内田樹さんの分かりやすさ 9


内田さんは『寝ながら学べる構造主義』の中で、ロラン・バルトの「作者の死」という概念を説明する。この概念は、非常に分かりにくいものだと思う。この概念に最初に僕が出会ったのは、これを批判する三浦つとむさんの文章でだった。

三浦さんは「東西粗忽長屋物語」という比喩でこの批判を語っていた。落語の粗忽長屋物語では、行き倒れになった死骸が、長屋の熊さんに似ていて、その当の熊さんが死骸を抱いて、自分に対して「しっかりしろ」などと声をかける。そうすると、確かに目の前に見ている死骸は「熊さん」つまり自分だけれど、それを抱いて介抱しているのは誰だということになる。眺められている存在の自分と、眺めている存在の自分とが二人いるのはどういうことなのかということが哲学的な問題として生じてくる。

これを形式論理的に解釈すれば、自分が二つに分裂することはないという前提で考えて、一方が自分であれば他方は自分ではないという結論になる。実際に存在する人間が二つに分裂することはないから、落語の粗忽長屋物語の熊さんは、死骸を抱いているほうが本物で、死骸になった人物は、熊さんに似てはいるが別人であると結論しなければならない。そうでなければ形式論理的な矛盾を生じてしまう。

この「見られている自分」と「見ている自分」という二つの存在は、文学作品の中にもそう解釈できるものがあった。文学作品の中に直接登場する一人称の「自分」というものがある。そして、その作品自体を記述する立場の「自分」というものがある。この両方の自分は、粗忽長屋物語の熊さんのようなものだろうか。

三浦さんは、構造主義者の見方は、粗忽長屋の熊さんと同じだと指摘して、どちらか一方を殺してしまうところ、すなわち「見ている自分」のほうの作者に死を宣言したことが間違いであると批判していたように感じる。粗忽長屋の熊さんは、現実の肉体を持った物理的存在であるから、熊さんが二つに分裂して存在することは出来ない。しかし、文学作品の作者は、フィクションの想像の世界に登場する人物で物理的存在ではない。これは観念的存在になる。そのようなものは、観念的に分裂することが出来るし、そう解釈しても間違いではない。つまり、文学作品の作者は分裂して存在しうるので、一人称の「自分」が二人いるような感じがしても、それは何ら論理的には間違いではない。ちゃんと整合性を持つのだというのが三浦さんの批判だった。

構造主義者は、三浦さんが「観念的な自己分裂」あるいは「観念的な二重化」という現象を理解できなかった、というのが三浦さんの批判の中心ではなかったかと思う。しかし、ここで批判されている「作者の死」は、内田さんが解説するロラン・バルトの「作者の死」とはまったく違う概念のように僕には見える。ロラン・バルトは、観念的に分裂したもう一人の作者に死を宣言したのではない。

ロラン・バルトが死んだといった作者は、その創造された作品のすべてに責任と所有権を持っていると思われていた、神のような存在として捉えられていた「そういう作者(作品の内容のすべてにわたって知っているし、それから得られる利益をすべて受け取る権利があると考えられる作者)」はもはや今の時代にはいない・死んだのだと宣言したように感じる。問題は、作品に対する権利を有するという意味での「作者」なのだ。このような「作者」の概念は、インターネットが発達し、著作権について日常的に話題にされるようになった今、誰にでもわかるような姿として目の前に現れてきた。

三浦さんが構造主義を批判していた時代には、このような著作権を基礎にした「作者」の概念はまだあらわになっていなかったのではないだろうか。三浦さんのように、物事の細かいところまでも徹底的に考える人でも、その時代がまだ著作権というものをはっきりと知らせてくれる時代でなかった時は、そのような「作者」の概念を受け取ることに困難があったのではないかと思う。

もちろん、三浦さんが批判するような意味での「作者の死」を語った構造主義者もいただろう。だから、三浦さんの批判は、そのような古い概念での「作者の死」を語る構造主義者にはすべて正しく当てはまるのではないかと思う。しかし、ロラン・バルトの「作者の死」の概念に対しては、三浦さんの批判は議論としてかみ合わなくなるだろう。それは「作者の死」というものを、まったく違う視点から語っているからだ。

視点が違えば双方の主張が、たとえ結論として対立していても、前提が違うのだから、その前提の元では両方とも正しいということがありうる。三浦さんが前提とする「作者の死」の概念からの論理的帰結では、「作者の死」は間違った解釈になる。だが、ロラン・バルトが語る「作者の死」の概念では、高度に発達した情報社会である現在にはぴったり当てはまる正しい概念となる。「作者の死」こそが正しい解釈だ。僕はそう思う。

三浦さんの「作者の死」の批判を幾つか調べたのだが、そこではロラン・バルトに言及している個所は見つからなかった。他の構造主義者の言説で、三浦さんが語る意味での「作者の死」の概念の内容を語っていると思われるものは批判の対象になっていたが、ロラン・バルトが語る著作権者としての作者という概念の批判は見当たらない。これは、ある意味ではロラン・バルトが語るような意味の「作者の死」は、論理的には批判できるような内容ではなく、現実解釈としては充分整合的に成立するものだということなのではないかと思う。

いずれにしろ、三浦つとむさんだけを読んでいた時は、僕はロラン・バルトが語る「作者の死」については知らなかった。それを内田さんの本で知り、なるほどこのような解釈も成立しうると感じられたのは、内田さんの文章が持つ一つの分かりやすさではないかと思う。なるほどと思えるのは、内田さんが提出する例が適切なものであるということも関係しているだろう。

