社会における「合意」と「信頼」(個人の場合とどう違うか?)


宮台真司氏は「連載第八回 社会秩序の合意モデルと信頼モデル」では、「合意モデル」と「信頼モデル」という考察で、社会が持つ秩序(確率的に低い状態が実現すること)の出発点となるものを考えている。

社会が定常性という秩序を持つのは、ある種の状況の変化が特定の選択肢をめぐってループする関係にあるものとして、特定のものが現実化することによって確率的に低い状態が定常的に維持されるからだと考えるのがシステムの考え方だと僕は理解した。このループは、そのどの状態が出発点になろうとも、ループである以上は、いったんその流れが生じれば安定的に定常性を保つようになる。だから、ある意味ではどこが出発点でもかまわないのだが、論理的な整合性が理解できる出発点として「合意」と「信頼」というものが想定されているように感じる。

内田さんが語る構造主義では、現実の社会がどうなっているかは、現実のそれを観察することで解釈できるが、それがなぜそうなっているかという出発点は決して知りえないものとして、こうなっているからそうなのだとしか言えないものとして提出されていた。ただ、原理的には決して解明できないものの、その出発点としての「零度」の探求が構造主義であるとも語られていた。これは、フィクションとしての、数学で言えば公理のようなものを設定して、論理の展開のために便宜的にそう考えてみて、もしそれで論理的整合性が取れるなら、そのようなものを「モデル」として設定することで、現実の一側面の理解を深めようとしているように思われる。

宮台氏がここで語る「合意モデル」と「信頼モデル」も、そのようなフィクショナルな設定がその後の論理展開をするための道具として提出されているように思う。だから、このような単純な対象がそのまま現実の複雑な社会に存在すると理解してしまうと間違えるだろうが、その捨象した部分と抽象した部分を具体的に意識し、その捨象と抽象の範囲で現実がよく反映していると思われるような現象の判断を厳密に考えれば、現実の社会についての理解に役立てることが出来るのではないかと思う。

宮台氏が「合意モデル」の典型として提出するのは、ホッブスが主張するところの「自然権の譲渡」の合意が社会秩序の出発点に置かれるものだ。「自然権」というのは、「人が生まれながらにして持っているとされる権利」で、これを無条件で行使することが許されると、自分の利益のために行動することが一つの自然権の行使になり、「万人の万人に対する戦い」が生じたりする。この戦いは、自然権をそのまま放っておけば、常にこの戦いに備えなければならず、かえって自然権の行使がままならなくなる。だから、一人の巨大な権力を持った人間にその自然権を譲渡して、万人は自然権の行使の制限を受け入れるほうが、平和で安全な社会が築けるということに合意して、それを譲渡することを出発点として社会の秩序が形成されたと発想する。このような想像上の社会をモデルとして現実の社会を考えようというのが「合意モデル」という考え方になる。

宮台氏に寄れば、この考え方は現在では否定されているという。宮台氏は次のように書いている。

「今日的な社会システム理論は絶対にそうは考えません。社会の秩序の出発点には(自然権譲渡などへの)合意があるという思考。これはしかし、秩序のありそうもなさを、合意のありそうもなさと転送しただけで、合意自体がありそうもない以上、解決になりません。」


僕も、現実の社会が合意によって形成されたというのは、解釈としては論理的整合性が取れるかもしれないけれど、それは大事な点が捨象されているような気がする。「合意モデル」の「合意」というのは、個人の「合意」をそのまま社会の「合意」に単純に広げてしまっているように感じるからだ。ホッブスの言うような「合意」は、社会によって合理的な考え方が出来るように教育された個人が、よく考えた上で出す結論として合意することの出来るもののように思われる。つまり、すでに社会の秩序が確立されている状況で生きている個人が出来る合意であって、社会が誕生する出発点の段階で出来る合意には見えない。

「合意」によって形成される秩序というのは、すでに社会に秩序が存在し、その秩序ある社会で合理性を身につけた個人が行うものとして考えたほうが論理的な整合性がある。合意による秩序は、すでに秩序が存在するという前提のもとに確立される秩序ではないかと思われる。「合意モデル」というのは、秩序ある社会の中で、ある種の特殊な分野での秩序の確立を説明するときには、その分野での合意が成立しているかどうかに注目して説明できるというようなモデルになっているのではないかと思う。

社会全体の秩序の確立を説明するためのモデルとしては現在の社会学では「信頼モデル」というものが使われているという。しかし、この「信頼」という言葉も、個人における「信頼」を、範囲や数を拡大しただけの単純な概念で受け止めると、すでに「信頼」が確立されているから社会の「信頼」ももたらされているという、「合意モデル」と変わらない構造になってしまう。社会における「信頼」と個人の場合の「信頼」は概念が違うように僕には感じる。

個人の場合の「信頼」は、相手が信頼するに足る人間であることを根拠にして起こってくるものだ。つまり人間に対する事後的な評価によって「信頼」があるかどうかが決まる。しかし、社会における「信頼」は、素性の分からない一般大衆に対する「信頼」が問題になる。相手を知った上での「信頼」ではない。

一般大衆を「他人」という言葉で置き換えると、「他人」への信頼は、「他人」がどう振舞うかが予想できないということから信頼が揺らぐことになる。逆に、「他人」の振る舞いが自分の分かる範囲内に収まるものであれば、それを「信頼」の根拠にすることが出来る。相手の振る舞いが予測できないものであることを「偶発性」と宮台氏は呼んでいるが、その「偶発性」は、自分の振る舞いによって変わったりするので、自分の振る舞いとそれに対応する相手の振る舞いと、「偶発性」が二重になっていることに注意を求めている。

