選択前提理解のための「自由」の概念


宮台真司氏は「連載第7回 選択前提とは何か」の中で「自由」の概念について詳しく説明している。これは「選択前提」という言葉の理解のために、その「選択」が「自由」に選べるということの意味の理解が必要だからだ。「自由」に選べないような、これしか選択肢がないというような「選択」は、本来の意味での「選択」とは呼べないからだろう。

この「自由」については、三浦さんも何回も紹介していたが、ヘーゲルの「必然性の洞察」という言葉が「自由」の本来の意味(概念)であるという理解がある。「必然性」というのは、「必ずそうなる」ということであって、そこには「選択の余地はない」というニュアンスもある。そうすると「自由」もないのではないかという感じもしてくるのだが、この「自由でない状態がもっとも自由である」という、それが「自由」の最高段階だという認識は、弁証法的な把握であり、現実を深く広く認識したものだと思われる。

必然性を洞察することが出来る人間は、何らかの行動において、自分が操作したい対象がどのような必然性に従うかをよく知っている。自分の目的に合うように対象を操作したいと思ったとき、その目的では絶対に操作できないという必然性が分かれば、賢い人間なら目的の方を変更するだろう。あるいは対象をそのままにせずに、目的を達成できるように対象に手を加えて変化させるというようなことを考えるだろう。あくまでも目的達成にこだわって、無理やりにそれを扱うということはない。

「自由」というものを、自分の欲望を達成するためにわがままに恣意的に振舞うというような意味(概念)で理解すると、それが達成されないときに、そのような状態は「不自由」であって「自由」ではないという感じがする。それは欲望に支配されている状態であり、欲望からは「自由」になっていないと判断される。

かつて羽仁五郎さんは、「自由と規律」という言葉を批判して、「自由」と「規律」を対立する反対物として認識するのは間違いだと指摘していた。「規律」に従わない、勝手気ままが「自由」だという感性を批判したのだろうと思う。これは正しくは「自由が規律」なのだと語っていた。つまり、自分が自分の目的を達成するために必要な行動をよくわきまえており、「規律」というルールを目的にかなうように利用できている状態こそが「自由」にふるまっていることになるのだと主張していた。結果的に「自由」であることが確認されることが「規律」というルールを達成するという関係にある。これが「自由が規律」だという意味だった。これも「必然性の洞察」という「自由」を語っていることになるだろう。

「必然性の洞察」が「自由」だという認識(意味・概念の理解)は、現実の深い把握であり正しい認識であると思う。ただ、このように表現された「自由」は、その概念を運用して思考を展開するのはやりにくい。あまりにも抽象的過ぎて、それを現実に応用するということが難しいように思われる。意味の概念のときもそうだったが、これを運用して思考を展開するには、その機能面に注目して、機能が現実に発見される現象にその概念の適用が出来る存在が見られるのだとする発想が役に立つだろうと思う。そのような機能によって「自由」を理解するという解説が、宮台氏のこの回の講座には見られる。

宮台氏は、「自由」の機能的側面を理解するのに、それを選択前提の段階と結び付けて、ある種の選択が「出来る」時に「自由」が、「出来ない」時に「不自由」が存在するというふうに、それが「出来る」か「出来ない」かという機能にしたがって「自由」の存在を理解するという概念の理解を解説している。

選択前提の段階は3つの段階に分けられ、それぞれの段階での「自由」「不自由」が解説される。これは「自由」を直接理解するよりも、「不自由」のほうが直接的な理解がしやすいという。これなどは、概念の理解が実は、その概念が語る対象そのものを捉えるというよりも、そうでないものを並べて相対的にその概念の位置をラングの中で位置付けるという、ソシュールの「価値」の概念が思考の展開においては役立つという一つの例になっているのではないかとも感じる。

選択前提の3つの段階について宮台氏は次のように書いている。

「選択には前提が必要です。まず、選択領域、すなわち選択可能な選択肢群が与えられていなければなならない。次に、選択領域から現に選べなければならない。後者は、選択チャンスがあるので選べるという水準と、選択能力があるので選べるという水準とがあります。
以上をまとめると、選択前提には三種類があります。第一は「選択領域」。第二は「選択チャンス」。第三は「選択能力」です。ちなみに前回紹介した「構造」概念は、選択前提の中でも、第一の「選択領域」を与える先行的選択という機能に注目したものでした。」


「選択領域」「選択チャンス」「選択能力」という言葉で語られる3つの段階に対して、それぞれ「自由」「不自由」にも3つのレベルが対応する。これによって「選択前提」という複雑な意味を持つ概念の正確な理解を図ろうというわけだ。

「未開社会には飛行機で移動するという選択肢がありません」ということの例で、「選択領域」がない場合の「不自由」を宮台氏は語る。しかしこの「不自由」は、社会に対して大きな影響を与えることがないので、「不自由」がマイナスの評価としては働かない。選択肢がないような選択は、それが存在しないという前提があるので、それが選べるはずがないという論理的な帰結をもたらす。そういう意味で「不自由」ではあるが、これは「自由」の欠乏を感じる「不自由」ではなく、その状況を外から眺めている、より高い段階の「自由」を手にしている人が認識できる「不自由」だ。未開社会に住んでいる当事者の人々は、そのような「自由」の存在を知らないので、その「不自由」を主体的に感じることは出来ない。「不自由」であっても、その欠乏感に苦しめられることはないのだ。

