内田樹さんの分かりやすさ 4


内田樹さんによって僕はソシュールの再評価をするきっかけをつかんだのだが、これは内田さんがソシュールの専門家ではなかったからそのような問題意識で内田さんの文章を読むことが出来たのではないかと感じる。ソシュールの専門家というのは、すでにソシュールに対して高い評価をしている人間なので、何でことさらソシュールを再評価するような優れた面を提出する必要があるのか、という前提を持ってソシュールについて書いているのではないだろうか。

また、ソシュールに対して批判的な人は、もちろん再評価するようなところではなく、批判したい面について書くだろう。内田さんは、ソシュールの専門家ではないからこそ、ソシュールに批判すべき欠点があろうとも総合的に見て思想史に影響を与えた優れた面を拾い出すことが出来るのではないだろうか。

内田さんは『街場のアメリカ論』の「まえがき」の中で次のようなことを書いている。

「私はもともと仏文学者であって(今ではその名乗りもかなり怪しいが)、アメリカ史にもアメリカ政治にもアメリカ文化にもまったくの門外漢である。非専門家であるがゆえに、どのような法外な仮説を立てて検証しようとも、誰からも「学者としていかがなものか」という隠微な(あるいは明確な)圧力をかけられる心配がない(そのような禁制の届かない存在を「素人」と言うのである)。この立場はアメリカを論じる場合には、単に「気楽」というのを超えて、積極的に有利な立ち位置ではないかと思い至ったのである。
 私の仮説は、日米関係の本質は現実の水準ではなく、欲望の水準で展開しているというものである。
「日本人はどのようにアメリカを欲望しているのか?」これが、私の研究(というほどのものでもないが)の中心的な関心である。
 だが、この問いは「アメリカ問題専門家」にとってはもっとも意識化しにくい問いの一つではなかろうか。当然ながら、「アメリカ問題専門家」は、彼がその職業を選んだという当の事実によって、すでにアメリカを欲望しているからである。彼らが「アメリカ問題専門家」であること自体が彼らのアメリカに対する欲望の効果なのである。」


ここに語られている「素人」の優れた面というのは、仮説実験授業において、しばしばあまり知識のない生徒の方がかえって最も難しい問題に正解を出せるという事実につながるものだ。中途半端に知識があると、本質的なものよりも末梢的な知識のほうが気になって、複雑な問題の解答が出せなくなる。しかし、知識のない生徒は、そこで迷わせるような知識がないために、かえって本質に近づけるということがある。「素人」は完全な正解を提出することは出来ないが、最も難しい問題で正解に近づくきっかけを与えることがある。これが「素人」の優れた面ではないかと思う。

さて、内田さんの語るソシュールは、専門家も同じようなことを語っているかもしれないが、専門家が語る内容は、あまりにも多くの知識を前提として語るために、ソシュールが優れている本質を浮かび上がらせてくれていないような気がする。内田さんは、そのような面が「素人」にも分かるように語っているのではないかと感じる。ここが内田さんの文章が持つ分かりやすさの一つではないかと思う。

「言葉はものの名前ではない」というソシュールの指摘は、僕にはとてもすばらしいことのように見えるのだが、問題意識が違えばそうは見えないのではないかと思う。むしろソシュールは間違った主張をしているのではないかと感じる人もいるのではないだろうか。

高度な言語コミュニケーションの中で生まれ・育つ現代人にとって、言葉は教えられるものであって自ら作り出し・発見したりするものではない。教えられる言葉はすでに存在しているものだから、その言葉を「知らなかったら」それがどのように語られるかを「教えてもらう」ものになる。つまり、ものの名前を知らなければ、その名前を教えてもらうのが普通の経験になる。この経験は、「言葉はものの名前である」ということを繰り返し肯定することになるのではないかと思う。

「言葉はものの名前ではない」という発想は、言葉を教えられるという前提のもとでの考察ではなく、言葉が生まれてきたときのことを想像しての判断になると僕は思う。内田さんは、「「まだ名前を持たない」で、アダムに名前をつけられるのを待っている「もの」は、実在していると言えるのでしょうか」という問いを投げかけている。

これは、ものに名前をつけるという行為を、旧約聖書に語られているアダムの行為を例にして考えていることに関連させて提出された問いだ。アダムの前に登場した動物たちは、それまでは名前がなかったが、アダムが名付けることによって名前を持つことになった。この動物たちが、アダムに知られる前には果たして「実在」していただろうかという問いをここでは投げかけている。

これは唯物論の立場からいえば間違った問題提起ということになるだろうか。人間が意識をしていなくても、それが存在することが確認できるものであれば、意識していない間だって存在していたと考えなければならない。人間が意識したとたんに存在が生じると考えれば、それは観念論的妄想と言われるだろう。この問題提起を、ものは、人間が意識したとたんに存在を始めるのだと受け取れば観念論的妄想になるが、そうではない受け取り方をすれば、「実在」という現象をどう捉えるか・どう解釈するかという「実在」の定義につながってくるのではないかと思う。

