機能的側面に注目した「宗教」と「他者」の概念


宮台真司氏が「連載第九回 予期とは何か?」で触れていた「宗教」と「他者」の概念についてもう少し詳しく考えてみようと思う。宮台氏は、ここで「宗教」について「宗教とは、前提を欠いた偶発性を、無害化して受け入れさせる機能的装置です」と語っている。

ここで言う機能とは、「そのままでは不安を惹起する」「前提を欠いた偶発性を「世界体験」や「現にある社会」からかき集めて、「神」や「英雄」に帰属し、理解と儀式の対象にすることで不安を鎮める」というものだ。この宗教の定義(概念)は、極めて一般理論的な言い方ではないかと思う。あらゆる宗教に対してこの言い方が当てはまり、それは文脈自由なものとして、機能的側面を語りたいときに有効となる。つまり、宗教という概念を論理展開のための道具として使うには扱いやすい概念となっているだろう。

しかしこの概念は、一般理論的であるがゆえに、普通の日常用語としての宗教というイメージだけを持っている人には、なんでこれが宗教なんだという引っ掛かりがあるのではないかと思う。日常用語としての宗教は、このような抽象された言い方ではなく、いつでもある特定の宗教と結びついたイメージで語られるのではないだろうか。それはキリスト教であったり仏教であったりするだろうが、宗教というのは、そのような具体性のイメージが普通は強く出てくる概念ではないかと思う。

僕にとっての宗教はキリスト教でイメージされる。若い頃に半年くらい教会に通った。もう少しで洗礼を受けて、本物のキリスト教徒になろうと思ったことがあった。遠藤周作の一連のキリスト教に関する作品を読んで、自分なりにイエスが神であるという理解もしたと思っていた。イエスは奇蹟を起こしたから神なのではない。何があろうとも、最後まで自らを信じた人間に寄り添っていたということが奇蹟的なのだと感じていた。

残念なことに、教会で出会うキリスト教徒の人々があまりにもいい人でありすぎたので、自分は彼らのように心からの善人になることができないという思いが生れてきて、彼らの仲間に入れないという諦めからキリスト教徒になることを断念してしまった。今の僕はもう信仰を持とうという思いは生れてこないのではないかと思っている。宗教を相対化して見るようになってしまったからだ。だから、いまの僕には、宮台氏が語る宗教の概念はよく分かる。そのように機能に注目する視点を持つことが容易に出来るのを感じている。

宗教に対して、主体的に信仰の対象として受け止めている人間は、宮台氏の上記の定義を実感として理解することは出来ないだろう。客観的にそのような機能があることが見えたとしても、それは神がそのような力を持っているから、不安を静めるというようなことが出来るのであって、それを逆転させて、「不安を鎮めるため」という機能のほうが先行するとは考えられないだろうと思う。しかし、客観的な視点を持てば、宗教はそのような機能を持つものとして定義されるのに賛成するのではないかと思う。

この定義は、社会の秩序を保つためのループをもたらす装置として宗教の働きを捉えることを容易にする。概念の運用という点で、システムの秩序を理解するための論理を展開できる。この論理が展開できれば、宗教という装置が利かなくなった時代に、それがいままで担っていた秩序の維持という機能は、果たしてどのようになるのかという論理の展開を考えることが出来るだろう。

宗教を主体的に感じて生きることはすばらしいことだと思う。それは気持の高揚と幸福感を与えてくれるだろう。しかし、一回宗教を相対化して理解してしまった人間は、もはやそのような主体的な信仰にもどることは出来ない。そのように、不安を鎮める装置としての宗教が死滅したとき、「前提を書いた偶発性」はいかにして、決して解明できない前提を理解したと思えるようにするのにどのような手が使えるだろうか。その場合は、不安の中で恐れることしか出来ないのだろうか。

宮台氏が語る社会学の学習が、このような偶発性の必然性の理解をさせてくれるなら、それを受け止めて不安を解消できるようになるだろうか。中途半端な理解では、ますます不安が高まってしまいかねないので気をつけなければならないと思う。

宮台氏が語る機能としての宗教は、かつて社会を支配した「イデオロギー」と呼ばれるものにも似たような構造があったのを感じる。「イデオロギー」は、ちょっと考えると合理的な思考によって得られた理論的な結論を、正しいがゆえに信じていたように見える。しかしよく考えてみると、その出発点となる主張は、根拠なしに(証明なしに)信仰のように信じられているだけのものではなかったかと思う。

社会はプロレタリアートブルジョアジーに分断され、真理を獲得したプロレタリアートが社会の支配者となる時代が訪れる、というのはそれが正しいという根拠はどこにもなかった。ある意味では、正しくあって欲しいという願望は強くあったものだろうと思う。しかし、結果的にはこのような願いはかなえられなかった。でもあの時代に、このようなイデオロギーに取り付かれた人間は、このイデオロギーを信じていられた限りにおいては、信仰に生きた宗教者と同じくらいに幸福感をもてたのではないかと思う。

