「言語の構造に支配される思考」という時の構造とは何か


内田樹さんによれば、現在の社会というのは構造主義的な発想が当たり前になってきた時代だという。我々は構造主義を知らなくとも、構造主義であればこのように発想するというような考え方を自然に持つようになっている。それは内田さんによれば次のように表現されている。

「今の私たちにとって「ごく自然」と思われている振る舞いは、別の国の、別の文化的バックグラウンドを持っている人々から見れば、ずいぶん奇矯なものと映るでしょう。(だから「ここがヘンだよ日本人」というような批判的コメントがほとんど無限に提出できるわけです。)
 それどころか、同じ日本人であっても、地域が変わり、世代が変われば、同一の現象についての評価は一変します。半世紀後の日本人から見たら、今の私たちが何気なく実践している考え方や振る舞いの方の多くは、「21世紀初め頃の日本社会に固有の奇襲」として回想されるに違いありません。
 ですから、今、私たちがごく自然に、ほとんど自動的に行っている善悪の見極めや美醜の判断は、それほど普遍性を持つものではないかもしれない、ということを常に忘れないことが大切です。それは言い換えれば、自分の「常識」を拡大適用しないという節度を保つことです。」


ここで内田さんが語っていることは、現代日本人の多くが賛成する「常識」ではないだろうか。そして、この常識は確かに構造主義的な発想から生まれてくるものだ。何らかの構造の支配によって生み出された常識であるから、その構造が違えば違う常識が生まれるだろうことが予想される。だからそれは「それほど普遍性を持つものではない」。

僕が構造主義に触れた最初の頃は、このような常識はまだなかったように感じる。だから、構造主義的な発想を自明なものとは思えなかった。それは構造主義の理解を難しくさせたが、逆に「構造主義なんてこの程度のものだ」というような短絡的な理解をする落とし穴にはまることもなかった。

構造の支配を反省的に振り返ることの多い現在では、逆にこの再帰性が「構造」というものの理解を浅くさせているのではないだろうか。「構造」そのものは語り得ないものであり見えないものだ。それが意識できたとたん、それは「構造」としての機能を失うのではないだろうか。自明だと思って、その「構造」に全く言及することが出来なかった時代は、その「構造」の支配を受けていたと言えるだろうが、「構造」が表に出てきたとき、それは構造主義的な意味での「構造の支配」が終わったということを意味するのではないだろうか。

このように考えると、「構造」というものは内田さんが語る無意識の機能としての「抑圧」というものとよく似ている。「抑圧」というのは、意識的にそれを押さえつけているのであれば、内田さんが語る「抑圧」とは概念が違ってしまう。それは、「抑圧」している本人には決して知られないという「構造的無知」というものがあって初めて「抑圧」と呼ばれる。それは無意識の作用の結果なのだ。

「構造」というのも、我々にとってそれが不可視であり、それが自明であるためにその支配を我々が感じない。「構造」が不自由をもたらしているという不自由感はない。これは、宮台氏が語った選択領域の欠如がかえって不自由感をもたらさないという指摘に通じるものだ。婚姻規則が自明なものとして人々を支配していれば、それに従うことは不自由ではないし、あえてそれに逆らうという発想は生まれてこない。構造に支配されながらも、構造を見ることはない。だがレヴィ・ストロースのように、そこにある構造が見えてしまった人間は、その構造の支配に意識的に逆らうことが出来る。もはや構造が思考や行動を支配することが出来なくなる。そうなると、その「構造」は死んだと言わざるを得ないだろう。それはもう「構造」ではなくなったのだと。

それは婚姻の規則というルールが無くなったことを意味するのではない。ルールが依然として存在していても、そのルールにあえて逆らう人間が社会の中で多数出てきてしまえば、人々はもはやそれに支配されることが無くなり、今まで支配していた構造はなくなるのだと思う。このとき、他の構造が人々を支配するようであれば、それは構造の変化を意味し、そのときはまだ社会に秩序が保たれていると言えるだろう。だが、もはや「何でもありだ」というような構造の支配そのものが無くなった状況になれば、それは秩序そのものが失われたと理解しなければならないのではないだろうか。

このように考えると、表題にあるような「言語の構造に支配される思考」という言い方は、この「構造」が意識できるようであればそれはもはや「構造」とは呼べなくなるのではないかと思う。だから、言語規範という想像の目では見えるような実体が言語の構造だと受け取ると間違いではないかという感じがする。それが見えたとたんにそれは構造ではなくなって支配が及ばなくなるのではないかと思う。そうするとあえて言語規範に逆らって自由な表現が出来るようになるはずだが、言語規範に逆らった表現は、自由どころかコミュニケーションの能力を失ってしまう。我々が言語を使ってコミュニケーションをする限りでは、言語の構造というのは我々に不可視になっているのではないだろうか。そして、言語の構造というのは、どこまでもそのようなものとしてあり続けるのではないかという感じがする。

言語規範に逆らった表現というのは、言い間違いというものや、新しい意味を付与するときなどに、そのような行為が見られる。それは無意識に行われることもあれば、意識的に行われることもある。だから、言語規範に従って言語を使うということは、言語に構造があることを示す現象の一つではあるが、これから直ちに言語規範が構造だということにはならない。それでは、言語の構造というのはどのようにとらえたらいいのだろうか。

