解釈(仮説)はどのようなときに事実(真理)となるか


現実に起こったある出来事を観察したとき、それが確かに「事実」であると判断できるのは、二項対立的な問いに明確に答えられるかどうかで決まる、と僕は考えた。グリーンピースをめぐる事件において、彼らが鯨肉の荷物を「持ち出した」か「持ち出さなかった」かという二項対立的な問いには「持ち出した」と明確に答えることが出来る。だから、「持ち出した」ということは「事実」だと判断できる。

これに対して、その行為を「窃盗だ」「窃盗でない」という二項対立的な問いを立てると、それに対しては明確に答えることが出来ない。「窃盗だ」という解釈も出来るし、「窃盗でない」という解釈も出来る。どちらか一方の解釈をする余地がなければ、これは「事実」として確定するが、それが出来ない時は「事実」にはならない。「解釈」の段階にとどまる。

この両者の違いは何に由来するのだろうか。それは「持ち出した」という言葉の概念(意味)と、「窃盗だ」という言葉の概念(意味)の違いからそのような判断の違いが出てくるように思う。「持ち出した」という言葉が正しいかどうかの判断には、その行為者の意図というものを考慮する必要がない。外から観察する行動面だけで判断が出来る。物理的な情報データのみで結論が得られる論理展開がなされていると考えられる。

ちょっと面倒ではあるが、この論理構造をもっと細かくしてみると次のようなものになるのではないかと思う。まず、「持ち出した」という言葉の概念を、どのような条件が満たされればそう判断できるかという「仮言命題(条件命題)」として考えてみよう。それは次のような条件になるだろうか。

  • 対象となる物質の位置が移動した。
  • 位置の移動を行った主体が誰であるかが明確に指摘できる。

「その所有者の承認を得ていない」という前提は、「持ち出した」という言葉の定義に関わるものではなく、「不当性」に関わるものだと思われるので、これは「持ち出した」という判断の前提には含めなかった。上の二つの前提が満たされるなら「持ち出した」という判断の正しさ(つまり真理性)が結論されると考えられる。これは、

  A ならば 「持ち出した」
  B ならば 「持ち出した」

という仮言命題において、AとBの真理性が確認されれば、この仮言命題が正しい限りにおいて、その真理性が保存されるという論理法則によって、「持ち出した」という結論の真理性が主張できるということからそう考えている。上で考えたように、AとBに当たる条件は、人間の主観が入らない、物質的現象の観察だけでその真理性が判断される。それが、「持ち出した」ということが「事実」であるかどうかが判定できるということの決め手になっているように僕は感じる。

それに対して、「窃盗」という行為は、それが行為であるということからも、主体の意図というものが判断に深く関わってくる。人間の主観というものが判断の対象に入ってきてしまう。「窃盗」という行為において、主体の意図という主観に関わらない部分だけに注目してみると、その定義は次のように考えられるだろうか。

  • その対象となる物質の所有権が「窃盗」をしたとされる者にない。
  • 本来の所有権があると考えられる相手の承諾なしに対象となる「物質」を移動させた。
  • 所有権の保証を得る前に、その対象物を恣意的に処分した。

主観に関わらない現象的な面だけを取り上げればこのような前提が見つかるだろうか。この前提が満たされれば、それだけで「窃盗」が成立すると定義するなら、グリーンピースの行為は「窃盗である」ということが「事実」となる。しかし、「窃盗」には、その意図があったかどうかという主観の判断がなければならないのではないか。言葉の定義として、そのような条件が必要なのではないかと思う。つまり

  • 対象となる物質を、自分のエゴイスティックな利益を目的として使用する意図を持っていた。

という条件が正しいかどうかの判断が入ってくるのではないだろうか。この条件には「エゴイスティック」という言葉が含まれていて、この中にまた主観をどう捉えるかという判断が入り込む。エゴイスティックではないという判断は、「公共性がある」ということから保証される。だから、グリーンピースの行為が、公共性を持っている行為であるなら、それは「窃盗である」という判断の前提(条件)を満たさないと考えられる。ここにこそ解釈が別れる余地が見出せるだろう。

「窃盗だ」という解釈が「事実」として確定されるかどうかというのは、このように多くの前提となる条件を一つずつ確定していって、それが二項対立的な問いに分解されたとき、そのすべてに明確に答えが得られたときに、その「解釈」は「事実」として確定するだろう。

現実には「窃盗だ」という解釈は、100%完全に「事実」として確定させられるということはないだろう。どこまでも、主観が関わることには異論の余地が残されるからだ。しかし、実際の裁判などでは、100%の確定は出来なくても、90数%確定できれば、「窃盗だ」ということが妥当だという事実性の判断をするだろう。僕は、報道される限りでの「事実」を眺めると、グリーンピースの行為が90数%の範囲で「窃盗だ」と判断されるという論理の展開には無理があるのではないかと感じる。彼らの行為に、普通の意味でのエゴを感じないからだ。

