素人がソシュールを学ぶ意義


僕は、日本語教育に携わり、専門としていた数学も数理論理学という、どちらかといえば言語学に近いものだった。その意味ではソシュールを「言語学」の象徴と考えれば、僕はまったくの素人とは言えないかもしれない。だがソシュールを専門に勉強してきたわけではなく、ソシュールに関する知識も乏しい。ソシュールが語ったことを直接読んだこともない。すべて誰かの解説を読んだだけだ。その意味で自分を素人と呼んでもいいだろうと思っている。

このような素人が、何か専門領域にかかるような事柄を学ぶということにどのような意義があるかを考えてみたい。一つ思いつくのは内田樹さんが、自分の専門外のことについて語るときによく言っていたことだが、素人の目が専門家が見逃していたところに注目することがあるという意義だ。内田さんは、『街場の〜』という名前の著書がいくつかあるが、そこで語られているのは、専門家は最初から自明の事としてあまり顧みない、ほとんど解説しないことについて自分は考えるということだ。そのようなことを「まえがき」などに書いている。

内田さんが入門書を書くのもそのような意識からだ。専門家の書いた入門書は、ある程度予備知識がある人が全体をまとめるような感じで、要約しているような入門書になる。教科書的と言えばいいだろうか。そのような入門書は、教科書であるから、誰かが教えてくれなければよく分からないところが多いだろう。

しかし、専門家ではない素人が入門書を書くなら、その素人が最初は分からなくて苦労したところを、いかにして理解に到達したかという書き方をする。このような入門書は、同じような躓きをしていた人間にはとても分かりやすいものになる。また、専門家ではない素人は、あまり細かい議論に深入りすることが出来ないので、末梢的なところを省いて根源的な原理的なことに注目するということもある。仮説実験授業などもそうだが、科学の根源的な事柄に注目して学ぶことは子どもたちの学習意欲を掻き立てるという実践が報告されている。よい入門書は、その学問に対する興味と関心を大きくさせてくれる。

このように素人がある種の専門領域に手を出すことにはそれなりの利点がある。だが、内田さんは素人とは言っても、学問という領域においては専門家の一人だから、これがまったくそのようなものと関係ない人にとっても同じだとは言えないだろう。そういう素人にとって、ちょっと学問でもしてみようかということは、衒学的な意味しか持たないものだろうか。

もし末梢的な知識を身につけて、その知識を披露することが目的になってしまえば、それは文字通り衒学的な意味しか持たないだろう。しかし、よい入門書にかかれているような根源的な問題を知るきっかけとして学問に触れることが出来れば、その学問自体については素人のままにとどまっていても、自分の人生や周りの社会を見る時の目(メガネ)は、ある種のものの見方の基本を身につけた人間の正しい判断をもたらす見方になるのではないだろうか。ここに素人が専門領域を学ぶことの意義があるように感じる。

僕がソシュールを学びたいと思うのも、ソシュールが言語と人間の関係について、根源的に重要なところに注目して考えた人ではないかと思えるからだ。そうでなければ、世界の最高の知性の持ち主たちに、これだけ長い間支持されるような考えを残せなかったのではないかと思う。それが何かを知りたい。ソシュールの細かい専門的な言語論の知識は必要ないけれど、言語と人間の関係で、何が最も注目に値するものなのか、それがどうして大事なのかということを理解したいと思う。

ソシュールに関しては、個人的な思いもある。ソシュールとの最初の出会いは、僕は三浦つとむさんの批判を通じてだった。三浦さんが批判する部分は、なるほどそうだろうなと思えるようなところだったが、それがそう思えるようなところだっただけに、ソシュールにはもっと豊かな他の面があるということに思いが至らなかった。三浦さんが批判していないソシュールは、いったいどういうことを語っていたのかということを考えずに来てしまった。

それが、内田さんが語るソシュールを知ることによって、三浦さんとソシュールでは、そもそも言語について注目している側面がまったく違うのではないかという気がしてきた。ソシュールは、表現された具体的な言語については関心を持っていない。三浦さんが対象としている言語は、ソシュールでは対象になっていない。これでは、三浦さんにとっては、ソシュールの優れている面を取り上げるということはあり得ないだろうと思った。ソシュールと同じような問題意識を持つ人がソシュールを高く評価するのだろうと思った。そのソシュールが考えた根源的なものを教えてくれる文章として内田さんの文章は僕の目にとまった。『寝ながら学ぶ構造主義』(文春新書)は良い入門書だと思う。その中から、ソシュールが考えたことの根源的で重要な部分を表現したと思われる命題をよく考えてみようと思う。まずは、

  • 言葉とは「ものの名前」ではない。


という命題だ。これは、この命題だけを単独で取り上げれば、とても正しいとは思えない。間違った主張のように思える。「ものの名前」を表す「名詞」と呼ばれる言葉はたくさんあるからだ。ウィトゲンシュタインのように、名詞以外の他の品詞・たとえば動詞や形容詞などもすべて「名」というカテゴリーでくくってしまえば、すべての言葉は「ものの名前」ではないかという感じもしてくる。