これはそれを直接語ることが出来たら、言語の構造から自由に言語を語れることになってしまうので、そういうことは不可能だろうと思う。だからこのようなところに構造が現れるのではないかという、印を示すことしかできないのではないかと思う。浜本さんは、それを「局所的」という言葉で表現していたようだ。構造そのものは「全域的」なものであり、それが示される現象は、「局所的」に世界に現れる。

婚姻の規則の構造を見るとき、それを具体的な婚姻のルールを眺めて見るのは困難だった。全く違う名前がついている婚姻のルールでも、よく考えるとその構造は同じだと指摘できるものがあった。だから具体性に張り付いている限りでは構造という抽象的な対象は見えてこない。それは頭の中の目で本質だけを抽象して取り出さなければ見えてこない。その一つの方法が数学を利用することだった。婚姻規則を関数化して、関数の働きとしてそれを眺めるとき、そこには同じ形の働きを見つけることが出来た。そこに見られる同じ形としての働きがどうやら構造らしい。それは数学の中では具体的にはクラインの四元群として表現されてその構造が見えてきていた。

言語の構造というときにもこのような関数的な働きに注目した方法が使えるだろうか。関数として自然に浮かんでくるのは、世界の中のものの集まりが言語(表現)に対応するという関数だ。これは内田さんが語っていた「名称目録的言語観」に当たるものになるだろうか。だが、この関数は、すでに世界の対象全部に言語が当てはめられているという前提がないと関数化が出来ない。我々が知らない存在物は、永久に知られないということになってしまう。現実の言語構造の支配はそうなっていない。我々はいつでも未知なるものを発見する可能性を持っている。

これを逆にとらえたのがソシュールの発想ではないかと今は思う。ソシュールの関数は、まず言語の方から現実の対応物を見つけるというものになっているのではないだろうか。この関数は、言語規範の方が定義域にあり、手持ちの言語規範にある概念が現実世界の存在に対して、どれが概念に当たるものであるかという判断を関数として与える。だから、言語規範の方に概念がないもの、つまり定義域の中にないものに関しては関数が適用できなくなるので、現実世界の中にその概念に対応する存在も見出せない。そのような言語規範の下では、そのものが存在しないということで思考が構造の支配を受ける。

これは言語規範の中にその概念を取り込んだ人間はその構造の支配を受けない。それはもはや、知らないことで選択肢が存在しないというものではなくなるからだ。一度概念を知ってしまった人間は、その概念でしか世界を眺めることが出来なくなる。これが言語が支配する思考の構造に当たるものではないだろうか。この構造の支配は、その概念を知らない間はいつまでもつきまとう。概念を知らない人間はそれを自覚することが出来ない。無意識における「抑圧」のようなものだ。

この構造は、概念を知ったとたんに構造でなくなる。だから構造そのものを語ることは出来ない。それが、概念という知識を学ぶ過程で示されるのを見ることが出来るだけだ。だが、この構造は人間が言語を使う限りいつまでもつきまとうものであるような気がする。言語の構造による思考の支配は無くならないのではないだろうか。

現実の世界というのは、我々がそれをすべて知ることが出来ないほどの多様性を持っている。我々にとって知らない部分が必ず残るだろう。新しい概念を作り出して世界を広げる可能性がいつでも存在する。言い換えれば、新しい概念が生まれなければ、我々の知り得ない部分に関しては、我々は何も言うことが出来ないし考えることも出来ないという言語の構造の支配を受ける。

ウィトゲンシュタインは、世界を事柄として設定し、その事柄がまず全体性として存在していることを前提として『論理哲学論考』の思考を展開しているように見える。これは、ある個人がとらえた世界という意味では、その個人の有限性から、個人がとらえた世界も全体として有限なものだという発想が出来る。だから、この前提は個人の世界としてなら妥当性を持つように思う。だが、人間という種の全体、あるいは社会に生きる人間の思考が及ぶ世界ということになれば、それは最初に全体性をとらえることは出来なくなるだろう。言語が支配する構造に言及することは出来なくなるのではないかと思う。

ウィトゲンシュタインが「語り得ぬこと」といったのは、個人にとっては、個人が今知り得ている世界を越える世界に対しては、言語の構造による支配によって決して考えることも語ることも出来ないということを意味していたのではないかと思う。そして、社会全体の人間の思考の限界という点では、それを確定することが出来ないということで「語り得ない」のではないかと思う。

言語の構造は、人間が言語を使い続ける間ずっとあるものだろうと思う。そしてその構造の支配は、新たな概念の発見によって、今まで支配されていたものからの支配を抜けて自由になることも出来るのだと思う。それは、エンゲルスが語っていた相対的真理の連鎖というものに通じるような発想のような気がする。我々が現在知りうる限りでの真理は、まだ知り得ない範囲についての言及のない真理であるから、将来その部分が知られたときに真理でなくなる可能性もある。その意味で「相対的真理」である。だが、この相対性はどんどん広がっていく可能性があり、極限としての到達点では完全な真理を目指せるということになるのではないだろうか。

ウィトゲンシュタインが語る思考の限界も、この構造の支配を変えることで、思考の限界自身も変わりうるのではないかと思う。だから、語り得ぬことについては、永久に沈黙するのではなく、構造の支配を免れたときには語りうることになるのだろうと思う。本当に語り得ぬことは、決して知り得ない構造そのものについて語ることになるのではないだろうか。