内田さんは、リナックスというパソコンのOSについて、それを最初に考え提出したフィンランドの天才ハッカー「リナス」さんのことを書いている。リナスさんは、リナックスの「作者」だろうか。リナックスの最初の提供者ということを考えると、最初の生のリナックスに関してはリナスさんが「作者」であることは確かかもしれない。それ以前にリナックスというものがなければ、それをまったく新しく創造した人として「作者」の権利を主張することが出来るだろう。

しかし、現在のリナックスについてはどうだろうか。それはすべての情報が公開されていて、誰もが自由に手を加えて「創造」に参加できるような状況になっている。そのように改作されたリナックスは、もはやリナスさん一人の創作物ではなく、現在のリナックスに対してリナスさんが「作者」だという了解を得るのは難しい。リナスさんは最初のきっかけを作った人として、その名誉を人々の記憶の中に止めるだろうが、その名誉はスタートを切った人という「先駆者」としてのものであって、現在の作品の「作者」としてではない。このような意味で、リナックスの「作者」は死んだ。正確には、すべてのかかわりのある人が「作者」になったので、「作者」という言い方が無意味になったと言えるだろうか。

現在のリナックスに関しては、「作者は死んだ」という解釈のほうが正しいと僕は感じる。だからこそロラン・バルトが言う「作者は死んだ」という言説の正しさを信じることが出来る。また、リナックスの最初の登場のときにおいても、そのアイデアの大部分は、実はそれ以前のパソコンのOSの歴史をリナスさんが学んで、そこから影響を受けて作り上げたものだといえるだろう。そうすると、そこにさえももはやゼロから創造したという主張は出来ないことになる。このように、すべてはその前に存在したものを受け継ぎ、それを改作してきたものだと解釈するなら、そこにあるのは「作者」ではなく、アイデアを提出する「先駆者」ということになるのかもしれない。一般的に「作者の死」という言葉を解釈できる可能性もある。

これを言語現象などにも当てはめると、言語というのは、これだけ言語の流通が複雑化している人類社会では、もはや創造として語れる言語は存在しないといっても間違いではないかもしれない。すべての言語は、学び取られ受け継がれたものを改作しているだけだ。言語でさえそのような面が見えるとしたら、言語を使った芸術である文芸作品などに、それは受け継がれた財産が配列されているだけで、「作者」と呼ばれている人間は、その配列を「発見」しただけであり「創造」したのではないという解釈も出てくるだろう。「作者は死んだ」という解釈まではもう一歩だ。

「書評 ギリシアの神々とコピーライト [著]ソーントン不破直子」というページには、

「19世紀後半、ニーチェは「神の死」を提唱し、20世紀後半、フーコーは「人間の死」を、バルトは「作者の死」を宣告した。彼らの批判的思考の道筋は、西欧文明がいかに長いこと、「神」の権威をモデルに「人間」の権利や「作者」の著作権を保証してきたかを認識させてやまない。」


ということが書かれている。これは内田さんも、「聖書的な伝統に涵養されたヨーロッパ文化において、それ(「コピーライト」あるいは「オーサーシップ」という概念)は「造物主」を模した概念です」と語っていた。ヨーロッパでは長い間「作者」とは、作品を無からすべて創造した神のような存在として考えられていたようだ。そのようなものが「作者」であれば、高度に複雑な情報が行き交う時代となれば、どこまでが本当にその「作者」の創造なのかに疑いが生じ、このヨーロッパ的な意味の「作者」の概念に疑問が持たれることだろう。そして、このような「作者」はもはや死んだと受け取られるようになるに違いない。戦後間もない頃に、フランスではすでにこのような時代になっていたのかもしれない。

上のページには、さらに次のような記述もある。

「本書がユニークなのは、あらためて「作者という神話」を批判せずとも、古くはギリシャ古典や旧約・新約聖書の時代より、作家とはあくまで神の代理にすぎず、作家が「霊感」を受けたと主張すればするほど、それは個人の独創性ならぬ詩神の権威のほうを裏書きしたのだ、という前提から始めていることである。ルネサンス人間主義や近代以降のロマン主義を経てようやく、作家の作品を人間の側の私有財産、作家を神に成り代わるべき存在と見直す視点が生まれたのだという。」


これは、神と同じような創造者である「作者」の概念が、極端にまで進めば、人間が同じように創造するのではなく、人間は単に媒介をするだけに過ぎないのだという認識になり、その時は「作者」は神だけであり、人間の「作者」は死んでいるのだという認識になるだろう。

人間の考えというのは極端から極端に触れて、だんだんと現実的に妥当なところへ落ち着いていくという、振り子が静止へ向かうような運動をするものかもしれない。神だけが「作者」で人間が無力な「媒介者」に過ぎなかった時代から、人間を神の域にまで引き上げる、「作者」の全能感の時代が訪れたのではないかと思う。そして、今はそれが行き過ぎてまた反対のほうへ振れようとしているのではないか。神の領域にまで引き上げられた人間は、また「媒介者」へと引き下げられているように感じる。だが、それは今度は極端にまで落とされることはないだろう。妥当な「媒介者」の位置に落ち着くのではないかと思う。

人間は無からの創造者という神の能力は失ったが、優れた現実の一面を伝える媒介者として新たな尊敬を得る道を得るのではないだろうか。内田さんは、表現するには難しいロラン・バルトの考えなどを、分かりやすく表現しなおす媒介者としてとても優れた人だと僕は感じる。それは末梢的なつまらない創造を付け加えるよりもずっと優れた資質ではないかと思う。僕も内田さんのように、概念化することの難しい対象を分かりやすく語りなおせるような、そういう媒介者になりたいと思うものだ。