内田樹さんの分かりやすさ 10


内田さんの『寝ながら学べる構造主義』では構造主義四銃士としてレヴィ・ストロースを解説している一章がある。レヴィ・ストロースは、構造主義においては最も重要な思想家の一人として語られることが多い。構造主義の考え方を使って大きな成果を上げた人として有名だ。しかし、レヴィ・ストロースが何をして、そのどこがすごかったのかというのは分かりにくい。

レヴィ・ストロースは親族の持つ構造を明らかにしたといわれるのだが、この理解がなかなか難しい。レヴィ・ストロースが語る言説というのは、現実に存在する親族の現象を説明する解釈としては成り立つような気がする。しかし、それ以外に解釈がないかといえば、解釈するだけならいくらでも別の解釈を持ってくることが出来るような気がする。そうであれば、レヴィ・ストロースが語る言説こそが、親族の意味を明らかにした、つまりそれが真理であるということの理由があるはずで、その理由を整合的に納得できれば、なるほどレヴィ・ストロースが言うとおりだと理解できるだろう。

レヴィ・ストロースの語る命題が真理であるならば、それは科学的に証明されなければならないのではないかとも感じる。そういう見方をすると、どうもレヴィ・ストロースの言説に科学性をあまり感じないことから、それが真理であるということがなかなか理解できないのだという気がする。レヴィ・ストロースは、親族の現象(特に婚姻に関するもの)を取り上げて、それらに共通する構造を図式化することに成功した。しかし、図式化できたということそのものから、それが真理であるという結論は出てこない。図式化したものがなぜ真理なのか。それを納得したいと思う。

まずレヴィ・ストロースが語った図式を正確に受け取ることに努めてみよう。内田さんは次のようにまとめている。

レヴィ・ストロースはさまざまな社会集団における家族の間の「親密さ/疎遠さ」の関係を調べた結果、不思議な法則を発見しました。それはあらゆる家族集団は、次の二つの関係において、必ずどちらかの選択肢を選ぶ、という事実です。

 父−子/伯叔父−甥の場合

  • (0)父と息子は親密だが、甥と母方のおじさんは疎遠である。
  • (1)甥と母方のおじさんは親密だが、父と息子は疎遠である。

 夫−婦/兄弟−姉妹の場合

  • (0)夫と妻は親密だが、妻とその兄弟は疎遠である。
  • (1)妻はその兄弟と親密だが、夫婦は疎遠である。」


この図式で語られているのは「親密−疎遠」という対立する概念と、親族の中の二つの存在がその属性を持っているという関係だ。二つの存在は、「父親」「息子」という親子に関係していたり、母方のおじさんという「兄弟」に関係していたり、夫婦というものに関係していたりする。

これらの存在がなぜ選ばれているかということが気になるが、それはレヴィ・ストロースが集めたデータの特徴を観察した結果だということであれば、特に論理的な前提が理由にあったのではなく、偶然そのような観察結果が出たのだとも受け取れるだろう。このとき、上の文章で語られている「必ずどちらかの選択肢を選ぶ」という言葉の理解の仕方で、レヴィ・ストロースが発見した図式が科学であるかどうか(これは板倉聖宣さんが定義する意味での「科学」ということだが)が決定する。

「必ずどちらかの選択肢を選ぶ」という命題が、レヴィ・ストロースが調べた限りでの社会集団における家族の特徴として語られているのであれば、それは現実の一つの解釈として成立しているものだと受け取れる。知っている限りの家族を見るということではこれは正しいというわけだ。だが、まだ知られていない家族に対しても、この命題が成り立つかどうかを問えば、それは調べて見なければ分からないということになる。こういうものは、板倉さんの言う意味での「科学」ではない。

まだ知られていない未知の家族に対しても、この図式が成り立つのだと主張すると、その主張が正しいものとして確認されればそれは「科学」となる。「科学」になるまではそれは「仮説」と呼ばれる。これは、未知の対象を見つけてきて、実験を繰り返すことによって「科学」に近づいていく。何回実験をすれば「科学」になるかという明確な回数はないが、その対象が「未知」であるということがはっきりしていれば、そのような「未知」の対象に関して数回繰り返す実験は、対象の「任意性」を保証し、それが「科学」としての性格を保証するものになる。

レヴィ・ストロースのこの図式は、もし単なる解釈に過ぎないものであれば、構造主義における輝かしき功績とは評価されないのではないかという気もする。ほぼ真理として認められている、つまり「科学」として受け止められたので、レヴィ・ストロースの業績として高く評価されているのではないだろうか。僕は、この主張を追試して確かめることが出来ていないので、僕の中ではまだ「科学」とはなっていないが、とりあえず「科学」となったと認めて、この命題が与える影響を考えてみようと思う。

構造主義は、数学的構造という発想からもその考えを借りているところがあるそうだが、この基本構造をとりあえず認めて、それを前提として論理を展開してみようというのは、数学の公理を前提として、その公理が成り立つ世界ではどのような法則が論理的に導かれるかという見方に似ている。果たして、レヴィ・ストロースが提出するこの親族構造の基本が前提とされるなら、どのような論理展開が出来るだろうか。

