原子概念誕生の瞬間を想像してみる


原子論というのは、「すべての物質は非常に小さな粒子(原子)で構成される」という主張の事を指す。これは今では科学的に正しいということが証明され、すべての科学者はこのことを前提として科学的な考察をしている。だから「原子論」については、それが正しいということや、その正しさが確立されてきた歴史というものはいろいろと解説してくれる資料は多い。

僕の尊敬する板倉聖宣さんも、『原子論の歴史(上)(下)』(仮説社)という本で原子論の正しさとその「論」の歴史については詳しく書いている。だがここで想像したいのは「論」の正しさではなく、「論」の意味を正しく受け取るための「原子」の概念がどのように誕生してきたかということだ。

「目に見えないほど小さい」とか「すべての物質の構成単位としての極限的なもの」であるとかいう「原子」のイメージがどのようにして生まれてきたのかということを想像したい。これはそのような問題意識で書かれた解説はまったく見つからなかった。「原子論」の正しさを解説する本はたくさんあるけれど、その元になった「原子」という言葉の概念はどのようにして獲得されたかということが書かれているものは見つからなかった。それで仕方がないので自分で想像してみようと思う。この想像が、ソシュールが語る「言語と概念は同時に生まれた」ということの理解に何らかのヒントを与えるのではないかと思うからだ。

原子論を初めて唱えた人はデモクリトスだと言われている。デモクリトスは紀元前460年頃から370年頃まで生きていた人だ。デモクリトス以前には原子論が語られていないということは、原子という概念がまだなかったのか、原子論が間違いだと思われていて主張されていなかったのかどちらかではないかと思う。その周辺の出来事を見ながら、「原子」概念がどのように発生しうるかということを想像してみようと思う。

デモクリトス以前の人でターレスと呼ばれるギリシア人がいる。ターレスは歴史上最初の哲学者と言われている。それはウィキペディアでは「彼が「最初の哲学者」とよばれる由縁は、それまでは神話的説明がなされていたこの世界の起源について、合理的説明をはじめて試みた人だという点にある」と解説されている。世界の起源について関心を抱いていたターレスは、この世界が「何から」構成されているかという問題も考えたようだ。ターレスの考えは「万物は水から出来ている」というものだった。

このターレスが「原子」という概念を持っていたのかどうかは記述してある資料がなかった。板倉さんの本にもそのような記述はなかった。だから、ターレスが万物の起源として水を選んだのは、「原子」というものを知らなかったのか、「原子」を起源と考えるのが間違いだとして退けたのかは分からない。いずれにしても、万物の起源は「何か?」という問いから、その解答として「原子」という概念が生まれてきたのではないかという想像は出来るのではないだろうか。「原子」は、現在の最高の電子顕微鏡でも見ることが出来ないのであるから、その存在を五感で感じて、存在を認識したことをきっかけにして概念が誕生したのではなさそうだ。

ターレスが万物の根源を水だと考えたのは、多くのものが水分を含むという経験がそのような主張を生み出すきっかけになったのではないかと思う。だが「すべて」という言葉が含まれる命題は、ある例外が気になるとどうも賛成しがたいものになる。どうも水が見つからない、というような存在が気になると、万物の起源を他のものに求めたくなる。

アナクシマンドロスは「万物の根源は空気である」と主張したらしい。この理由は、板倉さんの本によると「水だって、熱すると気体になるので、<万物の元は空気だ>と言ったほうがいい」という発想があったのだろうと想像していた。またヘラクレイトスは「万物の根源は火だ」と言ったそうだ。これは火が持っている「変化をもたらす力」こそが<万物の根源>だと見た見方らしい。これも一つの見解としてはなるほどと思えるものだ。

このような考え方に対して、根源を一つだと考えるといろいろと例外的に見えるものが出てくるから、いくつかの組み合わせだと考えたほうが論理的な整合性が取れると考えたものがいたらしい。エンペドクレスは「万物の根源は<土と水と空気と火>の4つの元素だ」と考えたようだ。それ以前の人間の説を全部取り入れてそれぞれの説を活かしたものとして、これもなるほどと思えるものだ。この考えは板倉さんによれば「土と水と空気は、それぞれ固体、液体、気体の代表で、火は変化させるものの代表ともいえます」と指摘していて、なるほどこれで「万物」と関連させることが出来るのだなと思える。

これらの考え方には、「元素」という元になるものという概念は現れるものの、その「元素」は水であったり、空気であったり、火であったりと、新しく考え出された対象ではなく、日常生活の経験の中ですでに知られていたものばかりだ。だから、原子論誕生の以前では、万物の根源も経験的な知識を整理することで求められていたように感じる。それはすでに五感で感じてその存在が確認できるものばかりだ。考察の以前にすでに概念が確立されている言葉として「水、空気、火」などというものが使われている。そのようなことを考えると、デモクリトス以前には「原子」という概念はまだ誕生していなかったのではないかとも思えてくる。

