内田樹さんの分かりやすさ 6


適切に表現された文章を読んだり、あるいは発言を聞いたりしたとき、我々は「目から鱗が落ちる」という経験をすることがある。これは、今までは何となくそう思っていたという、何かもやもやとしていた事柄が、まるで霧が晴れるかのようにはっきりと見えてくるという経験だ。それまでの、何となくそう思っていたというもやもやした思考は、ソシュールが語る「星雲」のようなものに見えるのではないだろうか。そして、適切な言葉で表現されたものを知ることによって、その「星雲」が明確な判然としたものになるのを感じる。内田さんが語るソシュールの言葉に「なるほど」と感じることが出来るのも、僕が何となくそう思っていたことがはっきり分かるように適切に表現してくれているからだろうと思う。

内田さんが語ることの分かりやすさは、適切な表現であるという要素が大きいのではないかと思う。真理の語り方にはいろいろなものがあるが、複雑な「名」の論理形式をもった真理は、そのまま語ったのでは、複雑な構造を知っている人間にしか伝わらない。適切な表現とは、そこにある複雑な構造が見通せるような、複雑さを可視化出来るような表現になっていなければならないだろう。そのようなものを次の表現にも感じる。

ソシュールが教えてくれたのは、あるものの性質や意味や機能は、そのものがそれを含むネットワーク、あるいはシステムの中でそれがどんな「ポジション」を占めているかによって事後的に決定されるものであって、そのもの自体のうちに、生得的に、あるいは本質的に何らかの性質や意味が内在しているわけではない、ということです。」


これは、人間が「あるもの」の存在を解釈し、その「性質や意味や機能」を了解するということの複雑さを語っている表現として理解できる。それが物質的存在であれば、人間の意識から独立しているという性質を観察して、それを記述することで「性質や意味や機能」を了解するという了解の仕方がある。それはある意味では客観的な見方のように見えるが、意識とは独立した面を観察しているので、別の観点からは、自分とは関係のない存在としてそれが映ってしまう。

人間が存在を了解する仕方は、このような観察によってするのではなく、むしろその存在が自分にとってどのような関係を持っているかという、内田さんがいう「ネットワーク」や「システム」を考慮することのほうが多いのではないだろうか。「どんな「ポジション」を占めているか」で、その意味が変わってくるという了解をすることが多いだろう。存在を客観的に観察すれば、その観察結果は誰もが同じになる。だが、実際の人間の世界の了解の仕方は、その人間が世界の中にどのような位置を占めているかで、その人間の主観によって了解が変わってくる。これは、ウィトゲンシュタイン的な「論理空間」が、個人の主観によって変わってくる、つまり個人にとっての世界は違うのだという主張に通じるもののように感じる。

このような世界の理解は、世界の複雑さを理解したものとして考えられるが、適切に表現してもらったことによってその意味がはっきりする。世界に存在するものは、それが人間の意識から独立しているという唯物論的な面だけを受け取っていたのでは一面的な見方であり、真理の半分しか語っていない。もう半分を理解するには、それが意識とは独立していない、すなわちその人間の存在を中心とした「ネットワーク」や「システム」との関連、それは主観と呼んでもいいものだろうと思うが、それを考慮した視点で見ることが必要だ。

ソシュールが指摘したこの世界の見方で現実を眺めてみると、商品の「価値」と「有用性」の問題を正しく受け止めることが出来る。商品の価値というのは、人間の意識から独立に、客観的な物質的存在の属性として発見できるものではない。同じものがある人には非常に高い価値を持っていることもあれば、物質的存在としては同じなのに、それにほとんど価値を見出さない人もいる。

商品と呼ぶには少し語弊があるかもしれないが、タイタニック沈没の際のボートの「価値」と「有用性」について内田さんは語っている。このボートは、沈没する船から避難したいと思っている人は、命が助かるかどうかという重要な問題に直結するものなので、何よりも「価値」の高いものとなるだろう。それはボートという物質的存在をいくら観察しても、そのような状況のもとにあるという前提を抜きにしては、その「価値」の高さが理解できない。

ボートの「価値」というのは、ボートという物質的存在だけを観察していたのでは判断できない。そのような観察で判断できるのは、一般的にボートという存在の概念に合うような対象が持っている「有用性」のほうだろう。それは、「水に浮く」という言葉で表現されるが、これならだれが考えても同じ判断が出てくるような思考になるのではないかと思う。

「ネットワーク」や「システム」が重要だという見方は、構造主義という発想に近づいているものだろうと思う。そういう意味では、構造主義というのは、主観が持っている意味付けの面を正しく了解するための発想と考えられるのではないだろうか。このような見方で言語を見ると、どのような論理が展開されるだろうか。それは「私たちは「他人のことば」を語っている」と内田さんが中見出しにしているような現象の理解を導くのではないだろうか。

