構造主義における「構造」そのものの概念を求めてみる


僕は、構造主義における「構造」という言葉にこだわって、その概念をつかむことが難しかったが故に構造主義についてもよく分からないものというイメージでいた。これが数学的な構造、たとえば代数的構造などと呼ばれるものだったら、それほど苦労せずに理解できただろう。しかし、数学でいう構造は、わざわざ「主義」という言葉をつけるような曖昧なものではないはずだ。それは全体性を支配する基本になるものであり、それをつかんだ人間は、その数学分野における適切な公理を選ぶことが出来る。

構造主義は、主に社会科学の分野で語られたり、ソシュール言語学で語られたりしていた。だから、それが全く数学と重なるような「構造」の概念を持っているとは思えなかった。もしそうであるなら、社会現象や、言語現象などを数学と勘違いしているだけではないかと思っていたものだ。三浦つとむさんが構造主義を批判するように、ありもしない妄想の影響で人間社会が支配されているとする観念論的妄想にしか見えなかった。

数学の構造は、それが人間が構築したものであるが故に揺るぎないものとして設定できるが、現実に存在する構造はすべて現象に対するある解釈に過ぎないという感じがしていた。そのような構造を見ることにそれほどたいした意味があるのだろうかという疑問をずっと持っていた。すべてを数学として見てしまうことは、数学の抽象性に数学のすばらしさを感じていた人間としては、わざわざその抽象性のすばらしさを殺すものではないかという気がしていた。

構造主義に対してそのような否定的イメージを抱いていた僕は、構造主義がさっぱり分からなかった。しかし、内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』の中の次の文章を読んだとき、ここで語られているものが「構造主義」というものらしいと気がついたとき、それが何とも簡単に納得できて「腑に落ちる」感じがしてしまった。

「世界の見え方は、視点が違えば違う。だから、ある視点にとどまったままで「私には、他の人よりも正しく世界が見えている」と主張することは論理的には基礎づけられない。」」

「私たちは常にある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の所属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それ故、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。」


この内田さんの文章によって、なんだ構造主義というのは、今まで自分が考えてきたようなものの見方・考え方と同じじゃないかということに気づかされた。これによって「構造主義」という発想法はよく分かった。それを利用することの有効性もよく分かった。しかし、「構造」そのものは、内田さんの説明を聞いても余りよく分からなかった。それはやはり数学的な概念に近いもののようだが、それが現実の人間社会とどのような関係を持っているかというイメージが今ひとつつかみにくかった。

その「構造」そのもののイメージが『レヴィ=ストロース』(吉田禎吾、板橋作美浜本満 共著、清水書院)の第二章によって少しずつ明らかになってきたのを感じる。この本では、「構造」とは具体的なルールで語られる現象が「数学的表現といった他の表現と対応づけられるとき、まさにそれを通じて開示されるものである。それは言葉の意味と同様に、示すことが出来るだけで、語ることは出来ない何かである」と語られている。つまり、「構造」とは具体的なルールそのものでもなく、数学で表現される数学的構造でもなく、それを並べて比較してみることによって得られる共通部分のようなものとして示される(開示される)ものだ。これは次のような表現もされている。

「それは特定の表現とは別物ではあるが、かといって特定の表現とは別のどこかにある何かではないし、もちろんそれの背後にあったり、奥にあったりするわけでもない。もし、それがどこかにあるとすれば、それは当の表現自体の中にあるしかない。しかも、それは当の表現の構成部分として含まれているといったあり方ではなく、単にそこに「示されて在る」だけである。」


語ることが出来ず示されるしかないもの、というのはどこかウィトゲンシュタインが語った「語り得ぬこと」に通じるようなものだ。これはよく考えると重なるのが当然かもしれない。ウィトゲンシュタインは思考の限界を求めて考えを進めたのだが、思考の限界を確定するということは、その全体構造を確定することになるのではないかと思うからだ。思考の構造というのは、思考によって展開される論理空間の構造を明らかにすることになるだろう。しかし、その「構造」は、これが構造だと指し示すことは出来ない。それは指し示した瞬間に、構造ではなく具体的な存在になり、在るルールになってしまうからだ。構造は示すことしかできない。それをウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』という書物で示したのではあるまいか。

「構造」そのものは語り得ぬものだから、僕もその概念を直接語ることは出来ない。しかし、どのようなものかを示すことは出来そうだ。浜本さんが示してくれたものを僕なりにまとめると次のようなものになるだろうか。オーストラリアのカリエラ族の婚姻の規則は、二つの母系半族に組織され4つのクラス(バナカ、カリメラ、パリエリ、ブルングと呼ばれる)に所属している。そして、このクラスが誰を婚姻の相手にするかは次の表のように厳密に確定しているという。


       夫     妻     子供
  M1  バナカ   ブルング  パリエリ
  M2  カリメラ  パリエリ  ブルング
  M3  パリエリ  カリメラ  バナカ
  M4  ブルング  バナカ   カリメラ


