機能的側面から見た「制度」の概念


宮台真司氏が「連載第十一回:制度とは何か?」で語るのは「制度」という言葉の概念だ。これの辞書的な意味は、「社会における人間の行動や関係を規制するために確立されているきまり」というもので、「ルール」という言葉で言い換えることの出来るものだろう。ルールは、明文化されているものもあるが、ある種の表現で語られるものという実体的な側面を持っている。

この辞書的な概念は、そこに制度があることを判断するために観察に用いるのは便利だ。人間の行動がある種のルールに従っているように見えるところで、そのルールが個人的なものではなく、社会全体に行き渡っているように見えれば、そこに「制度」が存在することが分かる。そして、その従い方を観察すれば、具体的な「制度」の中身も観察することが出来る。観察という行為において、実体的な概念は、観察したものがそれであるかどうかという判断に役立つ概念になる。

しかし、実体概念は、それがどのような論理展開で変化していくかを見るのはなかなか難しい。実体というのは、もともと変化しない固定的な姿をしているから実体として捉えることが出来るものだからだ。実体面を見ている時は、その対象は変化せず同じものにとどまる。論理が展開する様子を反映してくれない。

それに対し機能的な側面に注目して概念を作ると、機能は関数的に他の対象に作用して、そこに何らかの変化をもたらす。「意味」の時は、その「選びなおし」や「否定性」という機能に注目して概念化した。これが、意味の選択の変化を呼び、選択接続という意味でのコミュニケーションの流れにつながってくる。そのコミュニケーションの連鎖が、システムとしてのループになっているかで、同じ選択に戻ってくるというシステムの秩序に結びついてくる。論理の展開が、システムの秩序を考える思考の展開として現れてくる。

宮台氏が語る「制度」という概念も、この前の回の講義と関連していて、「予期」という概念を論理的に展開しようとするときに、「予期 」の秩序と結びつくものとして「制度」の概念が登場してくるという関係になっている。「制度」の機能が、「予期」のコントロールに結びつき、それが「信頼」の基礎になって秩序が維持されるという論理の展開が出来るような概念となっている。

「制度」という言葉の機能的な側面に注目した定義は、「「任意の第三者の予期」について私が予期を抱いている状態のことです」と宮台氏が語るものだ。これはたいへん分かりにくい表現だ。特に、「制度」について辞書的な意味を理解している時は、この定義のどこにも「きまり」という言葉が現れないので、これがどうして「制度」なのだという気持になってくる。「任意の第三者の予期」が「制度」だと言うならまだ、それが社会的なものであるというイメージが湧いてくるが、「私が予期を抱いている状態」が「制度」だと言われると、それは何か社会性が薄れてしまったような気もしてくる。

この分かりにくい概念を、具体例を用いて説明すると次のようになる。

「例えば「警察制度がある」とはどういう状態でしょうか。「お巡りさんに訴えれば何とかしてくれる」と私が思う状態? 否。それでは単なる思い込みです。そうでなく、「お巡りさんに訴えれば何とかしてくれる」と皆が思うはずだと私が思う状態であるはずです。
例えば仮にお巡りさんに訴えても何もしてくれなかったのなら、私は単に個人的に憤ったり納得したりするのではなく、皆の思い──任意の第三者の予期──を裏切る振舞いだとして私は皆に訴え、社会的反応を惹起しようとして騷ぎまくれる。それが「制度」です。
むろん「制度」もまた別の自明性です。しかし特定の相手とのコミュニケーションの履歴が醸し出す、特定の相手に限定された自明性では、ありません。むしろ別次元の自明性を樹立することで、元の自明性を免除する機能を果すのです。」


みんなが思うということに社会的な面を見て、そのみんなが思うということを私が「予期」として抱いている状態こそが「制度」と呼ばれていると宮台氏は指摘している。この状態というのは、私が、ある種の期待はずれを感じたときに、その期待はずれを問題として解決してくれるような方向へと社会を動員する機能を持っている。

宮台氏は、例で「お巡りさんに訴えても何もしてくれなかった」という問題が生じたときを考えている。このとき、「お巡りさんに訴えたら何かをしてくれる」という私の「予期」は、私がそう思って訴えているということをおまわりさんに「予期」させて行動させるということに失敗したわけだ。私はお巡りさんの「予期」のコントロールに失敗したとも言える。このとき、社会は秩序を失ったものとして私の目に映るだろう。

このような状態のとき、社会が秩序を失ったのではなく、そのお巡りさんがたまたま間違えていたのだと思えれば、私の「信頼」はまた回復する。社会は秩序あるものとしてまた私に映ってくる。私の個人的な思いだけでは、私が憤って訴えても、それを無視されたときに私が正しいという自信が失われてしまうかもしれない。だが、私の個人的な思いではなく、他者もみんなそう思うのだという確信があれば、その訴えを聞かない相手のほうが間違っていると、断固とした自信を持てるだろう。この「制度」の概念は、そのような機能を持っているという論理展開が出来る。

