論理学における仮言命題と日常言語における仮言命題


仮言命題というのは、「AならばB」という言葉で表現されるような命題のことで、Aを前件(前提)と言い、Bを後件(結論)などと言う。この仮言命題を論理学、特に形式論理学で扱う時は、AやBの内容については全く触れることはない。形式論理は、命題の内容に関係のない、命題が置かれているその位置によって論理的な意味がどうなるかを考えるものだから、命題の内容は捨象される。しかし、現実に日常言語を使って論理を進める場合は、内容を捨象した仮言命題を使うことはない。日常言語での論理の展開は、特定の内容を持った仮言命題を駆使して論理の流れを作っていく。

このあたりの違いは、論理学を専門にしていない人にとってはかなり違和感のあるものではないかと思う。日常言語とかけ離れているように見える形式論理が、それほど役に立ちそうな感じがしないというイメージもそのあたりから作られるのではないかと思う。しかし両者の違いを正しく受け止めると、形式論理というのは、単純ではない論理の流れを把握するのにかなり役に立つということが分かってくるのではないかと思う。

それを二つの側面から考えてみたいと思う。一つは、日常言語を使う時の前件肯定式と呼ばれる、形式論理における推論規則だ。これは、形式論理における妥当な推論として認められているもので、日常言語における推論では最も多く使われているのではないかと思う。

ある犯罪の容疑者として嫌疑をかけられている人は、その犯罪の犯人ではないかと推定されている。この推定が、様々な証拠からの類推によるものであった場合、その類推そのものは論理的な判断ではなく、犯人ではないという否定が出来ないので嫌疑がかけられているというものになる。この犯人に対して、アリバイが存在した時は、そのことによって犯人ではないということが論理的に帰結できる。従ってそれは他にどのような証拠があって、犯人らしいという疑いがぬぐえなくても、犯人ではないという結論をせざるを得ないほど強い結論として提出される。論理的判断の強力な面が感じられる。

アリバイがあれば、どうして犯人ではないと言えるのだろうか。あまりにも当たり前すぎてその論理構造を説明するのに苦労するかも知れないが、その前提としては、「人間は同時に二つの地域に存在することが出来ない」という命題が正しいものとして認められているということがあるのではないだろうか。この命題が正しいからこそアリバイがあれば彼は犯行現場にいなかったということが論理的に結論される。また、この命題がもし正しくなく、ある人間が同時に二つの場所に存在できたら、彼はアリバイがあるのに、同時に犯行を行うことも出来てしまうだろう。

「アリバイがある」ということは、彼は犯行の時刻に犯行現場ではないところにいたということを意味する。このとき、もし彼が犯行現場にいて犯行を行ったと仮定してみると、彼は同時刻に二つの場所に存在したことになる。そうすると、これは「人間は同時に二つの地域に存在することが出来ない」ということに矛盾することになる。この命題が正しいと認めれば、「アリバイがある」という仮定をした時に、彼が「犯行を行った」という結論を出すことが出来ない。つまり、仮言命題としては、

 「アリバイがある」 ならば 「犯行を行うことが出来ない」

というものが正しい命題だということが分かる。この仮言命題に従って、犯罪捜査でアリバイが見つかれば、その容疑者は「犯人ではない」という判断が論理的にされるわけだ。このような仮言命題の存在を意識している人は少ないと思うが、論理的な判断においては、論理的な推論と呼ばれる思考の展開は、たいていの場合何らかの仮言命題が使われているような気がする。

現実に日常言語で推論が行われる時の仮言命題は、具体的な内容を持った法則的な言明が使われることが多いだろう。つまり、法則のストックをたくさん持っている人は、それを使って論理的な判断をすることが出来る。その法則は、100%確実だとは言えなくても、ある程度の蓋然性があれば、当たらずといえども遠からずという判断が出来るのではないだろうか。

ついこの前にソフトバンクiphoneを売り出した時、その販売戦略のうまさを指摘する声があった。それは、販売個数が少ないという宣伝をすることによって、今すぐにそれが欲しいという欲求があまりない人にも、個数が少ないが故に欲求感が増すという法則性をとらえて商売に利用しているという指摘だった。そこでは、

「人間はそれが足りないという認識を持つ」ならば「それを必要以上に欲しくなる」

という仮言命題的法則が成立しているように思う。それがあふれるほどたくさんあるのなら、必要な時に手に入れればいいという感じになるが、それがすぐなくなってしまうとなれば、今買わないと手に入らないという恐れを抱くだろう。板倉聖宣さんは、安い本は欲しい時にすぐ買えといっていた。それは次に欲しいと思った時には、安いが故に市場から消えてしまうからだ。高い本なら、誰かが買うことが期待できるから、いつまでも市場に残るという法則を語っていた。

