「言語ゲーム」の概念を機能的側面から考えてみる


宮台氏は、「連載第二〇回:法システムとは何か?(上)」の中で「ハートの言語ゲーム論的な法定義」というものを紹介している。「言語ゲーム」という概念は、これまでも何回か考えてみたが、その概念をつかむことが非常に難しい、高度に抽象化された概念である。具体性がほとんど感じられない。イメージとして思い浮かべることの難しい概念だ。

たいていの場合は、「言語ゲーム」という概念をまず理解して、その理解の基に、ハートが語った法定義の理解を試みるという順番で思考を展開していく。しかし、「言語ゲーム」の概念が難しいので、これを逆に考えて、ハートがどのような目的を持って「言語ゲーム」を利用しようとしたのかを考えて、ハートが「言語ゲーム」に求めた機能を逆にたどって、そこから「言語ゲーム」なるもののイメージをつかむようにしてみたらどうだろうかということを考えてみた。

このような理解の方向があるというのも、一度敷かれた道を後からたどる人間の有利さというものだろう。先駆者であれば、誰も考えたことがない概念を駆使しなければならないので、このような、迷路の出口から逆にたどるというような思考の流れを考えることは出来ないだろうが、後からたどるものにはそのようなことも許されると思う。コロンブスの卵は、最初にそれを発見した人間には天才性が必要とされるが、後からそれを知る人間は、単にその合理性をたどる技術があればいい。その技術を論理というものが与えてくれるのではないかと僕は思う。

さて、ハートの目的は、宮台氏に寄れば「「法=主権者命令説」に依拠すると「法内容の恣意性」を克服できず、「法=慣習説」に依拠すると「法変更の可能性」を基礎づけられません。「成員一般が受容するだろう」との期待される「手打ち」を、威嚇が慣習かのいずれかだけではもたらせません」という問題の解決だった。「法=主権者命令説」も「法=慣習説」も、どちらも不十分な定義として、そこから解決の出来ない問題が論理的に導かれてしまう。両者の不十分さを補って、この問題を解決する論理として「言語ゲーム」が利用されていると思われる。

宮台氏も、「「法=主権者命令説」と「法=慣習論」の難点を双方取り除くことを目指した法理論をH・L・A・ハートが『法の概念』(1962年)で提唱します。ヴィトゲンシュタイン言語ゲーム論を下敷きにした理論は画期的で、社会システム理論にも影響を与えました」と語っている。「言語ゲーム」という発想が、どのようにして難点を取り除いているかが発見できれば、そこから「言語ゲーム」の概念をつかむということも出来るのではないだろうか。

「ハートは法現象を「責務を課す一次ルール」と「それに言及する二次ルール」の結合だと」まず考えたようだ。一次ルールに関しては「社会成員が相互に一定内容の責務を課し合う言語ゲームがあるという事実性に対応します。ゲームの内的視点(当事者の目)には一次ルールは見えていません」と語られている。

責任というのは、行為の意味をたどることによって、その行為を選択したシステムにそれが帰属していくものだと考えていた。その行為を選択したシステムが個人としての人格システムであれば、その責任は個人に帰し、それが組織などであればその組織のシステムが責任を負う。その行為の選択というコミュニケーション(選択接続の束)が、一定のルールに従って判断されるとき、そのシステムは安定した秩序を持つだろう。このルールを1次ルールと呼ぶのだろうか。

「ゲームの内的視点(当事者の目)には一次ルールは見えていません」ということの意味が今ひとつつかめないのを感じている。当事者には、その責任が自分にあると言われたときに、そのルールに納得して責任を引き受けるということが出来ないのを指して、「ルールは見えていません」と言っているのだろうか。ここで考えているのは、紛争が発生したときの法的処理であるから、当事者が納得して自分の責任を引き受けてしまえば、その紛争は終わってしまう。何らかの法的な処理が必要だということは、当事者はその責任がどこに帰するべきかというルールが見えていないということを前提にしてもいいということになるのだろうか。

二次ルールに関しては、「「責務を課す一次ルール」が孕む問題に一定形式で対処し合う二次的な言語ゲームがあるという事実性に対応します」と宮台氏は説明している。紛争が起きたときに、互いに責任を相手に課すという行為について、どのようなときにそれができるかというルールがあるという指摘と理解していいのだろうか。

これには「相互の責務を最終確認する「承認のルール」、相互の責務を変える「変更のルール」、違背を確定して対処する「裁定のルール」」という3つがあるようだ。それぞれのルールには次のような説明がつけられている。

  • 承認のルール

「会社設立のために登記関連の法律を調べるなどの場合のみならず、判決理由で法の在処に言及する場合も、議会で修正すべき法に言及する場合も、用いられます。その意味で立法や裁判の営みは、その「内部」で「承認のルール」を前提とします。」

  • 変更のルール

「立法や裁判のゲームを支配する「変更/裁定のルール」自体の妥当性も、その「外部」に存在する、最終的に何か(憲法や皇帝の言葉など主権者の命令)を参照してルールを確認するというゲーム(を支配する「承認のルール」)によって、与えられています。」