この「制度」は、コミュニケーションの履歴から、他者の「予期」をコントロールしようという手間を免除させる。「制度」が存在すると確信できれば、相手がどのような振舞いをしようとも、その「制度」を頼りに自分の訴えのほうが正しいということが論理的に帰結できる。コミュニケーションによる努力をしなくてもよいという機能が、この「制度」の概念からは帰結する。

「制度」というものが社会の秩序を維持するのに役立ち、「予期」のコントロールという機能を持っているという考察は、上のような「制度」の定義から導かれる。だからこそ宮台氏は、普通はあまり表現されない、上のような形の「制度」の定義を採用したのではないかと思う。

上のような「制度」の概念の下で、それがもし失われた時はどうなるだろうかということを想像するのも興味深い。それはカフカが描いたような不安と不条理の世界を想像させるような気がする。みんながそう思うはずだと「予期」して、自分に対する不当な扱いを訴えようとしたカフカの主人公は、みんながそう思っていないことを見せられて自分がどう考えていいかまったく分からなくなってしまう。そこには「制度」が存在していなかった。「制度」が存在しない世界で、他者の「予期」をコントロールするには、個人的なコミュニケーションの連鎖でそれを相手に伝えなければならないが、カフカの主人公はそれにもすべて失敗しているようだ。

カフカの主人公たちは、「予期」がまったく利かない不条理な世界に生きている。カフカは、来るべき大衆社会というものを、よく見知ったなじみのある仲間との生活をする社会ではなく、見知らぬ・何をするか分からない・「予期」のコントロールの出来ない人々に囲まれて暮らす社会だと想像したのかもしれない。この中で「制度」的な「信頼」を調達できなかったときに、いかに不条理な世界で生きることになるかを知らせているようにも思う。

逆に言えば、「制度」が確立していれば、そこにはまだ秩序があり「信頼」があると言えるのではないかと思う。「制度」には、「予期」のコントロールの免除という機能とともに、期待はずれが起きたときにもパニックにならずに自分の正当性を主張してそれを通すことが出来るという機能もある。カフカの主人公のような不条理な目に会わなくてすむ。このことは、期待はずれへの対処の仕方が保証されているという余裕をもたらし、期待はずれが起こったときにもそれをやり過ごせるという「免疫性」をつけることにもなる。そのあたりのことを宮台氏は次のように書いている。

「先に「二重の偶発性」についてこう言いました。私が他者がどう振舞うかとビクビクしないのは、価値合意によって他者の振舞いが決まっているからでなく、他者の振舞い次第で私がどう振舞うかについての「他者の予期」の操縦可能性に、私の注意が向くからだと。
それに即せば、「制度」──「任意の第三者の予期」への予期──の存在によって、他者の振舞い次第で任意の第三者がどう振舞うかについての「他者の予期」を、自動的に当てにできてしまうので、私は「他者の予期」をわざわざ操縦する必要を免除されるのです。
加えて、営々と築き上げた個人的関係の自明性が支える予期が破られた場合とは異なり、「制度」の自明性が支える予期が破られても──例えば皆の期待を無視して猫肉バーガーを出した場合でも──、社会的支持を当てにできる分、パニックにならずに済むのです。」


「制度」というのは、大衆社会になった近代においては、非常にありがたい存在で、そのメカニズムはとてもうまく作られているのが分かる。秩序の維持には必要不可欠なものとなるだろう。この秩序が大事だと思う人間は、それを維持する機能を持つ「制度」が壊れないように配慮したくなるだろう。このことを価値観抜きに受け止めれば、「制度」というのは、秩序維持のための働きを持つもので、それが近代の大衆社会の「信頼」を生むと考えられる。

「制度」というのは大衆社会において、「信頼」と秩序が存在するところにはどこにでも見つけることが出来る。宮台氏も、「ここでいう「制度」には、法制度や政治制度のように統治権力の正統性や物理的実力を担保とするものもあれば、習俗や道徳のように慣習的伝統を背景とするものもあれば、仲間内のルールのように面識圏の合意を背景とするものもあり、大きな外延を持っています」と語っている。

「制度」がもたらす秩序を足かせのように感じてしまう人もいるかもしれない。そのような人にとっては、秩序の破壊こそが自由をもたらす価値あるもので、そのためには「制度」の破壊が必要だと考えるかもしれない。「制度」の維持を願い、それが守る秩序をよいものだと考えるのは、保守的な思想ということになるだろうが、それが正しいか間違っているかは微妙な問題だ。そうすっきりと答えを出すことは出来ないだろう。

かつて日本にあった家制度は今ではほとんど消えてしまったようにも見える。それはある種の自由に対する足かせであったことは確かだったろうが、「家制度」がなくなると、それによって守られていた秩序や安心はなくなってしまう。それがすべていらないのだと考えるのは難しい。むしろ大切な秩序は、「制度」がなくなった後にも、別の形(他の「制度」など)で守る必要もあるのではないかと思う。そのように感じる僕は「保守的」になったのだなと思うが、これは、年をとって世の中が見えてきたからではないかと思っている。「制度」については、その存続の評価を客観的に行うことが出来ればと思う。それが今は存在していることの合理性と、やがては消えてしまうことの必然性が理解できればと思う。