板倉さんによれば、デモクリトスは、このような万物の根源の説のどれにも賛成できなかったので、「いろいろ考えた末に、「すべてのものは、<もうそれ以上分けられないもの>、ギリシア語で言うと<アトモンなもの=アトム>から出来ている」と主張するようになったのです」と書かれている。「原子」(アトム)という概念は、このデモクリトスの考察から生まれてきたのではないかと感じる。「原子」というものは、このように論理の展開を元にしなければその概念がつかめないのではないかと思うからだ。それは五感で感じることが出来ないものだからだ。

デモクリトスはどのようにしてこのような発想を得たのだろうか。万物の根源として、すでに知られている具体的なもの(五感で感じられるもの)を設定するとどうもうまく説明しきれないものがあるから、発想を逆転させていったのかもしれない。それ以前の発想では、現実に存在するあるものが「万物の根源」だという見方で、現実に存在するもので「万物の根源」に当たるものを探そうとしていたように見える。だがそれが探しきれないので、とりあえずは「万物の根源はある」という命題を正しいものとして「仮定」してしまって、その命題にふさわしい存在として「何か」をフィクショナルに設定するという発想で「原子」というものを考えたのではないかと想像できるのではないか。

この逆転の発想は、視点を変えるという意味では弁証法的かなという感じがする。内田さんがソシュールを語ったところでも、「物が存在してそれに名前をつける」という発想を逆転させて、「ものに名前をつけることによって、その存在が人間に対する存在として思考の対象になった」という見方と共通するものを感じる。逆転の発想というのは、ものの考え方の技術としては、優れた人物に共通しているのではないだろうか。

さて、「原子」という概念の誕生が、上のようにデモクリトスが逆転の発想によって生み出したものだと言えるなら、それ以前の人々には「原子」という概念がなく、「原子」という対象は見えていなかったといえるのではないだろうか。これはもちろん五感で感じることが出来ないので、現実の目では見えないのだが、それが存在としても考察の対象になっていないという意味で「見えていなかった」のではないだろうか。デモクリトスの考察によって、初めて「原子」というものが考察の対象になってきたとは言えないだろうか。「原子」の概念は、「原子」という言葉の誕生とともに生まれたような感じがする。

この「原子」の概念は、誕生した時は文字通り<アトモンなもの>という「分割不可能なもの」という単純なものではなかったかと思う。考察の過程で「目に見えないほど小さい」という性質や他の性質が加えられて概念の内容が豊かになっていったのではないかと思う。この考察が出来るのも、一度概念として確立されて、それが思考の対象となったからだろうと考えられる。

これは数学における公理論的な展開に似ているのではないかとも感じる。公理論における数学的対象は、概念としては、ある定義を満足するというだけの対象になる。それは実体としてどういうものであるかというイメージを最初に作り出すことが出来ない。ある定義を語る命題を提出して、その命題が真となるような対象として概念化される。だからその対象は、最初のうちはどういうものであるかがまったくつかめない。何かぼんやりとしたものとしてイメージされ、それがいくつかの定理に従うということが理解された後に、だんだんとその姿が明らかになっていく。「原子」というものも、最初は「分割できないもの」というぼんやりとしたものであったものが、いくつかの法則に従うということから、だんだんとイメージがはっきりして概念が完成されていったと見たほうがいいのではないだろうか。

このような想像をすると、「原子」という概念は、対象の存在から発生した「あらかじめ与えられた概念」となっているとは考えられないものになっていると感じる。それは、その概念が「何であるか」という発想(つまり、対象の観察から得られるという発想)から生まれているのではなく、「何でないか」という発想(対象そのものは観察できないが、周辺にある他のものの観察から得られるという発想)から生まれているように見えるからだ。

それは、「万物の根源」として、水ではない、空気ではない、火ではない、それ以外の「元素」でもない、という判断から、これらとは違うけれども、「根源を構成するもの」としてイメージされたように思える。これは、「根源を構成するもの」を観察して、何らかの発見をしたから見つけられたのではなく、それがあると仮定して、その仮定の元に命名されたように見える。これは論理的にはご都合主義だ。本来なら結論として「万物の根源はあるか?」という問いを考えなければならない。もし「万物の根源」がないとしたら、この問い自体が意味を持たなくなる。だが、この問いの答えはあると仮定して、その対象を想像することにしたということは、結論を先取りした、論理的にはご都合主義になるだろう。

この論理的なご都合主義は、多くの場合は間違いとなるのではないかと思う。だが「原子」の場合は、その概念を持つことが、現実の存在の性質を深く捉えることに役立った。人間は、ある種の存在に名前をつけて呼ぶことによって、その存在を深く捉えることが出来るようになってきたのではないだろうか。そして、役に立つ概念だったものが言語規範として生き残ってきたのかもしれない。役に立たない概念は、いつしか誰にも使われなくなって、概念そのものが消えてしまったかもしれない。

「原子」という概念が誕生したときを想像すると、それは言語の発生と同時に見られるように僕には思える。ソシュールが語ることは正しいのではないかと感じられるのだが、他の言語で「あらかじめ与えられた概念」に名前をつけたと考えられるようなものが見つかるだろうか。見つからないからそれがないのだというのは、論理的な帰結としては不十分だ。しかしなかなか見つからないことも確かだ。果たしてそういうものはどこかにあるのだろうか。