他人の原稿に赤を入れることの容易さ


マル激の中で、神保哲生さんが何かの折に「他人の原稿に赤を入れるというのは誰でも出来るんですよね」というようなことを語っていたことが、妙に印象的で頭に残っている。これは神保さんが経験的にそういうことがよくあったということで語っていたことだった。

記者の原稿というのはデスクに回されていろいろと修正されて完成するのだが、そのときの修正に赤ペンが使われるので、それを「赤を入れる」などと言う。これは、そのままの原稿があまりよくないので、よりよいものに修正するというニュアンスで受け取ると、「赤を入れる」方が元原稿を書いた記者よりも優れていると考えたくなる。しかしそうでないことも多いという。

取材力も文章表現能力も記者のほうが上でも、その元原稿に赤を入れるのは可能だという。そして、それは決して恣意的に、デタラメに修正して「赤を入れる」のではなく、ちゃんとした方針に添って修正できるという。この方針は、必ずしもジャーナリズムの原則にのっとったものではなく、商業的に「売れるニュース」になるような方針で修正するとなれば、元原稿を書いた記者のほうがジャーナリストとしてはるかに優れていても、その方針に従った正しい修正が出来るということだ。

他人の原稿に「赤を入れる」ということは、他人の原稿の中の「まずい個所」を探し当てて、それを「まずくない」ように書き直すということを意味する。ある意味では、あら探しをして、そのあらが見えないような工夫をするということになるわけだ。その人が、オリジナルではそれほど感心するような文章を書くわけではないけれど、他人のあらを探すことにおいてはなかなか上手だという文章に時にぶつかるときがある。あら探しが上手だというのは一つの能力かもしれないが、これはあまり上等な能力には見えない。あら探しに長けた人間は、ほとんどの場合建設的で共感できるような話の展開が出来なくなるからだ。文章表現能力が、あら探しをして罵倒するようなところに注がれて、そこだけが成長してしまうからではないかと思う。

神保さんが記者として経験したような経験が、僕にもインターネットの文章を眺めているとそう感じられるようなことがたびたびある。表現としてやや稚拙なところがあるものの、なかなかいい視点から眺めている建設的な主張だなと思うことがある一方で、その主張に対して、その「稚拙な点」だけに的を絞って攻撃・罵倒するようなコメントを見かけることがある。建設的な面を見て、そこで議論すればもっと気持のいい有効な議論が出来るのに、どうしてそんな末梢的なことにこだわるのかなというのが、そういうコメントを見ていつも思うことだった。

他人のあらがまず最初に見えてしまう人間は、そこに口を出さずにはいられないのかもしれないが、それはあまり上等な能力ではないということを知ったほうがいいのではないかと思う。誰でもやろうと思えば出来ることで、思慮深い人はそのような末梢的なことをしようと思わないだけなのだ。それは経験的によく分かることだが、このことを論理的に反省してみるとどうだろうかということに興味が湧いてきた。「他人の原稿に赤を入れる」ということは、ある前提を設定すれば、本当にそのようなことが簡単に出来るという論理的な帰結を求めることが出来るだろうか。経験的によくあることだということは、現実がある条件を満たしていて、それゆえにそのような現象がいつも起こるのだとも考えられる。現実が論理の法則にしたがっているということが、この事実から見えてくるかどうか。ちょっと考えてみたいと思う。

さて、現実の条件の一つとして僕に浮かんできたのは、「文章表現というのは、現実をそっくりそのまま完全に映すことが出来ない」ということだ。これは、絵画などのほかの表現でもそうだろうが、特に言語による表現というのは、それが表現できる側面と、決して表現できない側面とがあると僕は思う。

三浦つとむさんによれば、言語は対象の普遍的な面を捉えて概念化し、概念としての意味を表現として提出するという。言語表現の受け手は、この普遍化・一般化された意味をその言語の語彙として読み取り、それを頼りに具体的に表現された状況を考慮して、普遍的・一般的な意味と結びつく具体的な意味を解釈して、それを具体的な表現として受け取る。これが言語の過程的構造だと捉えて言語の性質を研究するのが三浦さんの言語過程説の立場だと僕は理解している。

言語が事物の普遍的な側面を表現するというのは、ソシュールでも基本的にはそう考えていたように思う。だから、言語を捉える発想としてはこれは正しいものと前提してよさそうだ。この前提が、論理的には言語表現の不完全さを帰結するように思われる。言語は、現実の具体性を具体性そのままで表現することが出来ない。その具体性を、いったん普遍性のレベルで捉えて、たとえば具体的な「赤い」色を見ていても、それを言語で言う時は一般的な「赤い」という表現を使うしかない。それは今目にしている「赤い」を含む、一般的な「赤い」の範囲を語る表現だが、まさに今目にしている「赤い」をそのまま完全に映し出すことは出来ない。

これは言語にとって宿命的なもので、言語を受け取った者の解釈によって、表現者が意図していなかったものを読み取ることは、言語表現の場合はいつでもそのような可能性を持つことが論理的に帰結できる。誤読は常にありうるということだ。