  • 裁定のルール

「裁判は、裁定者や裁定手続や内容制限を与える「裁定のルール」に従った、二次的なゲームです。立法や裁判を含めて、現行、何が互いの責務や権能なのかを我々が確認する場合、公文書や謄本(法テクスト)を参照します。これは「承認のルール」に基づくゲームです。」


さて、このような発想で紛争処理の機能としての「法」の現象を分析すると、「法内容の恣意性」と「法変更の可能性」の両者がうまく説明できるだろうか。宮台氏は、「ハート理論は伝統的法理論の難点を克服しています」と語っているだけで、どのように克服しているかは説明していない。だからこれは自分で考えなければならないのだが、なかなか難しい。

「法変更の可能性」は、二次ルールにおける「変更のルール」の中に見られるものだろうか。もし現実の社会の中に「変更のルール」なるものが存在していて、その事実性が見つかるなら、確かに「法変更の可能性」があると言っていいいだろう。しかし、このルールはどうしてあるのかということは皆目見当もつかない。現実にそれがあるからあるのだとしか言えないような気がする。これはご都合主義的な論理展開ではないのだろうか。

この「法変更の可能性」を、権力者がそれを行う権利を持っていると考えると、権力者の意志で法が変更されるということを論理的に演繹することが出来る。そうするとこの面での論理はすっきりするのだが、今度は逆にその恣意性を克服できないという別の側面の問題が出てきてしまう。だから、恣意性を押さえるためには、人間の自然性というものが恣意性を制御するのだと解釈すると、今度はその自然性が法を変更するということの論理が展開できなくなる。

これは、結局のところ、何らかの起源があって法が生まれたという発想をすると、そこに固定的な前提を置くことによって、論理的にはそこから演繹される方向が固定されてしまうということになるのではないだろうか。現実の法的な現象は、いくらでも予想外の展開が生れる可能性があり、その多様性をすべて生じさせるようなブラックボックスを設定するのは難しい。だから、法の根拠には、何らかの固定的な起源を設定してはいけないという発想も考えられるのではないだろうか。

法は、固定的な期限によって発生するのではなく、現実に法現象が展開されているという事実性から、人々がルールを学び、そのルールが現実に合わされて解釈され変更されていくという現れが見えるだけの対象なのではないかとも考えられる。恣意性が制限されるのも、変更の可能性が見られるのも、現実にそのようなことが行われルールとして人々が承認しあうからこそそうなっているという解釈も出来るのではないだろうか。

これは一見ご都合主義的な解釈に過ぎないように見える。しかし、ある種の社会現象には起源はなくて、単に現象が見られるだけだという発想は、ご都合主義的に現実をそのまま受け取ったのではなく、いったんは形式論理的な前提を置いては見たものの、そのような機械的な解釈では解釈しきれなくなって否定された後に、このような発想にたどり着いているとも考えられる。否定なしにご都合主義的に解釈したものと、否定を経て現実を再度違う視点で受け止めたこととの違いがここにあるのではないだろうか。弁証法でいうような「否定の否定」がここにはあるのではないかという気がする。

法現象に対して、このような解釈を可能にする道具として「言語ゲーム」というものがあるのではないだろうか。「言語ゲーム」とは、ある種のルールの下になされている秩序ある人間の行動に対して、そのルールがなぜあるのかという起源は問わないで、今ある現象からルールを読み取ることで、その秩序が維持されていることを理解しようとしているのではないだろうか。

言語ゲーム」の中にいる人間の大部分は、そのルールがどのようなものであるかを知らない。ほとんどはそれは自明なものとして受け止められているのではないだろうか。そのルールは、その現象を「言語ゲーム」という捉え方をする人間にしか見えてこないのではないだろうか。

このようなイメージで考えると、「言語ゲーム」というのは、あくまでも現実に存在する我々の世界について語っているのだという気がする。もしその世界が、ある種の前提を公理的に設定して、その世界の秩序を人為的に設計して構造化できるのであれば、そこには「言語ゲーム」は見られないのではないだろうか。そこに見られるのは、数学的な論理によって証明される定理が見出されるだけで、それは構造から必然的に導かれるものになる。意外なもの・予想外のものは一つもない。何があるかを知るには、正しい論理によって思考を展開すればいいだけだ。

人間が現実に生きている世界は、特に言語によって成立している社会現象については、このような数学的モデルが通用しない、今ある秩序を発見することしか出来ない現象があるのかもしれない。そのようなものをウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」という言葉で示したのではないだろうか。もし「言語ゲーム」という言葉で呼ばれるものがそういうものであれば、それはまったく説明に困るものになるだろう。論理的に説明できる対象であれば、それは何らかの前提を置いて、そこから導かれる形で合理性を納得できるように思うからだ。「言語ゲーム」そのものは言葉で語るには困るものだ。言葉で語ることが出来るのは、そこに見出すことが出来たルールのほうだけではないだろうか。