この命題が正しいという納得をするためには、ソシュールがこの命題で想定している「状況」あるいは「前提」というものをもっと深く考えなければならないだろう。ある前提の下では、この主張が正しいと納得できることがあるのだ。

「ものの名前」があふれていて、存在するものにすでに名前がつけられている現代社会では、上の命題は間違った主張のように聞こえる。しかし、この命題を、言語というものが今まさに誕生しようかという状況で考えてみるとどうだろうか。言語はいま誕生しようとしている。ということは、言語によって言い表したい対象には、その時点ではまだ「名前」がついていない。

現在生きている我々は、何か存在する対象を見たりしてそれを認識すれば、我々の持っている概念とそれに対応する言葉によって、その存在する対象の「名前」を呼ぶことが出来る。ここには、言語は「ものの名前」だという経験を生むという面があることが分かる。その「名前」が直接分からなくても、「何か大きなもの」とかいう言葉でその対象を表現することが出来る。我々の経験は、「ものは表現する前からそこに存在していた」ということを教える。これは唯物論の考え方であり正しいものだろう。

言語にあふれていて、何をするにも言語が関わってくる現在は、言語によって教育も行われ、言語があることが当たり前の日常になっている。このような状況では、言語は「ものの名前」であり、そのことの真意は、「ものは名前で呼ばれる以前からそこに存在していた」という唯物論的把握が正しいという主張に通じる。このような把握の下では、対象としての存在を人間が認識し、その認識を言語によって表現するという、「対象−認識−言語」という過程的構造が言語の本質だという三浦さんの「言語過程説」が正しい把握のように感じる。しかし、これは言語現象にあふれている現在の言語を考察の対象にしたときにそう考えられるということではないだろうか。

言語がまさに今誕生しようとしている状況では、この把握が違ってくるのではないだろうか。ソシュールが問題としたのは、そのような状況での言語の把握であり、そのような時は「言語は『ものの名前』ではない」という命題が正しくなるという主張ではないだろうか。

言語が誕生するときというのは、その「もの」にはまだ名前がついていない。だから論理的には、それを名前で呼ぶことは不可能だと結論されるだろう。名前がないものを名前で呼ぶというのは、「名前がない」と「名前がある」という二つの肯定命題と否定命題が両立してしまうという主張になるからだ。論理の世界ではこのような矛盾は許されない。だから、言語が誕生する瞬間では「言語は『ものの名前』ではない」という命題は論理的な正しい帰結であるといえるだろう。

上の命題が正しくなる状況というのは、言語が誕生するときだったのではないかと思う。そして、この命題が正しいと確認されると次の命題がまた正しいものとして提出される。

  • 名付けられることによって、初めてものはその意味を確定するのであって、命名される前の「名前を持たないもの」は実在しない。


この命題についても、これだけを単独で取り出して考えると、「実在しない」という言葉に引っかかる。これを「現実に存在しない」という意味で受け取ると、「存在しない」という意味のほうが重くなり、「現実に」という条件のほうが忘れられる恐れがある。そうすると「存在しない」ものなど永久に名付けることが出来ないのだから、このようなことを考えること自体に意味がないと受け取る人もいるのではないかと思う。

ここで語っている「実在」は、「存在」と同じ意味ではない。内田さんは、英語表現にはある devilfish(悪魔の魚)という言葉が日本語にはないということから、devilfish という「存在」は、日本語話者には「実在」しないという説明で「実在」という言葉の理解を求めている。devilfish は実体としてはエイとタコのことであり、この名前は日本語にもあるので、エイとタコは日本語話者にも「実在」と感じられる。だが、devilfish という概念がない日本では、その対象になる「もの」は、エイやタコは見えていても devilfish は見えていないということになる。この「見えていない」ということが「実在していない」ということの意味になる。

「実在」というのは、単に物質的に「存在」しているということではなく、人間がそれを思考の対象にし、意味を理解することが出来るという、その概念を持っているということとして理解しなければならない。そう理解すれば上の命題は正しいものとして受け取れるだろう。

ここで考えた二つの命題は、言語と人間の関係というものを考えるうえで根源的に重要になるものではないかと思う。特に、その解釈において、うっかりするとこれらの命題は観念論的妄想だと解釈しそうな余地を持っている。そう解釈してしまえば、ここに含まれている真理に気づくのは難しいだろう。だが、この命題が正しくなるような状況を設定して解釈すれば、言語と人間についてまったく違う側面からの見方が発見できるのではないだろうか。それこそがソシュールの偉大さではないかと思う。この偉大さを一つでも多く感じたいものだと思う。それが素人がソシュールを学ぶ意義にもなるだろう。