それは次のような内田さんの文章で語られているようなことではないだろうか。

「この大胆な仮説によってレヴィ・ストロースが私たちに教えてくれることは二つあります。一つは、人間は二項対立の組み合わせだけで複雑な情報を表現するということ。もう一つは、私たちが自然で内発的だと信じている感情(親子、夫婦、兄弟姉妹の間の親しみの感情)が実は、社会システム上の「役割演技」に他ならず、社会システムが違うところでは、親族間に育つべき標準的な感情が違う、ということです。夫婦は決して人前で親しさを示さないことや、父子は口をきかないのが「正しい」親族関係の表現であるとされている社会集団が現に存在するのです。」


二項対立の組み合わせは、それをいくらでもたくさん付け加えるならば、どんどん複雑化していくことが出来る。ある対象を観察して、それが「食べられる・食べられない」というような分類で見た後に、「生でもいい・生ではだめ」とか、次々に二項対立的な問いで分析していけば、注目している側面の数だけ対象を複雑に分析することが出来る。しかし、二項対立的な問いで対象を分類するということは、それがはっきり「イエス・ノー」で答えられるという前提が必要だ。もし、「イエス・ノー」で明確に言えないような問いをそこに含ませてしまえば、二項対立による対象の複雑化と分析は、そこから先は信用できないものになる。どちらか分からないものをどちらかに決めるのだから、そこで間違えるかもしれないからだ。

二項対立の組み合わせは、レヴィ・ストロースの言説とは関係なく、一般的に言えることだが、もう一つの「自然の感情の発露」だと思われていることが、実は「社会システム上の役割」だという発想は、個性的な指摘として意味があるのではないだろうか。そこにある種の構造が、数学における公理のように前提として成り立っているなら、数学の定理のように前提から導かれる結論に支配されるだろう。その支配が「社会システム上の役割」として現れる(定理の成立が観察できる)のであって、人間が自由に自然に振舞った結果としてそのようなものが観察されるのではないという論理展開が出来る。これこそが、まさに構造主義の発想になるだろう。

ここにこそレヴィ・ストロースの言説の価値を見出すというのは、内田さんもそのように語っているように見える。内田さんは次のように書いている。

「私たちは常識的には、人間が社会構造を作り上げてきたと考えてきました。親子兄弟夫婦の間には「自然な感情」がまずあって、それに基づいて私たちは親族制度を作り上げてきたのだ、と。レヴィ・ストロースはそのような人間中心の発想をきっぱりと退けます。
 人間が社会構造を作り出すのではなく、社会構造が人間を作り出すのです。
 ご覧のとおり、私たちは何らかの人間的感情や、合理的判断に基づいて社会構造を作り出しているのではありません。社会構造は、私たちの人間的感情や人間的論理に先立って、すでにそこにあり、むしろそれが私たちの感情の形や論理の文法を事後的に構成しているのです。ですから、私たちが生得的な「自然さ」や「合理性」に基づいて、社会構造の起源や意味を探っても、決してそこにたどり着くことは出来ないのです。」


社会を理解するのに、人間を出発点にして考えるのではなく、社会の構造を見出してそこから論理を展開する、という指摘こそがレヴィ・ストロースの大きな業績なのだということを語っているのではないだろうか。この構造主義の発想が、ソシュールを始祖として始まったのなら、言語について考えるときも、人間から出発する(すなわち人間が言語を使っている現象から出発する)のではなく、言語を支配している構造(すなわちソシュールが言う意味でのラング)から論理を展開するのが構造主義的だということになるだろう。ソシュールがなぜラングに注目し、ラングこそが言語だと主張する理由は、このようなところから伺えるのかもしれない。

内田さんは、上の文章で「社会構造の起源や意味を探っても、決してそこにたどり着くことは出来ないのです」とも語っている。これは、レヴィ・ストロースの図式が、実は科学的には証明できないのだということを言っているようにも聞こえる。ある社会において、親族の構造が「なぜそうなっているか」はわからないということではないか。そして、それは「なぜ」は分からないが、観察によって、「今はこうなっている」ということが見えるだけなのではないか。そして、重要なのは、「今はこうなっている」という構造によって、人間の思考や表現(言語)がどのような支配を受けているかを理解することだと、レヴィ・ストロースは語っているのだと理解することではないだろうか。

レヴィ・ストロースが語っていることが真理なのかどうかということは、内田さんの文章を読んでも今ひとつ分からないところがある。その意味では、エントリーの題名として「分かりやすさ」を考察するというのは違っているかもしれない。しかし、レヴィ・ストロースの語ることの内容(意味)はよく分からなかったが、それがどのような論理につながって、思考の展開の中で持っている意味のほうは分かるようになった。素朴に自由で自然だと思っている人間行動の現象が、実は自由でも自然でもないもので、構造という制約があるのだということの指摘として意味がある、ということはよく分かった。それは僕には、内田さん以外のレヴィ・ストロースの解説では得られなかった知識だ。その意味では、やはり内田さんの語ることは分かりやすいのだと、少なくとも僕にとってはそうだと思う。