むしろ彼らが告発している「横領」という行為が「あった」か「なかった」かという二項対立的な問いのほうが見捨てられていることが気になる。これは、それほど簡単に「なかった」と判断できる事柄になっているだろうか。「横領」という言葉の定義を考えてみると、意図を抜きにした現象だけなら次のような条件が考えられるのではないだろうか。

  • 対象となる物質の本来の所有権は、横領しているとされる人物にはない。むしろ、それはある組織または公共の物であるとされる。
  • 本来所有権がないとされる物を、恣意的に処分できる状態にしている。つまり所有権の移動を正当な手続きなしに行っている。

外面的な部分で、調査捕鯨の乗組員が行った行為が、「横領」には当たらないという判断は難しいのではないだろうか。「慣習だった」ということから、それが正当な手続きを経ているという主張は出来ないのではないか。そうであれば、外面的には「横領」に見えてしまうような行為が「横領」ではないと主張するために、その意図を問題にしなければならないだろう。

「慣習だった」ということは、その意図に関するものとして意味を持つだろう。「慣習だった」ので、それが「横領」だという意識はなかったとも考えられるからだ。だが、この場合は意識がなかったから「横領」ではないという判断にはならないだろう。それは「横領」とは知らずに「横領」をしてしまったという判断にはなるが、「横領」ではないといえるかどうかは難しい。知らずに行ってしまった行為は「過失」として、意図的に行った行為よりは情状酌量されて罪は軽いと判断されるかもしれない。知らなかったのだから、罰するというよりも教育の対象とされるかもしれない。

「窃盗」の場合は、意図がなかった場合には「窃盗だ」と判断されないときもあるだろう。その所有者が誰であるかを勘違いして、違う人にその物質を渡してしまった場合など、現象的には本来の所有者でない人間に物が渡ってしまっているので「窃盗」のようにも見えてしまう。しかし、それは「窃盗」の意図を持って行った行為ではなく、間違えて行った「過失」になる。それがどのような罪の名で呼ばれるかは分からないが、これを「窃盗」だと呼ぶにはためらいを感じる人が多いだろう。

「窃盗」の場合は、その肯定判断においては意図があるかないかが重要になる。それに比べて、「横領」の場合には意図よりも対象となる物質が、本来は組織の所有であるのか公共のものであるのかという、存在の持つ属性のほうが重要になる。それが本来は個人のものではないと判断されるなら、「横領」の意図があるかないかに関わらず、個人の種有であるかのように処分すれば、それは「横領」と判断されるだろう。

宮台氏がマル激で語っていたが、これまでの行為に関してはそれが「慣習」だったので、本来は「横領」に当たるけれども、その意図がなかったので情状酌量してこれまでの行為に関しては免罪するという論理はありだと考えることも出来るという。しかし、これからは、それが「横領」であることが分かったのだから、これからの行為に関しては「横領と分かっていながらやるのだから」すべて「横領」として告発される、と語るなら論理的な整合性がある。この解釈はなるほどと思った。

「横領」の告発を検察が不起訴にしたのは、もし「慣習」だからという理由が一番大きいなら、本来の意味での正当性はないのではないかと考えられる。つまり、本来は組織あるいは公共のものと考えられるものを、個人の所有にしてしまうことに、この鯨肉の場合は正当性が見つからないのではないか。「横領ではない」ということの主張の、客観的な正当性は説明されていないと受け取れる。

これは検察の判断としてはいかがなものかと思う。「窃盗でない」という判断が必ずしも「事実」として確定しないので、彼らを容疑者としてその判断を確定させるために調べるという方向を取っているのに、「横領でない」という判断は、いとも簡単に「事実」として確定させている。これは恣意的で不公正ではないかと感じる。どちらも簡単に確定しない解釈なのだから、同じように扱うべきではないのか。それがフェアで公正な扱いではないのだろうか。

「横領でない」という判断は、事実を査定すれば90数%確かだと言えるものなのだろうか。そう言えるなら、疑問をもつ多くの人に対してそれを証明することが公共性だろう。国家権力はそのような公正さを示すべきで、それが出来ない国家は民主国家とは言えないのではないか。

もし検察が、「横領である」という告発に対しても、それを確定させるために調査をするという姿勢を見せれば、「窃盗だ」という容疑で調査することにも同等の扱いだという整合性を感じるだろう。しかし、一方を不起訴にするという扱いを見ると、「窃盗」に見えるような行為をしてでも証拠をつかまなければ、「横領」のほうはまったく告発に意味がないという現状を示していることにならないだろうか。検察の不公平な扱いは、むしろグリーンピースの行為が、たとえ「窃盗」のように見えようとも、実は正当性を持っているのだと解釈させるのではないかと思う。僕にはそのように見える。