新しい概念の獲得は思考の展開にどのような影響を与えるか


ソシュール的な発想で考えれば、言語は、混沌として区別のはっきりしない現実に対して、言語で表現することによって概念の差異をはっきりさせ、現実にある構造を持ち込んでそれを理解しようとする。言語の発生と同時に、現実の対象を概念的に捉えることも可能になり、それが思考の対象ともなると考えているようだ。

それを言語で捉える前は、それが存在していたとしても、その言語を持たない人間にはそれが見えていない。devilfish という言葉を持たない人間には、devilfish という存在は見えていない。従ってそれを考察の対象にすることも出来ない。思考の展開には言語が必要だというのは、野矢茂樹さんが語るウィトゲンシュタインの発想でもあった。三浦つとむさんは、かつてヘーゲルを説明した文章で、思考の展開というものを概念の操作で説明していたように記憶している。概念を操作するとしたら、そのラベルとしてつけられている言語を操作することにもなり、ウィトゲンシュタインが語る「論理形式」に従った操作のようなものになるのではないだろうか。違う側面から思考というものに切り込んださまざまな発想が、最終的には似たところに落ち着くというのは、それが真理である可能性が高いのではないかと思う。

概念の獲得は、思考の展開に影響を与え、豊富な概念を理解している人間は、現実を広く深く捉えて思考することが出来るようになるだろう。そして概念が言語を通じて理解されるとしたら、語彙を豊かに持っている人間ほど思考も豊かになるといえるのではないかと思う。この語彙というものは、現在生きている我々は、言語の意味も言語を通じて教育される。その概念の理解は、現実の経験を通じてやられた方がより深い理解が出来るようになるだろうが、言語なしに経験を反省して言語を作り出すというやり方ではなく、まず言語としてのある言葉の提出があって、その言葉の意味を理解するために経験に助けを求めるという順番になる。

ある種の言葉は日常的には単純な意味を持っていて、それを辞書的な意味として理解している場合が多い。しかしその単純な意味では複雑な現実を充分思考することが出来ない場合も多い。そこで同じ言葉でありながら「術語」と呼ばれる専門用語(学術用語)が新たに作られることがある。これは新たな概念が作られて、その概念で現実を切り取ってより複雑な構造を把握しようとするものだ。この「術語」を理解したとき、人間の思考の展開はどのような影響を受けて、現実をどのように深く広く把握することが出来るようになるかを考えてみたいと思う。

マル激で宮台氏がよく語る言葉に「連帯」というものがある。これは辞書的には、「二つ以上のものが結びついていること」と説明されていて、労働組合で言えば、同じ企業内の労働者が協同で何かの要求をしたり行動をしたりすることを今までの日本では「連帯」と受け止めていたようだ。

これに対し、サンディカリズム((フランス)一九世紀末から二〇世紀初頭のフランス・イタリアなどの労働運動における労働組合至上主義的運動と思想。労働組合による経済闘争と直接行動を重視し、最終的には、ゼネストで革命を成就しようとする。一切の政党活動を否定し、革命後も社会主義国家を認めず、徹底した組合中心主義を貫こうとする立場)の伝統を持っているフランスでは、「連帯」の概念は同一企業内におけるものとしては捉えられていないそうだ。

フランスにおける「連帯」とは、労働組合と、直接的利害当事者である社会的弱者とが「連帯」するものであるという。若年労働者が著しい不利益をこうむるような法律が通ろうとするならば、労働組合と青年たちが「連帯」してそれに反対するということが真の「連帯」になるという。労働組合は直接的利害当事者ではないかもしれないが、そのような社会的不公正が行われれば、その結果は必ず労働者にも波及し、そのときになって労働組合だけが抵抗しても遅いという考えがあるように思う。そのような将来を予想するならば、広く社会的に「連帯」することが労働組合にとっても利益だと考えているのだろう。それがサンディカリズムの伝統ではないかと思う。

このような「連帯」概念を持っていれば、労働組合の組織率がほんのわずかであっても、労働組合の行動は社会的な影響力を持ち、それこそゼネストを打てるほどの力を持ちうるともいえるのだろう。それに対して、「連帯」の概念が同一企業内の労働者のものに限られている、狭く単純な概念になっているとどうなるだろうか。青年労働者にとって著しい不利益となっている派遣労働を正当化する法律が提出されたときも、それが企業内労働者にとっては直接的な利害をもたらさないということから、労働組合がこれを放置し、抵抗しないという結果に結びつくだろう。若年労働者との「連帯」は日本の労働組合の概念とはなっていないのだ。

派遣法に関しては、企業内労働者にとっては、その賃金の引き下げを短期的には防ぐという意味で、むしろ派遣法を通すことが利益のように映ってしまって、日本的な「連帯」概念では、かえって派遣法に賛成するというような逆転した結論まで出てきてしまったようだ。しかし、この判断は、やがては正社員の労働強化にもつながり、結果的には若年労働者の不利益が企業内労働者の不利益にも浸透してくるという皮肉な現状をもたらした。

もしフランス的な「連帯」概念を日本の労働組合が持っていれば、派遣法が提出された時点でこれの問題点を指摘しそれに反対しただろう。しかし、「連帯」のより深い概念がなかったために、単純に企業内労働者だけで「連帯」する道を選ぶ思考をしてしまったというふうに見える。フランス的な「連帯」は、サンディカリズムというものの伝統がなければ把握できないもので、一つの学術用語のようなものと捉えられるだろう。そのような概念は、複雑で難しいものではあるけれど、労働組合を指導する立場の人間にはこれを学ぶ必要と義務があるのではないかと思う。それがなかったことの問題を宮台氏は指摘していた。