実在が確認できるものであれば、それは人間が確認する以前から物質的な存在としてあったはずだという唯物論の主張は正当だと思う。しかし、永久に確認できない対象は、「確認できれば、それは確認する前から存在していた」という仮言命題の前件を満たすことがない。したがって、論理的にはそのようなものの存在が「確認する前からあった」とは言えなくなる。永久に分からないというしかないだろう。

我々に知られたものは、知られた後になれば、その存在が前からあったのだという議論が出来るだろう。しかし、知られる前はそのような議論は出来ない。だから、「アダムに名前をつけられるのを待っている「もの」」は実在しているかどうかという議論が出来ない対象になるのではないかと思う。果たしてこのようなものも「実在している」と言っていいものかどうか。「実在」という言葉をそのように使ってもいいのか、というのが内田さんの問題提起ではないだろうか。

内田さんの問いは、認識したとたんに存在が始まるという答につながるものではない。それはむしろ次のように語られる。

「言語活動とは「すでに分節されたもの」に名を与えるのではなく、満天の星を星座に分かつように、非定型的で星雲状の世界に切り分ける作業そのものなのです。ある観念があらかじめ存在し、それに名前がつくのではなく、名前がつくことで、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになるのです。」


これは物質的存在が観念によって生み出されるという主張ではない。名前をつけることによって、その物質的存在は人間の思考の対象として、我々の観念の中に存在を始めるという主張だ。それまでは名前がなかった、つまり知られていなかったのだから、それは我々の観念の中には「実在」していなかった。このような使い方をするのが「実在」という言葉の正しい使い方になるのではないかという問題提起ではないかと僕は受け取った。

内田さんは「「ことば」と「もの」は同時に誕生する」ということも書いているが、これは言い換えれば、「もの」を「ことば」にすることによって、われわれはその「もの」を思考の対象にし、論理的思考が出来るようになるという主張ではないかと思う。この主張は僕には整合的なもののように思われる。

内田さんが語った主張がソシュールが主張したことでもあれば、それは一見観念論的妄想に見える。そう見えれば、ソシュール唯物論の立場から批判されるということもあるだろう。だが、上のように解釈すれば、その主張は観念論的妄想ではなく、論理的な整合性を持っているものだと思う。

内田さんの主張(=ソシュールの主張)が、現実をよく反映していると思えるような例も見つかる。それは外国語の意味の幅が日本語とは違うというような事実だ。英語では devilfish という言葉があるそうだ。直訳すれば「悪魔の魚」とでも呼べるものだろうか。しかし、この言葉は直訳だけではどんなものかさっぱり分からないだろう。いったい何が「悪魔」なのか。

これは実際には「エイ」と「タコ」を指す言葉だそうだ。日本語では、この両者を「悪魔」と呼んで忌み嫌う習慣はない。もし日本人が devilfish という言葉を知らなかったら、「悪魔の魚」は永久に知られない存在になり、日本人には決して「実在」にはならなかったのではないかと思う。だが devilfish という言葉を知ったとたんに、この存在は日本人の思考の対象に入り込み、「実在」としての資格を獲得する。それまでは「実在」していなかったが、名前をつけると同時に「実在」を始めたと言えるのではないだろうか。

人間は言葉を使って思考活動をする。そして、その言葉が適切に対象を捉えている(つまり適切な概念化が出来ている)のなら、その思考活動(論理展開)も有効性を持つものになる。適切な言葉を生み出すことが、適切な深い論理的思考を生み出すことにも通じる。上で考えた「実在」という言葉なども、その概念化を詳しく考えると、それによって今まで気づかなかった面を思考出来るようになる。単純な唯物論的理解にとどまるのではなく、一見観念論的妄想に見えるかもしれないが、実は現実を深く捉えているという思考が展開できるようになる。

概念を深めることで人間の思考も深まる。言葉が人間の思考に与える影響を捉えた、このような考え方がソシュール言語学であるなら、ソシュール言語学は「表現」よりもむしろ「思考」の分析に威力を発揮する言語学になるのではないかと思う。

構造主義的な言語学では、ある特定の母国語を使うことによって、その言葉の影響が人間の思考をも支配するという主張がある。母国語の構造によって人間の思考は影響されるので、人間は完全に自由な思考は出来ないという、人間の自由に対する制約の分析を見ることが出来る。これは整合的で納得できる発想だろう。

ソシュールの再評価においては、人間の思考における言語の役割というものを深く捉えているものとしてそれを見ていく必要があるのではないだろうか。人間の論理の展開において言語はどう役立っているか、というのは僕の関心のあるテーマでもあるし、それに対して役立つような見解を語っているのであれば、ソシュール言語学は高く評価できるのではないだろうか、と思っている。