このように言語表現に特有の性質から、解釈によるあら探しがいつでも出来るということが論理的に帰結できる。それは表現者が意図していないかもしれないが、「そうも読むことが出来る」ということから生まれる。これはかつて「差別語」というものを形式的に指摘して糾弾するような行為によく見られたのではないかと思う。だが、このあら探しは、それがあからさまな言いがかりである場合は、今度は逆にそれが無理であることが分かるのでだんだんと淘汰されていくものになるかもしれない。今は、形式的な「差別語」の指摘はあまり見られなくなったので、そのような末梢的なあら探しは淘汰されたのだと思いたいが、そういう揚げ足を取られないように、単に形式的な「差別語」を使わないようにしているだけなら、論理的な認識がまだまだ社会全体のものになっていないのだなと残念に思う。

このような言語の性質からもたらされるあら探しの容易さに加えて、認識の不完全さから来る、それが表現していないこと・あるいは間違って捉えていることへの指摘からくるあら探しも見られる。

これも三浦つとむさんが認識論で語っていることだが、人間の認識というのは、それを感じる感覚が制限されていることから、対象を完全に全面的に捉えることが出来ない。自分が注目している側面から見えることだけ(ある一つの視点から見えるもの)が見えているに過ぎない。当然のことながら、その認識を表現すれば、見えていないことは書かれない。したがって、それが「見えていないではないか」というあら探しはいつでも指摘することが出来る。

問題は、この指摘が本質的なものなのか、それとも末梢的なものなのかということだ。本質的に重要なことであれば、それは建設的な指摘であり、単なるあら探しとは区別される。しかし、それが末梢的であり、その主張の中心的話題からいえば、わざわざ言及する必要もないと判断されたものであれば、むしろ書かれていないほうが正しいのであり、書いていないということを攻撃・非難することは的外れであるといえる。しかしながら、書いていないということが、あら探しとして非難・攻撃のように見えるので、事情を知らない人はそれが正当な批判に見えてしまうかもしれない。特に難しい問題を議論している人にとっては、それが難しいがゆえに、どうしてその事に言及していないかを説明するのも困難であるときがある。

認識の不完全さを指摘して、そこに足りないものを指摘するのは、勝手な解釈で誤読して非難するあら探しとは違うものに見える。だから、この場合は、ある問題に対して表現者の視点よりも、あら探しをするほうの人間の視点に共感している場合は、あら探しを指摘するほうに共感を覚えてしまうだろうと思う。

この場合、議論を建設的に導くには、違う視点を持っている人間が、その視点で新たにあら探しとは関係なく自らの主張を整理して提出することがあったほうがいいだろう。単に文句をつけるだけでなく、違う視点で対象を見ているなら、その視点で見たほうが有効な結果を導くということを説得的に展開しなければならない。そうでなければ、そのような行為が度重なれば、最初は違う視点の提出に注目していても、なんだ単にあらを探して文句をつけているだけじゃないかというような印象をもたれてしまう。そうなると建設的な議論はまったく期待できない。

「他人の原稿に赤を入れる」という、他人の表現の欠点・不足した部分を指摘するというのは、表現と認識の持つ本質的な性質から、いつでもそれが行えるという指摘が出来る。つまり、誰でも違う視点を持つことが出来れば、弁証法の法則に従って、その表現の主張と正反対の結論を論理的に導くことが出来てしまう。あら探しをするには、その表現者とちょっと違う視点さえ持てば誰にでも出来るということだ。

神保さんが経験的に感じていたことは、論理的にもそのような現象が起こりうることが証明できる。つまりウィトゲンシュタイン的に言えば「論理空間」に可能性として表現される命題になるということだ。

このようなあら探しに対しては、表現者の主張に共感する身としては、何か「嫌だなあ」という嫌悪感を感じて、その内容までを検討する気にはなれないでいた。しかし、それが単なる文句をつけるだけのあら探しなのか、それとも違う視点を提出している、建設的な議論に発展させることが可能な「目の付け所」が違うだけなのか、という見方をすれば「嫌悪感」が少しは薄れるかもしれない。

だが、これはあら探しだなと思われる主張は、たいていの場合、つまらない陳腐な視点を提出しているに過ぎず、単にあらを探すために違う視点を見つけただけというふうに見える場合がほとんどだ。本当に感心する共感できる主張というのは、やはり人に文句をつけるような表現ではなく、そこで主張している対象というものを、表現者がどのように独自の感性で捉えたかを語っているものが多い。批判というのは、批判の対象以上の見識を批判者自身が持っていなければ説得力を欠くのではないかと思う。その意味では、批判者として共感できたのは、たとえば佐高信さんなどが僕にはそうだった。佐高さんは、佐高さんが批判している人々よりも、教養の点においても人格の点においても品位が上であり、高い見識を持っていると思えたから、その批判も単なるあら探しではなく、正当で適切な指摘だと感じられたのだと思う。

そういう意味では、あら探しは易しいが、本当の意味での批判はとても難しいといえるのではないかと思う。本当の意味での批判を展開するよりも、批判と関係なく、自らの主張をまとめたほうがきっと易しいだろうと思う。