「不自由」の欠乏感に苦しむのは、もう一つ高い段階の「自由」が手に入らないときになる。「選択領域」は示されていてそこにある(つまり「選択領域」においては「自由」だ)のだが、それを手に入れる手段がないために「選択チャンス」において「不自由」を感じるというのは、その欠乏感に苦しめられることになる。それが「欲しい」という欲望は感じるのに、それが手に入らないという欲望の達成が邪魔されるという意味での欠乏感だ。

さらに、もう一つ上の段階である「選択能力」の問題では、「選択領域」も「選択チャンス」も「自由」に手に入れられるのに、何を選ぶかの最適な判断ができずに苦しむという「不自由」の問題が出てくる。この3つの段階のそれぞれで、目的にかなう選択が出来れば、それは完全な形での「自由」を手にしていると考えられる。そしてそれはヘーゲルが語る意味での「必然性の洞察」と重なる現象ではないかと思う。「必然性」の洞察の具体的な理解は、このような「選択前提」の3つの段階に対応する「自由」がすべて達成されたときと言えるのではないだろうか。

この「自由」概念は、社会学的な考察においては有効な思考の展開をもたらす。社会の発達の指標に応じて「選択前提」の段階が対応すると考えられるからだ。「選択領域」として新たな分野が開けてくるというのは、新発見・新発明の時代に対応すると思う。進歩の最初の段階が、「選択領域」の開拓というものになり、これによって人間の「自由」は拡大される。

「選択領域」の「自由」の拡大が、「選択チャンス」の「自由」に結びついてくるのは、経済的な発展によって多くの人にチャンスがもたらされるという、宮台氏の言葉で言えば「近代過渡期」に特徴的なものになるのではないかと思われる。日本でいえば、高度経済成長期で、人々がだんだんと豊かになり、それまでは贅沢だと言われていたさまざまな商品が手に入るようになってきた時代で、それを手に入れるという「選択チャンス」が社会に広がってきたときが「選択チャンス」の「自由」が拡大した時代だといえる。

そして大部分の人に「選択チャンス」が示されたときに、何が最適な選択かという判断の問題が生じてくる「近代成熟期」の特徴が「選択能力」の「自由」が問題になる時代と言えるだろう。現在の日本がそのような時代だと宮台氏は語っている。これに対しては、就職氷河期などといわれてきた若年層は、選択の余地のない就職という現実に、とても「選択能力」の「不自由」の問題ではないという感覚もあるかもしれない。むしろ選択の余地のない現実は、「選択領域」の「不自由」の問題ではないかと感じる人もいるだろう。

しかし、日本が「近代成熟期」だという判断は、日本の中の相対的な感覚の問題ではなく、日本が世界の中の先進国(G8の中の一つ)であるという判断から来るものだ。選択領域の幅が、後進国と呼ばれる国と日本では絶対的な違いがある。その相対的な位置付けからいえば、日本はやはり「近代成熟期」として評価されるだろう。

秋葉原の事件によって明らかになった若年層の「選択領域」に関する「不自由」への怒りというのは、「近代成熟期」という時代に関わる問題というよりは、宮台氏が語る「アノミー」の問題として理解したほうが日本社会を理解するには正しいのではないかと思われる。「アノミー」については宮台氏は次のように解説している。

「デュルケムは『自殺論』で、金持ちが急に貧乏人に転落して自殺する場合と、貧乏人が急に金持ちに成り上がって自殺する場合があることを発見します。共通して、従来までの前提が当てにできなくなるがゆえの混乱に由来すると見倣し、それをアノミーと呼びます。
従来用いてきた手段(金銭)の不足も、従来抱いてきた目的(金持ちになる)の不足も、確かに混乱を招き寄せます。後にマートンが前者を「機会のアノミー」、後者を「目標のアノミー」と命名しました。今では「手段のアノミー」「目的のアノミー」とも言います。
選択連鎖の概念を持ち込めば、選択連鎖の一部を構成する、選択前提と選択の特定の組み合わせにおいて、選択前提に関わるリソース不足が目的のアノミー、選択に関わるリソース不足が手段のアノミーです。手段は下位手段にとっての目的なので、相対的な概念です。」


従来の日本であれば、どのような仕事であれ、一生懸命まじめに勤めることで、ある意味では「近代過渡期」の恩恵を受けるような「幸せ」とも呼べるような生活が期待できた。どのような選択をしようと、その選択に応じたチャンスを手にし、一定の満足が得られた。しかし、その前提が崩れて、一定の満足どころか、生きるだけでもたいへんな、しかも人間扱いされないひどい労働状況が「派遣法」をきっかけにしてもたらされた。これはそれまでの前提条件が崩れた「アノミー」として理解したほうが正確なのではないかと思われる。

若者が「自分探し」に苦しんでいた頃は、「近代成熟期」の選択能力の欠如(何が最適の選択かが分からない)という「不自由」に苦しんだ時代で、派遣法によるひどい労働状況の仕事しか選べないという現在の状況は、近代以前に時代が逆戻りしたのではなく、近代成熟期でありながらそれまでの前提が通用しなくなった「アノミー」の時代だと理解したほうがいいのではないだろうか。時代が提出する「不自由」に苦しむ人々は、それが苦しくてもそれに耐えて未来を夢見ることが出来る。しかし「アノミー」に苦しむ人々は、自殺などの暴発的な状況を引き起こす恐れがある。そのような意味からいっても、現在の日本は「アノミー」の時代だと認識したほうがいいのではないだろうか。