仮説実験授業では、科学の最も基本的で重要な概念を、日常用語の範囲での理解ではなく、科学の「術語」としての理解を深めようとする。そうすることによって現実の捉え方が変わってくる。より深く広く捉えられるようになる。複雑な構造が、それまではぼんやりとしか見えていなかったとしても、新たな「術語」概念を獲得した後には、それがはっきりと見えてくるようにするのが仮説実験授業のひとつの目的でもある。

原子の概念というのは、それが物質を構成する究極の単位であるということも重要だが、より本質的なこととしては、「原子は無から発生するものではない」事と「それが無に帰するようなものではない」ということではないかと僕は感じている。例外的には崩壊を起こして違う原子になってしまうものがあるけれど、概念としては、原子はそれが存在している限りはいつまでも存在しつづけるということがいえる。

この概念がどのような思考をもたらすかというと、物質の重さの保存性というものを論理的に導くことになる。物質からそれを構成する原子を取り去ったり、あるいは原子を付け加えたりすることなく、その形を変える(固体を砕いたり、水に溶かしたり、縦にしたり横にしたり、人間では片足で立ったり、食べ物の状態を食べたりとか)だけであれば、重さは変わらないという結論を論理的に導く。仮説実験授業では、この論理の帰結が現実にも成り立つのだということを多くの実験を通して経験的に確認する。そうすることによって、目に見えない原子の姿を想像の中で見ることが出来るようになり、それが原子の概念となっていく。

原子の概念を持っていると、物が消えてなくなったように見えたり、物が及ぼす影響が違うのではないかと思えるような状況にぶつかっても、原子としての出し入れがなければ重さは変わらないのだという、複雑な構造を重さという視点で正しく把握できるようになる。思考の展開にとって有効な概念を持っているというのは、それが単純な概念で捉えている時は、現実が不思議で訳のわからないものだという感想しかもてないが、適切な概念で考えれば現実にある種の現象が成立している合理的な理由がよく分かるという感覚をもたらすことになるだろう。

仮説実験授業研究会の会員である牧衷さんは、力学の学習において、「慣性とは加速度0(ゼロ)の運動のことだ」という概念を持ったときに、力学全体の見通しが開けてきたという経験を語っていた。この場合は、加速度といった場合に、それは何らかの意味で速度が変わる状態が言葉のイメージとしてこびりついているので、それが変わらない0(ゼロ)だということを概念化することに難しさがあって、なかなか概念が獲得できなかったのではないかと感じる。この「0(ゼロ)の概念」というのは、案外と難しいのではないかと思う。

この0(ゼロ)というのは、筆算の計算ではどうしても必要になるので、小学校で筆算を習うときには必ず教えられるのだが、それが単に筆算での計算操作の対象にとどまるなら、本当の意味での豊かな概念としての0(ゼロ)の意味を獲得したとはいえないのではないかと思う。普通の数は「ある」という存在を前提として概念化されている。これは経験からその概念をイメージしやすいので獲得も容易だろう。難しいのは、10進法という構造の下にその数を捉えることだ。

これに対して0(ゼロ)というのは「ない」ことを基本的なイメージとして概念化されている。「ある」ことは直接的な経験として想像しやすい。しかし「ない」ことは、最初に何かが「ある」ことを想像した後に「ない」ことへの状態の変化を通じて理解することになる。この0(ゼロ)が、「ある」を基本とした量の体系の中に組み込まれる数であるという概念をつかむことはとても難しいのではないかと思う。

0(ゼロ)の学習では、0(ぜろ)が「ない」ことを表すのに、それが「0個ある」という無理な言い方を習ったりする。「ない」ものをあたかも存在しているかのように扱うという発想の転換が0(ゼロ)の難しさにある。0(ゼロ)は現実には存在していない。しかし数としては、頭の中の観念として存在している。そして、これが存在していることによって数の体系は完結した全体的な構造を獲得する。すべての数が対等で一般化された対象として扱えるようになる。本来なら、現実の具体的な差異を示す複雑な存在というものが、量を示す数で把握すれば、どれも同じものとして計算の体系の中で取扱いが出来るようになる。複雑な構造の複雑性を失わずに把握する方法を与えてくれることが、0(ゼロ)という概念の重要性ではないだろうか。これは小学生で習うということでは簡単なもののように見えるが、その本当の概念を獲得するには、「学術用語」を理解するときのように深く考えなければいけないのではないかと思う。(0の掛け算や割り算を、単に計算規則として記憶するのではなく、その構造を把握することを考えるとこの難しさが感じられるのではないか。)

新しい概念を獲得すると現実の見え方がすっかり変わってしまうのを感じるときがある。そして、この新しい概念の獲得は、ほとんどの場合言語を通じて行われる。僕は新たな概念を自分で作ったことがないので、概念が誕生する瞬間の経験はないが、概念を新たに獲得した後の経験はたくさんある。言語の学習とともに新たな概念を獲得し、その新たな概念が現実を深く理解させてくれるのを感じる。それはまさに、言語によって現実に深く切り込み、現実を切り取ってよりはっきりした姿を言語が見させてくれているように感じる。言語にそのような力を感じるというのは、ソシュールが語ることが正しいのではないかという確信を抱かせるものである。