内田樹さんの分かりやすさ 7


現代思想というのは非常にわかりにくい内容を持っている。哲学者が語ることでも、古代ギリシアや中世ヨーロッパくらいまでなら、その内容に難しさはあっても、何を言っているのか内容そのものがつかめないということはない。内容を正しく受け止めるのは難しいが、何について語っているのかというのは分かる。だが、現代思想については、何を言っているのかそれすら分からないということがある。

たとえば、ミシェル・フーコーには次のような言葉があるようだ。

「作家の刻印とは、もはや作家の不在という特異性でしかない。作家はエクリチュールの遊び(ゲーム)のなかで死者の役割を受け持たねばならないのです。こうしたすべてはよく知られたことで、もうずいぶん前に、世評と哲学とはこの作者の失踪ないしは作者の死亡を確認し記録にとどめています」


僕は、このフーコーの文章が何を語りたいのかがよく分からない。それは「エクリチュール」「ゲーム」という言葉の概念を正確に把握していないということに原因があるのだろう。「ずいぶん前に」ここで語っているようなことが確認され記録されているということに関する知識もない。おそらくそのような基礎知識を持ってフーコーのような現代思想を読まなければその内容すら受け止めることが出来ないのだろう。

そして、内容を受け止められないと、フーコーが語っていることに論理的な整合性があるのかどうかという判断ができない。なるほどフーコーが言うことももっともだという、納得の理解にいたることが出来ない。現代思想というのは、長い間僕にとってはそのような対象だった。

もちろん、この現代思想を易しく言い換えたものもある。ウィキペディア「ミシェル・フーコー」には、フーコーの思想を説明した次のような文章がある。

フーコーの思想は、ニーチェハイデッガーの影響を受けている。とくに、ニーチェの「力への意志」や伝統的価値の無力化の指摘と、ハイデッガーによる「技術的存在理解」への批判をもとに、フーコーは、社会内で権力が変化するさまざまなパターンと権力が自我にかかわる仕方とを探究した。歴史においては、ひとつの論が時代の変化とともに真理とみなされたり、うそとみなされたりすることがありうる。フーコーはそれを支配している変化の法則を考察する。また、日常的な実践がどのようにして人々のアイデンティティを決定し、認識を体系化しうるのかをも研究した。フーコーによれば、事物を理解するどの方法も、それなりの長所と危険性をもっている。」


ここに書かれているのは、フーコーが「何を」したかということだ。それがどんなものであるかという内容の記述はない。「それなりの長所と危険性」というものの判断が妥当であるかということはここからは分からない。ここから知られるのは、「どの方法も」そのような性質を「もっている」ということだろう。しかし、このような一般的な言説なら、わざわざフーコーを持ち出して語る必要はない。フーコーが語ったことでもっと重要なことは、何が長所で何が危険性なのかという具体的内容ではないだろうか。

この説明は、日本語の文章としてはよく分かる。しかし、内容的に分かることの記述にしたために、大事なことは省かれて単純化されたものになっている。易しい記述を求めたために、対象の持つ複雑さが棄てられ、対象の単純さを記述するような文章になってしまった。これは、分かりやすさの質からいえば、「目から鱗が落ちる」というようなことにはならない。誰でも考えそうなことだから、間違っているとは言えないが、ことさら主張するようなことでもないかなという感じだ。フーコーが何を語っているかをあらかじめ知っている人間なら、この記述も、そうまとめられるかと思うかもしれないが。

分かり易さというのは、対象の持つ複雑性をそのまま保持して、複雑さを可視化することによって分かり易くしているなら「目から鱗が落ちる」という経験が出来る。だが、対象を単純化して、分かる範囲に止めることで分かりやすくしたものは、知的経験としてはあまり大したものではない。「なるほどそのとおりだ」という実感は湧いてこない。

僕が分かりやすいと感じる内田さんは、フーコーについてどのような語り方をしているだろうか。『寝ながら学べる構造主義』からちょっと引用してみよう。

「「監獄」であれ「狂気」であれ「学術」であれ、私たちはそれらを、時代や地域に関わりなく、いつでもどこでも基本的には「同一的」なものと信じています。しかし、人間社会に存在するすべての社会制度は、過去のある時点に、いくつかの歴史的ファクターの複合的な効果として「誕生」したもので、それ以前には存在しなかったのです。この、ごく当たり前の(しかし忘れられやすい)事実を指摘し、その制度や意味が「生成した」現場まで遡って見ること、それがフーコーの「社会史」の仕事です。」


ここで語られているのは、フーコーが何をやったかというような一般的言説ではない。フーコーの「社会史」というものがどのような内容を持っているかという具体性の記述をしている。注目すべき視点は「誕生」した時点で、これは誰にもそれを言い当てることが出来ない、複雑すぎて見えない対象だ。しかし、それが「あった」ということは確かなことだ。なぜなら、それは永遠の昔からすでにあったというものではないからだ。それ(「監獄」「狂気」「学術」というもの)がなかった時代を我々は確認できる。そしてそれは今ではある。だから、論理的に考えれば、どこかで「誕生」したことは確かだ。その「誕生」の様子を具体的に語ることはたいへん難しい。しかし、それをしたのがフーコーだという指摘は、フーコーが語る複雑さを保持しつつ、それを可視化して分かりやすく説明しているように僕は感じる。

