前者の欠点を克服していく法をめぐる論理の流れ


宮台氏は、「連載第二一回:法システムとは何か?(下)」ルーマンが語る法理論について説明をしている。これを前回の流れと関連させて考えてみると、ハートの法理論が不十分であった部分を補ってそれを克服するものとしてルーマンの理論が提出されているように見える。ハートの理論も、それ以前の理論の不十分なところを克服するものとして考えられていた。この一連のつながりを論理の流れとして受け止めると、論理的には非常に興味深いものになる。

その登場する順に、基本的発想(法というものの捉え方)と、それから発生する問題点を整理してみようと思う。まず最初のものは

1 法実証主義:法は人が置く(pose)ものだとする立場、「法=主権者命令説」。
        これは「主権者による、威嚇を背景とした命令」が法だとするもの
        法内容の恣意性が克服できない問題がある。
  自然法思想:自然法=神法あるいは、人間的本性に基づく自然法という考え。
        近代の自然法論は事実上「法=慣習説」。
        この説では、近代社会で日々反復される法変更(立法)を基礎づけられない。


という二つが挙げられていた。それぞれが法現象の一側面を合理的に説明していたが、それぞれに問題点も指摘されていた。この考え方は、法現象の基礎に何か固定的な前提があって、その前提のもとに現実がある程度合理的に(論理的に)説明されると考えている。法は合理的な全体性(構造)を持っているという見方になるだろうか。

これは、どちらも整合的に説明できる部分があるものの、その前提の下では不合理も生じる。足して2で割るわけにはいかないので、この不合理を克服するには新しい発想が必要になる。そこで登場するのが、論理的な全体性が把握できるとする前提そのものを「言語ゲーム」という捉え方で棄ててしまおうとするものだ。把握できるのは現象だけであり、その現象がどのように生れ・変化していくかという事実とメカニズムの関係を記述することに努力する。まとめると次のようになるだろうか。

2 ハートの言語ゲーム論的な法定義
 法現象を「責務を課す一次ルール」と「それに言及する二次ルール」の結合だとする考え。前者は、社会成員が相互に一定内容の責務を課し合う言語ゲームがあるという事実性に対応する。後者は「責務を課す一次ルール」が孕む問題に一定形式で対処し合う二次的な言語ゲームがあるという事実性に対応する。この二次ルールに基づくゲームは、一次ルールに基づく言語ゲームを外的視点から観察し、伏在していたルールを可視化、問題に対処する。
二次ルールには、相互の責務を最終確認する「承認のルール」、相互の責務を変える「変更のルール」、違背を確定して対処する「裁定のルール」がある。例えば、立法は、立法者や立法手続や内容制限を与える「変更のルール」に従った、二次的なゲーム。


この考えは、強者が法を恣意的に解釈できないという事実に対して、そこにルールがあるという事実性で整合的に説明する。法を守らせる行為についても、そこにルールがあるということで理由を説明できる。しかし、なぜルールがあるのかということに関しては説明は出来ない。それが「言語ゲーム」というものであるように思う。ルールがそこに存在しているということがいえるだけだ。

変更に関してもルールがそれを説明する。これは、法現象がなぜそのようになっているかというメカニズムの説明には役に立つように思う。しかし、その根拠が示せないのだというのは、論理的にはあまり気持のいいものではない。現実がそうなっているからそうなのだという説明は、論理的にはトートロジー(同語反復)に当たるものだと感じる。トートロジーは確かに正しいのだが、論理的には無内容になる。法の場合は、その起源を論理的に解明することはあきらめなければならない対象だと理解しなければならないのだろうか。現実にはそのような対象が存在していても仕方がないと思われる。論理は万能ではなく限界があるものだからだ。

このハートの理論は、それ以前の理論の不備を克服したが、これでもまだ克服されない欠点があるという。それは、宮台氏によれば、

「ハートの議論は、単純な社会の法現象と複雑な社会のそれとを関係づける卓抜なものですが、難点がありました。憲法(最高基準)を参照しながら行われる変更のゲーム(立法)が憲法を如何ようにも変え得るという近代実定法的な事態を、うまく記述できないのです。
そこでは究極の承認のルールと変更のルールが円環します。かかる円環がある場合、言語ゲーム論的には単一のゲームと見做されます。ハートはこの円環を線形に引き延ばすので、変更不能な最高基準を持つ高文化の法と、そうではない実定法を区別できないのです。」


と説明されている。これの理解はなかなか難しい。法現象の二次ルールでは、紛争処理に再して、紛争当事者がそれぞれの主張の法的な理解を「承認」し、法律に照らしてどのような処理をすることが妥当かという「裁定」を納得することが必要だ。それがあれば、「手打ち」という紛争処理は終了する。このとき、時代が代わり人々の意識が変わってくると、「承認」や「裁定」のときの法律理解が変わってくる可能性がある。そうであれば、法律を「変更」するという手続きも必要になる。だが、この「変更」のルールは、近代社会ではその最高の基準としての「憲法」があり、普通の法律はこの憲法に違反しない範囲で「変更」が行われる。