夫と妻と子供は必ず違うクラスに所属しなければならない。その婚姻のパターンは表にある4つしか許されていない。ここには厳密なルールがある。だが、このルールそのものが「構造」ではない。

次にこれとよく似たルールでの婚姻の規則を見てみよう。レヴィ・ストロースはフランスの全住民が二つの家族、デュポン家とデュラン家に分かれて、婚姻はこの両家の間で行われ、子供は常に母親の名前を受け継ぐという規則を考えた。これだけでは4つのクラスにならないので、パリとボルドーに住む二つの都市のデュポン家とデュラン家について考えると、上のカリエラ族とよく似たルールが見えてくる。なお居住地を夫の住む都市にするということもルールに付け加えておく。


       夫         妻        子供
 M1 パリのデュポン   ボルドーのデュラン パリのデュラン
 M2 ボルドーのデュポン パリのデュラン   ボルドーのデュラン
 M3 パリのデュラン   ボルドーのデュポン パリのデュポン
 M4 ボルドーのデュラン パリのデュポン   ボルドーのデュポン


これは、カリエラ族の婚姻規則と「構造」が同じになっていることが見えてくるだろうか。具体的にルールとして語られる言葉には違いがある。だから、言葉の違いを越えた意味の共通する部分を見なければならない。カリエラ族の表の中の、バナカをパリのデュポンに、ブルングをボルドーのデュランに、パリエリをパリのデュランに、カリメラをボルドーのデュランに書き換えると、それが架空のフランスの婚姻規則になる。それぞれの表の中の名前は違うものの、それが表の中に占める位置は、それぞれの変換で同じ位置になる。つまり同じ効果をもたらす作用とつながる。これから構造が同じだということの理解が出来るだろう。

これを数学的な関数の表現で、「構造」というものをもっとクローズアップした表現をすると、次のようなものとしてこの本にも書かれている。息子は婚姻において夫になる人間であり、娘は妻になる人間として、その婚姻のタイプが表の一番左に書いたM1からM4間での記号で表現される。


 親の婚姻タイプ    Mi   M1 M2 M3 M4
 息子の婚姻タイプ f(Mi)  M3 M4 M1 M2
 娘の婚姻タイプ  g(Mi)  M2 M1 M4 M3


この関数の対応表が、カリエラ族でもフランスの架空の家族でも同じになる。この関数の対応表に現れた共通した同じ何かが「構造」と呼ばれるものになる。この関数をさらに、その対応だけを見てみれば、息子の婚姻タイプを対応させるfを2回続けてみるとまた元に戻ることが分かる。

   f(f(Mi))=Mi

gに関してもそれは同じだ。娘の娘の婚姻タイプを求めると、また元に戻る。

   g(g(Mi))=Mi

数学では、このように同じものに対応させるものを恒等関数といいeで表すことが多い。また、fとgは、どちらを先に作用させても同じものに写る。f(M1)=M3で、g(M3)=M4になる。これを先にgを作用させると、g(M1)=M2で、f(M2)=M4になり、同じM4になる。他でも同様になることが確かめられて

  f(g(Mi))=g(f(Mi))

になる。この関数をhという文字で表すと、この婚姻タイプの関数は、4つの元を持つ群構造を持ったものになる。どの二つの関数を作用させても、それは結局は4つのどれかと同じになる。関数を作用させるということを演算として考えたとき、この演算に関して閉じた構造を持っている。そして、eで表される関数が、この演算において単位元としての働きをする。かけ算における1のような働きをする。表にすると次のようになる


     e    f    g    h
  e ee=e ef=f eg=g eh=h
  f fe=f ff=e fg=h fh=g
  g ge=g gf=h gg=e gh=f
  h he=h hf=g hg=f hh=e


この表に現れたものを、クラインの四元群と呼ぶ。これは4つの元が従う演算規則を示した表だ。この演算の表自体が「構造」なのではない。この表を通じて示されている何か、それは頭の中にしか存在しない何かなのだが、それが「構造」なのだ。「構造」は現実には具体的なもの(実体)としては存在していない。それが「構造」の難しさだった。

「構造」は頭の中にしか存在しない。それは直接語ることが出来ないものだ。それが現実の物質的存在を作ると主張するのだから、構造主義は観念論である。しかし、この観念論は、人間社会に存在する物質に対して、そのような作用を語る観念論だ。人間と無関係に存在する自然物に対しては、それを構造が作り出すとは言わない。人間とは無関係なものをカント的な「もの自体」と呼ぶなら、「もの自体」と構造とは関係ない。それが、人間に対してある意味を持ち、人間に対するものとなったとき、それは構造が生み出した・作ったものだと呼ぶのだと思う。人間に対するものは、人間の頭を通過して、人間がそれに意味を与えて受け取る。そうでなければ人間はものを認識することが出来ない。そこにこそ構造主義が正しくなる理由があるのではないかと思う。ものに意味を与える視点こそが「体系の視点」であり、それが「構造」を示しているのだと思う。語り得ぬ「構造」の概念を、僕はこのようなものだと考えた。