ある制度が「生成した瞬間の現場」をロラン・バルトは「零度」という述語で表現したらしい。そして、構造主義とは、「ひとことで言えば、さまざまな人間的諸制度(言語、文学、神話、親族、無意識など)における「零度の探求」であるということも出来るでしょう」と内田さんは語っている。構造主義がそのようなものであれば、その始祖と呼ばれるソシュールが、日常的なコミュニケーションよりも言語の生成の現場のほうにより大きな関心を持っていたと考えることも出来るだろう。そのような関心からは、ラングの分析こそがそれを解明するという発想もありうるかもしれないと感じる。

さて、フーコーがこのような「零度」に注目したのは、内田さんが語る「人間主義的な進歩史観」というものにフーコーが異を唱えたからではないかということが伺える。「人間主義的な進歩史観」というのは、内田さんによれば「「今・ここ・私」を歴史の進化の最高到達点、必然的な帰着点とみなす考え」というものだ。唯物史観などもそのようなものに分類されると思うが、歴史は進歩・発展するものという見方になるだろうか。歴史的必然性という発想があるものは「人間主義的な進歩史観」といえるかもしれない。

この発想は、内田さんの説明によれば、進歩していない面を切り捨てて、進歩している面だけを見ることによってそのような抽象が出来るという。歴史という複雑な現象は、そのすべてを視野に入れて考えれば、進歩しているかどうかは簡単には決められない。ある一面に注目することによって、その一面では進歩しているのだという判断が出てくる。

これは、その抽象が妥当であれば「本質的に進歩している」という判断に賛成したくなるが、それがいつでも正しいという思い込みになればイデオロギーというような、人間を制約するものになりそうだ。唯物史観からの帰結である、資本主義の発展した段階が社会主義であり、社会主義のほうが資本主義よりも進歩しているというのは、現実には思い込みに過ぎないことであることが今では明らかになってしまったのではないかと思う。それはおそらくどこかで抽象を間違えたのではないかと僕は思っている。妥当な抽象ではなく、強引で無理な抽象がどこかで入り込んだのではないかと思う。そのため論理的な帰結が狂ってしまったのだろうと思う。

抽象というのは同時に捨象であり、何かを切り捨てることである。この切り捨てるという行為を経なければ「人間主義的な進歩史観」を得ることは出来ない。これが内田さんが語ることで、ここまではまったく論理的な問題はないと感じる。そして、この切り捨てられたものに注目するのがフーコーの発想なのだという指摘は、それが正しいものであれば、フーコーは論理的に整合性のある考えをしていたのだなということが理解できる。抽象が正しいかどうかの妥当性に注目していたのだなと思う。

内田さんはフーコーについて次のようなまとめをしている。

フーコーはそれまでの歴史家が決して立てなかった問いを発します。
 それは、「これらの出来事はどのように語られてきたか?」ではなく、「これらの出来事はどのように語られずにきたか?」です。なぜ、ある種の出来事は選択的に抑圧され、黙秘され、隠蔽されるのか。なぜ、ある出来事は記述され、ある出来事は記述されないのか。
 その答えを知るためには、出来事が「生成した」歴史上のその時点−−出来事の零度−−にまで遡って考察しなければなりません。考察しつつある当の主体であるフーコー自身の「今・ここ・私」を「カッコに入れて」、歴史的事象そのものに真っ直ぐ向き合うという知的禁欲を自らに課さなければなりません。そのような学術的アプローチをフーコーニーチェの「系譜学」的思考から継承したのです。」


この説明を読むと、フーコーがなぜ「零度」という「誕生」の場面に注目するかの論理的整合性が理解できる。ある物事が「誕生」した時は、そこで何かが選択(抽象)され、何かが棄てられた(捨象)のだ。その棄てられたものを考察することで、棄てたことの妥当性が浮かび上がるのだろう。それがウィキペディアで語られている「それなりの長所と危険性」の具体的内容ではないだろうか。

「それなりの長所と危険性」があるというだけのことなら、ことさら強調するほどのものではない。しかし、それを見る視点が、「なぜ、ある種の出来事は選択的に抑圧され、黙秘され、隠蔽されるのか。なぜ、ある出来事は記述され、ある出来事は記述されないのか」というものであれば、それは普通はなかなか発想できない視点になる。語られ・記述されたものは目に付くが、語られず・記述されなかったことは消えてしまって、人々はそれがあったことさえ忘れてしまうからだ。豊かな想像力のもとに、その時代・過去を頭の中に描かなければ見えてこない。この複雑性の指摘は非常に重要ではないだろうか。そして、そこから何らかの結論が得られれば、今までの常識を覆す真理が求められる可能性がある。何しろ忘れられていたことを明らかにするのだから。そのようにフーコーを理解すれば、その優れた面・なるほどたいしたものだという感じがつかめるのではないかと思う。それが本当の分かりやすい説明だろう。