仮言命題は、ある種の法則性で語られる。これを利用すれば、ある程度蓋然性の高い未来の予測が出来る。これは論理の有効性を語るものだろう。

論理学的な仮言命題の有効性は、次の形で形式的に語られる仮言命題の利用ということで考えることが出来る。これが仮言命題について語るもう一つの側面だ。

   A →(ならば) (B →(ならば)A)

という仮言命題は、形式論理の中で成立する正しい命題になる。つまり、AやBにどんな命題を入れようとも、この仮言命題は正しくなる。AやBの内容に言及することなく、この仮言命題は正しい。これを利用するとどのような推論が出来るのか。それは「論点先取」と呼ばれる詭弁の正当性を装うのに役に立つ。

上の形式論理的命題を日常言語に解釈すると、Aということを仮定すれば、どんな条件としてBという命題を置いても、そこからAが結論できる仮言命題が引き出せる、つまり「BならばA」が成り立つということになる。これは、結論として導きたいAを仮定として置いているので、Aが成立することは仮定に置いた時にすでに前提にしている。だから、その前提の元では、どんな仮定を置こうとも、その仮定からAが導ける仮言命題「BならばA」が成立するということになる。

このとき、Aと全く違う仮定のBを置けば、その詭弁がすぐに分かってしまうが、Aと関連しているような仮定のBを置けば、何となくAが導けることが正しいような気になってしまう。レトリックをうまく使えば、この形式論理的な仮言命題は「論点先取」という詭弁を弄する時に役に立つ。

詭弁ではないが、神の存在論的証明は典型的な「論点先取」と言えるのではないかと思う。神が存在するということを証明したいのに、神の完全性の中にすでに「存在」という属性を含ませてしまっているので、証明したいことが前提の中に入り込んでいるという構造になっている。だがBとして神の完全性に関係している事柄が入り込むと、前提の中に結論が入り込んでいるということが隠されてしまう。次のような証明が何となく正しいもののように感じてしまう。

  • 1 神が完全であるならばすべての性質・能力を持つ。
  • 2 神に対して人間は不完全である。
  • 3 その不完全な人間に神の概念がある。
  • 4 これは神が完全であるが故に、神が人間にその存在を知らせているのである。
  • 5 だから神は存在する。

神がその存在を知らせるには、それがまず存在しているということが前提されなければならない。その前提は巧妙に隠されている。しかも、完全であるが故に結論されることが、全く無関係な事柄ではなくて、何となく正しいような装いをしているので、これが「論点先取」の詭弁だと気づくのは難しいのではないかと思う。何となく変だとは思うが、それのどこが間違っているかはわかりにくいのではないだろうか。

「論点先取」の詭弁で面白かったのは、小泉首相がかつて語った、「自衛隊が活動するところが非戦闘地域だ」という言明だ。この言明がおかしいというのは多くの人が感じていたが、何となくそれは笑われておしまいになった。論理的におかしいということがあまり指摘されず、笑い話にされて終わってしまった。このどこがおかしかったのかを論理的に考えてみようと思う。

この小泉首相の言葉は、イラクがひどい状況になってきた時に、イラク国内ではもはや非戦闘地域と呼べる所などどこにもないのではないかという質問に答えた時に出されたものだと記憶している。法律では、自衛隊は「非戦闘地域」でなければ活動できないことになっていた。つまり、「自衛隊非戦闘地域で活動する」という命題が正しくなるように活動するように決められていた。

論理的には、イラクのある地域に対して、自衛隊が活動しているか否かに関係なく、自衛隊が活動を開始する前にその地域そのものが「非戦闘地域」であるかどうかを判断して、「非戦闘地域」であれば自衛隊が行けるのだというふうに考えなければならない。それが論理的な判断だ。

ところが小泉さんは、自衛隊の活動とは独立に判断しなければならない「非戦闘地域」という概念を、自衛隊が活動しているという事実から引き出そうとしていた。そこが「非戦闘地域」であることは、自衛隊の活動とは無関係に判断しなければならないのに、すでに「非戦闘地域」であると判断された結果としていっているはずの自衛隊がいることを理由にそこが「非戦闘地域」であることを引き出していた。これは、証明すべき「非戦闘地域」という判断を、自衛隊がいるということで、前提にしてしまっていることになる。

この詭弁は、分かりやすくいえば、「そこは非戦闘地域だから非戦闘地域なのだ」と言っていることと同じになる。そのようにあからさまに表現すれば、これがあまりにもひどい論理だということがすぐ分かる。だから、多くの人があきれてしまったのだろうと思う。だが、この非論理的な答弁を、マスコミも多くの日本人もただ笑うだけで済ましてしまった。小泉首相は、論理的な言い方は下手だったが、レトリックとしての演技はうまかったのかも知れない。だが、多くの国民がその非論理を問題にしなかったのは、日本全体の非論理性として記憶にとどめておかなければならないのではないか。

仮言命題は、論理の流れの正当性を示すことも出来れば、詭弁をごまかすことに利用することも出来る。正当性を理解し、詭弁にごまかされないために、仮言命題を深く知ることが大切ではないかと思う。