しかし、現在の社会では、この最高法規としての憲法でさえも「変更」の可能性が生じている。そうすると「変更」された憲法によって、また法律が「変更」され、その「変更」に基づいて「承認」や「裁定」が行われるという、行為のループ(円環)が見られるようになる。近代社会では、憲法最高法規という意識があるのだが、ハートの「言語ゲーム」では、それは「変更」可能なほかの法律と区別がつかなくなる。この区別をつける発想がルーマンのシステム論的な法の理解だというわけだ。

「ハートは「単純な/複雑な社会」の二段階で法進化を記述しますが、ルーマン「原初的な法/高文化の法/近代実定法」の三段階」で捉えると宮台氏は書いている。どのような発想が、その捉え方を可能にするのだろうか。ハートの言語ゲーム論としての解釈では、最高法規憲法も普通の法律も、円環の中で同じ言語ゲームになってしまうのでその違いが記述できなかった。ルーマンは、これにどのような区別を与えるのだろうか。

それをうかがわせる宮台氏の言葉は、「ハートは「単純な/複雑な社会」の二段階で法進化を記述しますが、ルーマン「原初的な法/高文化の法/近代実定法」の三段階です」というものだ。ハートでは二段階になってしまうので、複雑な社会の中の区別がつかなくなる。ルーマンは、複雑な社会を二つに分けるのでここに区別が現れるということだろうか。それでは、その区別は具体的にはどのように現れるのか。

「高文化の法は、法的決定手続が法適用(裁定)にのみ限定される段階。近代実定法は、それが法形成(立法)にまで拡張される段階」だと宮台氏は語る。近代実定法がもっとも進んだ法の形として提出されている。ハートの理論も、近代実定法が出てくる以前であれば、その区別も必要なく、社会に対して整合的に適用が出来たのではないかと思われる。ルーマンは、近代実定法と高文化の法とをどのように区別するのだろうか。

キーワードとなるのは「制度化することの制度」という言葉で、これは法というものを一つの制度と考えたとき、新たな制度を確立するための制度というものが存在していると指摘できるところにある。言語ゲームとしてそこにそのような機能があることしか指摘できないというのではなく、制度としての存在を主張できる。その制度が発生した起源については言えないかも知れないが、制度として存在していることが指摘できる。

制度というのは、宮台氏の定義に寄れば、社会成員の誰もが予期として持っていると期待できるルールのことだった。これが言語ゲームのように、自然発生的に社会に存在しているのではなく、新たに制度として認めさせるような手続きが法制度の場合には見られると指摘する。つまり、法はその変更について法によって規定されているという再帰性が見られる。そして、この法によって変更された法は、それが法的手続きを踏んでいるということによって、制度としての正当性を獲得することになる。

このように法変更を見ると、法的手続きのどこかに憲法最高法規であることを記述しておけば、制度としてそれが他の法とは違うということを示すものになるだろう。そうなれば、言語ゲームとしては同じものであっても、「制度化する制度」において両者に違いが出てくるということになるのではないかと思う。

これで問題が片付いて、法システムについては終わりかと思うと、宮台氏は「彼の弥縫策的アイディアは、決定手続における「制度化の制度」が、決定の事後に予期を整合的に一般化する(制度を生み出す)とするものです。ですが、法的決定手続を「制度化の制度」と見做す彼の考えは誤りです」と語り、これでもまだ不十分だと指摘する。法律で決められていて、制度として確立するなら、誰もがその予期を持つように「一般化」されるのではないかと僕などは思ってしまうのだが、一体どこが間違っているのだろうか。

宮台氏の判断の理由は、「ルーマンは法的決定手続が予期の整合的一般化を改変するとしますが、裁定と立法が規範を示すとの新派刑法理論的発想は、大半の人々が判決や法律を知らないという伝達問題によって、裏切られます」というものだ。制度という規則の面では、その手続きで法変更がされるだろうが、「大半の人々が判決や法律を知らない」のであれば、社会成員の誰もがそう予期をするという、予期そのものが存在しないことになりかねない。それが「裏切られます」という指摘なのだろう。

論理の展開はルーマンの段階でも終わらなかった。これを最後の段階までもっていくには「決定の人称性」という概念が必要になるという。この概念がつかめたとき、ようやく法システムの論理展開は終わる。これによって法システムの秩序が保たれるということの整合性がようやく見て取れるようになる。「決定の人称性」という概念をどのように理解すればいいかという具体的な論理展開は、またエントリーを改めてじっくりと考えてみようと思う。今回は論理の流れを見て取ることで満足することにしよう。