だと思い込んでいれば、なかなかその願いは届かないだろう。しかしそれでも、彼も苦しかったのだろうが、その苦しみを表出するために、他の人間をもっと苦しめるのはためらって欲しいと切に思う。

この事件の残虐さに衝撃を受けて、加害青年の残虐さにのみ注目するのは、この事件に現れたメッセージを読み誤るのではないかと思う。そのメッセージを正しく読み取ることが大事だと東氏は主張しているように感じる。これは、加害青年のことをもっとよく理解するということにつながるのだが、それによって加害青年を擁護したり共感することと同じになるのではない。犯罪は犯罪として厳しく対処しなければならないと思う。東氏も次のように語っている。

「容疑者はむろん厳罰に処すべきである。犯罪の計画性と残虐性は明らかであり、情状酌量の余地はない。また、このような事件は二度と起きてはならず、容疑者を英雄視することは許されない。ネットの一部では共感の声が現れているが、それこそ幼稚と言うべきだ。」


この指摘と、加害青年のことをよく理解するということとを両立させることの難しさが、この事件を「テロ」と理解することの難しさにもつながっているのかもしれない。この事件を「テロ」だと受け止めるなら、これは社会の構造の問題なのだと考えなければならない。単に凶悪な人間が凶悪な犯罪をやったというような理解ではすまないのだ。我々の社会は、このような凶悪な犯罪によって表出を行うような可能性をある種の人々の中に作り出す要素を持っているのだ。それは決して特別な「誰か」ではない。境遇によっては、誰にでもそのような可能性が生じうる。だからこそ社会の問題として、我々のすべてがその事を考える価値があるのだと思う。

東氏の次の結びの言葉は、この事件に対する我々の姿勢をどうとるかという点で、非常に有益なアドバイスになっているのではないかと思う。そう思うから、僕は最初の印象とは違って、東氏の言説を聞いた後では、この事件をはっきりと「テロ」であると思えるようになったと感じる。

「しかし、テロリストを厳正に処罰することと、テロが生み出される背景を無視することは異なる。私たちは彼のような「幼稚なテロリスト」を不可避的に生み出す社会に生きている。犠牲者の冥福のためにも、その意味をこそ真剣に考えねばならない。」


加害青年のような人々が、自爆的なテロリストにならずに、その思いを適正に表出できるような、宮台氏の言葉でいえば「表現」出来るような社会を築きたいと思う。絶望感が、孤立的な絶望感にならずに、どのようにすれば思い止まるきっかけをつかめるようになれるか。我々の社会は、そのようなものを作り出していく必要があるのではないか。しかしそれはかなり難しい。教育はそのようなものに大きな貢献をしなければならないのだが、教育現場そのものが、そのような包摂性から遠ざかっているようにも感じてしまうからだ。我々自身が絶望してはいけないのだが、そのような絶望感も湧き上がってくる。何とかモチベーションを高めていきたいという願いだけは棄てないようにしたい。