人間の社会における「交換」の意味


レヴィ=ストロース』(吉田禎吾、板橋作美浜本満 共著、清水書院)には次のような記述がある。これも、ある意味ではレヴィ・ストロースのすごさを伝えるものであるが、社会という、自然科学の対象とは全く違う性格を持ったものを、どう認識するかという見方を語るものとして貴重なものだと感じた。特に、自然科学畑の出身である自分には、このような観点はなかなか持ちにくいのを感じるだけに特に印象に残った。ちょっと長いが引用しておこう。

レヴィ・ストロースは「社会」を交換の全域的なシステムととらえる。交換の価値は単にそこで交換されるものの価値ではない。それは自己とは異なるものとしての他者の存在を想定すると同時に、自己をそうした他者と結びつける行為である。区別し、かつ関係づけるその行為は、まさに言語によるコミュニケーションにも比せられべき一種のコミュニケーションなのだ。
 この交換の重要性について、再三にわたって繰り返されるレヴィ・ストロースの主張は私が以上の紹介の中では特に強調しては取り扱わなかったテーマの一つである。これが重要ではない、ということではない。私はこの主張の正しさには全く疑問を抱いていない。むしろこの主張を認めた上で、私が紹介しようとしたのは、レヴィ・ストロースが近親相姦の禁止とそれを補完する婚姻規則をこうした全域的な交換のシステムに関係づける、その仕方であった。
 近親相姦の禁止の普遍性は、人間が社会を持つという事実の普遍性と同義である。禁止はそれの裏返しでもある積極的な規定とともに、総体として、交換の全域的なシステムに対応している。もちろんこうした禁止や規定は、婚姻という個々の出来事を規制する規則である。しかし、それがすべてではない。これらの規則は、個々の出来事を規制することを通して一つの全域的(global)な体系を生成する。それらはそれらが生成する全域的(global)な体系の、局所的(local)な表現なのである。レヴィ・ストロースが示そうとしてのはこれであった。」


「「社会」を交換の全域的なシステムととらえる」のは、抽象として妥当だろうかという疑問がちょっとわいてくる。「交換」という人間の行為の一部で社会全体を代表できるものなのか。「交換」という行為こそが、人間を人間たらしめ、社会の必要性を説明する最重要なものになるのかどうか。数学系としては、このあたりに論理の飛躍がないかどうかが気になる。この論理の流れを埋めるスモールステップは発見できるのだろうか。

「近親相姦の禁止とそれを補完する婚姻規則をこうした全域的な交換のシステムに関係づける、その仕方」とは、具体的にはどのようなものを指すのだろうか。レヴィ・ストロースが「女の交換」と呼んだ婚姻規則は、何故に「交換」として理解されるのだろうか。それが社会のとらえ方と関係しているだろうことは予想できる。最初の疑問が解決すれば、このことの理解も出来るようになるだろうか。

「近親相姦の禁止の普遍性は、人間が社会を持つという事実の普遍性と同義である」という指摘は、もっとも印象に残ったものだった。論理的に考えるとこのように解釈できるだろうか。近親相姦の禁止という規制が、婚姻における「他の男の妻にしなければならない女」を規定し、そのような存在が「交換」という事実を生み出す。そして、「交換」という行為こそが人間が社会を必要とすることに結びつく。「交換」のシステムを維持する枠組みとして、社会というものが存在するなら、「交換」を生み出す「近親相姦の禁止の普遍性」(この「普遍性」という言葉が鍵だと思う)が「人間が社会を持つという事実の普遍性」と同義になるということになるのだろうか。

「交換」のためには社会が必要だが、社会の存続のためにも「交換」が必要だとしたら、これらの機能はお互いを支え合うものになる。それは、今という現実の時点で必ず観察できるものになるだろう。この事実そのものを承認するのはそれほど難しくない。しかし、お互いがこのような関係にあるということは、どちらが先かあるいはどちらが根源的かという問いを発すると、「鶏と卵」の問いのような関係を生み出す。

「交換」という事実が発生したから「社会」が生まれたのか。「社会」が発生したから「交換」が生まれたのか。「交換」の方が、偶然先に発生する可能性がありそうな感じがする。だが、人々が寄り集まって生きているという集団は、交換がなかったときにもそのような「群れ」があったような感じもする。そうであれば、その群れが社会になる方が先かもしれないという想像も生まれる。そして、この解答は、おそらく決着がつかない、想像するしかないものになるのではないかという気もする。

解答の得られない根源的な部分の思考は、とりあえずあきらめて、目の前に展開されている事実からメカニズムを考えようというのが、ある意味で社会科学的な発想のようにも見える。このあたりの発想が自然科学系とはちょっと違う感じがして、なかなかうまく飲み込めないところがある。自然科学では、力学などでは、ものに及ぶ力の作用をいろいろな多様な視点から観察をするけれど、それは根源的には万有引力の法則というものに収束していく。また、数学などでは究極的には、いくつかの公理がすべての定理を発生させるというふうに、根源的に理論を生み出す存在を見出すことが出来る。

とりあえず現状を観察して、現在成立する法則性を求めようというのは、何か抽象が中途半端な気がして、それは科学というよりも博物学という知識を寄せ集める行為のように見えてきてしまう。数学系にとっては、理論は演繹的に進められないと何かしっくりこない。