人間の生活には、理解できないことや理不尽を感じることは数多い。それが理解できないままに自分に関わってくると、人間はそのような矛盾に押しつぶされてしまうだろう。それに耐えてがんばるためには、根拠がなかろうと、それを説明してくれる宗教が必要だという説明はうなづけるものだ。人間の生活に理不尽がありつづける限り、理解不可能なことがらが存在する限り、宗教も存在しつづけるのだろう。宗教に代わる「イズム」も生き続けるのかもしれない。

宗教は、それを真理だと信じているので、そこからある種の「予期」も生れる。「信頼」を持続させるための「予期」を調達するという機能も宗教にはあるだろう。宮台氏は、「私たちにとっての世界は、起こったことや与えられたことの集積ではなく、予期によって構造化されています。世界の大半は確認したことではなく、想像したことによって成り立ちます」と語っていて、現実の社会認識は「予期」によって構成されるということを指摘している。「予期」されることというのは、実際に体験したことではなく、単純に言えば「信じられていること」で構成されているとも考えられる。これも宗教の重要性を語るものかもしれない。

この「信じる」ということの中には、他者の経験を自分の経験のように受け止めるということが入ってくる。「他者」の概念も「信頼」と「秩序」という社会の特徴に深くかかわっている。我々は、どうして他者が言うことを信じられるのだろうか。他者が嘘を言ったり、勘違いすることも大いにありうるのに、それを疑うよりも信じるほうが多いように感じる。これはどうしてだろうか。

仮説実験授業では、簡単に行える実験や、ちょっと工夫がいるけれども、その学ぶ対象の中心になるような真理を確認する実験は、それを実際に体験することによって科学の真理性を理解しようとする。その実験は、必ずしも自分で道具を操作する必要はないけれども、自分の目で見て確かめるということは必要とされている。実際の体験が真理の確信に大きな影響を与えるということがある。

しかし、基礎的なことがらを現実の複雑な現象でも確かめようとすると、大掛かりな実験装置が必要になり、しかも非常に厳密な操作も必要になる場合がある。「物とその重さ」という授業では、せんべいを細かく割った場合でも重さは変わらないということは簡単に実験できるので、このような実験が授業の中に取り入れられている。これは、細かく割ることによって物が消えたように見えても、本当に消えたのでない限り、原子の増減はないということを確認するための実験になる。

そのほか、人間の気持が重さに影響を与えないという実験では、体重計に乗ったときに力を込めてふんばっても重さが変わらないというような実験をしたりする。これなどは、体重計を準備するのがやや面倒でも、それをするだけの意義があると理解できれば、努力して実験の準備をすることになる。そのほか、水に溶かした塩が見えなくなって、消えたように見えても原子としては減っていないのでやはり重さは変わらないという実験をしたりする。

このような実験のほかに、人間が物を食べて、物がなくなってしまっても、人間の体の中に物の原子がいっしょになっていれば、その合計が体重として計られるというような実験もある。この実験は、実験装置を準備することが困難で、どこの学校でもそれを直接体験することは出来ない。そこで、このような実験は、仮説実験授業では「お話」として科学者がこのような実験をしたという文章を読むことで実験の代わりとする。

これは、それまでの実験で原子論の正しさをほぼ確認したと言えるので、子どもたちがそのような文章を読んだときも、確かに体重はものを食べた量を足したものになっているという話を信じることが出来るからだ。学んだ科学に対する信頼が、その話に対する信頼になり、他者の経験を信じるということが出来るようになる。

仮説実験授業では、他者の経験を信じる基礎には、その経験が正しいことが、それまでに学んだ科学によって論理的に帰結できるということがあるからではないかと思う。信じるための根拠があるので信じるという感じだ。このような他者の経験の受け止めは納得が出来る。しかし、かなりの部分の他者の経験の受け止めは、あまり根拠を考えずに、何となく信じているようなものも多いのではないかと思う。

ある種の権威があるから信じるというものもあるかもしれない。テレビや新聞のニュースを信じるというのは、それらにある種の権威を感じているからかもしれない。他者というのは、自分ではないということが絶対的なものとしてあるので、その経験を直接受け止めることが出来ない。だから、本来なら無条件に信じることは出来ないはずなのだが、かなり単純に信じている現象も見られる。他者という存在の難しさではないかと思う。

他者というのは、単純には自分ではないものという概念(理解)になるが、機能的には「その体験を自分の体験のように受け止めて、体験の世界を広げることが出来るような対象」と語れるかも知れない。他者の概念は、日常用語的には単純で、哲学的に考えると決して理解できない難しいものになる。機能的な理解は、その中間にあるような気がする。その機能的な理解は、「信頼」や「予期」を考える上で、概念の運用に役立つような理解になるのではないかと思う。

概念や定義というものは、それが指し示す対象の本質を抽象したものとして設定されるというイメージが以前の僕にはあった。そうでなければ、学問的な考察に値する対象にならないのではないかという気がいていた。しかし、それを実体的に捉えた場合は、それを解釈することに重点が置かれていくような気もしている。実体は観察できるので、どうしてもそれを捉えるときに解釈をするということに傾きそうだ。実体よりも機能に注目するというのは、論理として展開するということでは役立つのではないかと思う。機能は道具としては実体よりも役に立つのではないかと思う。宮台氏が語ることに、機能的な捉え方が多いのは、そのような理由によるのではないかと僕は感じている。