この偶発性をコントロールして「信頼」にまで持っていく考え方として、パーソンズは「価値の共有」という発想を提出しているようだ。しかし、これは「信頼」の根拠を「価値の共有」という「合意」に求めているという点で、「合意モデル」と変わらないと宮台氏は指摘している。社会の「信頼」が個人の「合意」を出発点として形成されるというのは、現実のモデルとしては、すでに「信頼」が成立していることを前提として「信頼」を説明するという、数学で言うトートロジー(同語反復)の主張になってしまう。

個人の「信頼」を基礎にして考えると、社会の「信頼」は定義できない。個人と関係なく社会の「信頼」を考えるなら、それはどのような概念(定義)になるだろうか。宮台氏によれば、それは「根拠のない循環」と語られる。社会における「信頼」は、相手が信用に足るものなのかというような根拠などないのだ。それは単に、以前も信頼できたからこれからも信頼するという、信頼ができたという経験の繰り返し(循環)によって信頼されているに過ぎない。

この「信頼」の概念は、まったく「信頼」に値しないような、頼りのない根拠しか「信頼」にはないのだと言っているようにも聞こえる。しかし、個人とは違う社会の「信頼」について考えると、このように考えざるを得ないのではないかという感じもする。何かの根拠があって社会に「信頼」が生まれたのだという論理の展開は、その根拠がどうして生まれたかということを追求していくと、どうしても何らかの合意(相手の理解)を元にした根拠にならざるを得ない。だが、それは「信頼」があってこそ生れる合意(理解)ではないのかとも思える。根拠があると考えれば、それはトートロジーという循環にならざるを得ない。現実に「信頼」があることが観察される状況を見ると、現実がそうなっているから、どこかで「信頼」が生れたのだろうけれど、その根拠は誰にも分からないとしかいいようがない。このような意味で「根拠のない循環」として語るしかないのではないかと思う。

「信頼」は、その出発点は、根拠なくただ信じているというだけの宗教的信仰のようなものだったかもしれないが、我々に関心があるのは、それが安定的に維持されて社会の秩序を保っているということだ。「信頼」が生じた根拠については分からないが、それが安定的に維持されているというメカニズムについては我々に知りうることがあるかもしれない。これを解明するのが社会学という学問だということなのだろう。

「信頼」は根拠のない循環なので、ときどき破られることがある。もし循環が破られたとき、「信頼」も失われてしまうようなら、社会の秩序も壊れてしまう。秩序の維持が社会にとって価値があると考えるなら、循環が破られたときにも「信頼」が維持されるようにメカニズムがコントロールできれば「信頼モデル」の発想は非常に役に立つものになるだろう。それは果たして可能だろうか。

根拠のない循環によって維持されている「信頼」は、「論理的に確認できない前提に支えられています」と宮台氏は語っている。この前提を「コミュニケーションを浸す暗黙の非自然的な前提」という言葉でも語っている。この前提が存在していると、それが破られるような出来事が生じたとき、それは例外的な出来事だという処理が出来る。つまり、出来事が生じただけでは「信頼」は破られないという状況を保つことが出来る。社会の秩序は維持されるわけだ。

しかし、その出来事が例外的なものではなく、それが普通だという認識を多くの人が持つようになると、根拠のない循環そのもののイメージが変わってきてしまう。そうなると「信頼」そのものも崩れてしまうだろう。社会的な不安が広まってくると、その不安によって失われる「信頼」がどのようなものになるかを考えることが重要になるだろう。不安のために「信頼」を失うのではなく、「信頼」を基礎にして不安を鎮める方法を模索したいものだ。

「信頼」が失われているのではないかという指標として、「合意」を求める声が大きくなるということを観察してみるのは便利ではないかと思う。宮台氏は、例外的な出来事の存在を許さないような気分は、合意を求めるような方向に行くと語っているように僕には感じた。つまり、ある種の道徳的なルールを破った人間がいたとき、「信頼モデル」の考え方では、たまたま道徳的な信頼ルールを破った例外者が出てきたというふうに捉える。それは例外者であるから、道徳のルールそのものの信頼を破ったわけではない。ルールを信頼する多数者がまた根拠なき循環によって信頼を取り戻す努力をすればいいということになる。

しかし、このルールを破った不届き者を許さず、ルールを100%完全に守らせるというふうに発想すると、道徳的なルールを法律にしてしまえと考える方向へ行く。「信頼モデル」から「合意モデル」へと発想が転換する。宮台氏は、近代社会は、もはや「合意モデル」へと退却することは出来ないと語っている。それは自由が失われてしまうからだろうと思う。この自由は他者を許容することから幅広い懐の深いものになるのだと思う。自分とは違う考え方や発想でも、それが社会の秩序を乱すほどの影響を与えないものであれば、信頼は失われないのだという判断から許容することが「信頼モデル」の社会の維持には必要なのではないだろうか。違う考えのものを許さないという、狭量な生真面目さが、社会の「信頼」を壊しファシズムのような、すべての人間に偏向した考えの合意を強いる、非近代的な社会を生み出してしまうのではないだろうか。現実の社会が、「信頼モデル」という抽象(捨象)にふさわしいものになるように努力したいものだと思う。