レヴィ・ストロースが語るような「体系」に対して、それを事実の観察から求めようとすれば、体系の規則に反するような例外が、現実には必ず見出せてしまうだろう。現実に存在する体系はいつでも不備が発見される。この不備を捨象して、体系を体系として認識するためには、そこに抽象(捨象)が必要である。つまり、体系を考えるにはどうしても演繹的な思考の展開が必要だ。

「体系の視点」というのは、現実を観察して、その事実を書き留め、その事実をうまく説明するような解釈を求めるという視点を捨てることを意味するのではないかと思う。むしろ、その体系の規則を確定させているような要素を見いだし、その規則を確固とした例外のないものと考え(ここで例外が捨象され、確定した規則が抽象されている)、その規則から生み出される体系の全体像の把握を目指すことが「体系の視点」ではないのだろうか。

レヴィ・ストロースが婚姻の規則をクラインの四元群と同じ構造だと見なし、それを「体系」と見たのは、クラインの四元群において要素間の関数から生み出す全体系が、婚姻関係が生み出す親族の基本構造と重なることを見たかったからではないかと思う。そのような見方をすれば、どうしたって「体系が要素を生み出す」という構造主義的な発想が生まれてくるだろう。数学はまさにそういうものだからだ。

物質的な存在が先にあって、その物質が従う法則性が観察されて、そこから現実の秩序が記述されるというのが、普通の我々の経験になる。しかし、構造主義はこの発想を全く逆にするような気がする。構造主義が見いだすのは、まずは現実の秩序の方だ。現実の全体性がある種の構造を持っていることを見出す。そして、この構造が、現実に存在している存在を作り変えていく。作り変えられた存在は、構造に適合するように作り変えられるのであるから、ある意味では法則性に従うのはもはや自明となる。

この、どちらが先行するかという問題は、おそらく決着がつけられない問題だろう。だが、一方の見方でうまく論理が展開できないときに、このような逆転の発想で違う道を探ってみると、論理は思わぬ良い方向に進む可能性が出てくるだろう。弁証法が、普通の思考ではうまくいかないときに、その否定を基に考えると行き詰まりを打破できることがあったりするように、構造主義も発想法として活用することが最も有効な活用法のような気がする。

この発想で「交換」と「社会」を見てみると、原初的な「社会」では、そこに何らかのシステムがあるというよりは、動物の群れと同じで、集団で生活しているということが基礎にあるものだと思われる。動物などでも、群れを作る動物は、たいていがボスになる一頭の雄とその家族で構成されている。原初的な「社会」は、人間でもそのように家族を単位とした群れではなかったかと思われる。だから、そこにはまだ何ら人間らしいものはなかったのではないか。

それが「交換」というシステムが生まれることにより、人間は動物を脱したのではないかという想像が出来る。「交換」をするような動物は全く見あたらないからだ。「交換」は、お互いに必要なものを相手に求め、自分にとって余剰なものを譲渡するというイメージでとらえることが多い。だが、これはすでに社会の中に「交換」という行為が確立しているときのイメージではないかと思う。「交換」そのものが発生したときには、そのような理解の下で「交換」が行われたとは想像しにくい。

原初的な「交換」は何かの偶然で発生し、それが継続的に行われる過程で、人間は社会を形成する必要に迫られ(なぜなら交換をする相手が必要だから)、それがさらに「交換」を促し、そのシステムが確立されるにつれて人間が人間らしくなっていき、社会が社会らしくなっていくという想像の方が何となくありそうな感じがする。

内田樹さんは、「交換」というものの発生に関して、自分たちの余剰に生産したものを、誰か分からない他者に一方的に譲渡するという形で発生したものと語ることがある。この、一方的な譲渡が、人間の本能的なものであるかは微妙な問題だが、贈与するというのは人間的には嬉しい感情がわいてくることも確かだ。

構造主義的な発想で考えると、社会の発生の第一歩には、何らかの原因で起こった「贈与」という形での「交換」があったのではないかという仮説は説得力があるような気がする。それは、体系として論理的な展開が合理的に行えるような感じがするからだ。

以上のような考察をすると、人間の社会にとって交換ということがいかに重要なものであるかがよく分かる。また「交換」というものも、何か物質的なものを交換するという、商品の交換のような狭いイメージでとらえるのではなく、人間が他者との関係を持つとき、その他者とのコミュニケーションをすべて「交換」という概念でとらえることが出来るのではないかとも思えてくる。言語の「交換」などは、互いのとらえている認識や判断を、言語(その意味など)を媒介にして「交換」しているとも思える。

交換のシステムこそが「社会」だというとらえ方は、「社会」というものをそうとらえた方がその本当の姿がよく見えるということなのではないかと思う。何か「社会」という実体が見えて、そこから観察の結果として体系としての「交換システム」が発見されるのではなく、体系としての「交換システム」という視点を持って「社会」を眺めるとき、「社会」の姿がもっともよく分かるのではないかと思う。そのような視点で「社会」を見ることによって、「社会」がどの方向へ行こうとしているのか、どこが間違えているのかが見えてくるだろう。

全域的と局所的という言い方に関しては、局所的といわれるものが観察可能なもので、全域的なものが体系として演繹されるものではないかと思う。「近親相姦の禁止とそれを補完する婚姻規則」は局所的に観察される交換システムであり、これが社会全域の交換システムを見出すためのステップになるというのが、「関係づける、その仕方」という言い方で伝えたかったものではないだろうか。レヴィ・ストロースのすごさを伝えてくれた浜本満さんは、レヴィ・ストロースと同じくらいすごい人ではないかと思った。