ちょっと長いが内田さんが語ることを引用しよう。

「「自分たちの心の中にある思い」というようなものは、実は、言葉によって「表現される」と同時に生じたのです。と言うよりむしろ、言葉を発した後になって、私たちは自分が何を考えていたのかを知るのです。それは口をつぐんだまま、心の中で独白する場合でも変わりません。独白においてさえ、私たちは日本語の語彙を用い、日本語の文法規則に従い、日本語で使われる言語音だけを用いて、「作文」しているからです。
 私たちが「心」とか「内面」とか「意識」とか名付けているものは、極論すれば、言語を運用した結果、事後的に得られた、言語記号の効果だとさえ言えるかもしれません。
 もちろんこのような言葉の力については、古代から繰り返し指摘されてきました。詩人に霊感を吹き込む「詩神」や、ソクラテスの「ダイモン」は、まさに「言葉を語っているときに、私の中で語っているものは私ではない」という言語運用の本質を直感したものです。
 私が言葉を語っているときに言葉を語っているのは、厳密にいえば、「私」そのものではありません。それは、私が習得した言語規則であり、私が身につけた語彙であり、私が聞きなれた言い回しであり、私が先ほど読んだ本の一部です。
「私の持論」という袋には何でも入るのですが、そこに一番たくさん入っているのは実は「他人の持論」です。
 私が確信を持って他人に意見を陳述している場合、それは「私自身が誰かから聞かされたこと」を繰り返していると思っていただいて、まず間違いありません。」


ここに書かれていることは、すべてなるほどそのとおりだなと僕には思えることだった。僕も今までにそのようなことをぼんやりと考えていた。それに適切な表現を与えてくれたので、自分が考えていたことがはっきりと自分に分かったと言う気がする。だから、内田さんが語った、僕にとっての「他人の持論」は「私の持論」の袋の中に入ってきたという感じがする。

上に書かれているようなことをさらに論理的に展開すればどうなるか。私が語ることの大部分が私のものではないとしたら、私というアイデンティティーや自我というものが、絶対的に他人と独立したものという了解ではなく、相対的なものとなっていくだろう。物質的存在としては独立しているように見えるが、その思考・発想・行動などは、他人の影響を受け・社会がどのようなものであるかによって決まってくる。構造主義の基本的発想に向かっていくだろう。

このような論理は、それが極端に向かえば「自我の喪失」というものにつながるだろう。文学表現の場合でいえば「作者の喪失」という考え方が生まれる方向へいったのではないかと思う。三浦さんは、「作者の喪失」は観念論的妄想であって、観念的な二重化(観念的な自己分裂)を正しく捉えられなかったことによる誤謬だという批判をしていた。これは極論にまでいってしまったものは、三浦さんが批判するとおりではないかと思う。作者がまったく存在しないで、小説が勝手に書かれるなどという解釈は、精神の働きとしては「異常」な状態の特殊な現象だと考えざるを得ないだろう。死者の霊が憑依した、恐山のイタコが、自分の言葉ではない死者の言葉を語るというような、特殊な例のときにしか了解できない。

しかし、自分が表現したものがすべて自分のオリジナルと言えるかどうか、という問題の立て方をすれば、それは実は他人から取り入れた考えが大部分だという指摘のほうが正しいように見えるのではないだろうか。僕などは、このエントリーをほとんど、内田さんがこう語っていたということで埋め尽くしている。僕のオリジナルの部分は、内田さんはきっとこういう意味で語っているのだという僕の理解を語っているところだけだ。だが、ほとんどの人の表現というのは、基本的にそんなものではないだろうか。何から何まで自分の中からだけ出てきたという表現はないのではないだろうか。

これは、現在の人類がすでに社会を構成していて、言語があふれているという世界に生きていることに原因があると思う。我々は言語を生み出すという生成の場面に遭遇していない。むしろ、現実を生きるために言語によって教育されている。他人が語ったことを理解することが我々が生きていくことのほとんどになっている。その事に最大限の努力を傾けるというのが、現在生きている人間の特徴だ。

「作者の喪失」という主張が、「自我中心主義の否定」というものであれば、その主張にも一理あると僕は思える。なるほどそのとおりだなと思える説明を内田さんはしている。これが内田さんの分かりやすさだろう。ソシュールは正しいことを語っていると思える。その正しいことの論理を展開していくと、言語というものを、三浦さんが言うような「表現」ではなく、批判されているような「言語規範」を言語と呼ぶようなことにも整合的な理解が出来るようになるだろうか。言語規範を言語と呼ぶような見方がある種の目的には有効だというような理解が出来るようになるだろうか。論理の展開として、そのようなことが導かれるかどうか、その点も考えてみたいことだと思う。